3話【おもてなし御膳】
ポカポカとお日さまの下でお茶をする時間は極楽だ、と言って笑う婆ちゃんの嬉しそうな顔を見ると安心する。
今いる場所が間違いじゃないんだ、と手探りながらも歩いている道に自信が持てる。
老人ホームに入るつもりで、それまでやっていた食堂を売った婆ちゃん。
覚悟を決めた婆ちゃんの気持ちとは裏腹に、生まれ育った商店街に連れて来た俺の考えは間違いじゃなかった。
前の店は食堂だったが、これからは休みながらゆっくりと菓子を作ったりするように、と小さな茶屋にしたこともまた、正解だったようだ。
旅行もしたことのない婆ちゃんを、いろんな場所に連れて行きたくて始めた出張・キッチンカーも、平均したら月に八回くらいは予約の電話が入る。
それ以外は寄居商店街の茶屋、結屋で幼なじみたちと一緒に、極楽極楽と笑いながら耳揚げ菓子を口にする。
この町に来てから、俺と婆ちゃんの家族になった守も、寄居商店街の生活に満足しているようだ。
「賢人、土曜の予約だけど」
「ああ、大丈夫だ」
料理学校で知り合った守は天涯孤独だ。婆ちゃんは守に三人で暮らそうと言い、守はコクリとうなずいた。
「賢人、買い物に行こうかね」
出張・キッチンカーは平日の予約も休日の予約も決まりがない。
休みの日に懐かし料理を食べたい人や、突然、寂しくなって誰かと話をしながら楽しく食事をしたい人が予約をしてくれるからだ。
今回のお客さんは少し様子が違う。
通常、予約の後でメールが届く。
思い出のエピソード、食べたいもの、誰と食べたいか、などだが。
「婆ちゃん、大丈夫か?」
「何がだね」
「何を作ればいいか、わかんねーよ」
「ふふふっ」
「な、なんだよ気味わりーなぁ」
婆ちゃんには何か考えがあるようだった。
メールには食べたいものが書いてなかった。
※結屋さまへ
五十数年と言う長い時間を家事に費やして参りました。
(勇気をご馳走になりたいです……)
結屋さま、紅葉が綺麗です。
お楽しみくださいませ。
これだけだった。
「結婆、やっぱ、ウナギじゃねぇ?」
「うなぎ屋に行けばいいが」
「じゃぁ、肉は?」
「焼肉屋」
「じゃぁ、ニンニク」
「ドラゴン」
「マジかぁ」
婆ちゃん、ニンニクはドラキュラ、と言ったつもりだろうが、それは好きなものじゃなくて苦手なものだ……
全く気づかない守もかなりヤバい。
元気じゃなくて勇気が出る料理。
勇気を出すのに必要なものは……
「あっ、」
「何? なんだよ賢人」
「いや、べつに」
俺はひらめいたような気がしたが、すぐ冷静になり口にするのをやめた。
勇気を持ってチャレンジするとき、人は勢いよく思い切ってやる。
スーパーのレジで、勢いください、と言ったところで、あるはずがない。
「結婆、うちの夕飯用か?」
「守、玉子を持って来ておくれ」
カゴの中には、ジャガイモにタマネギに白滝に納豆に、と普通の食卓に並ぶ材料ばかりが入っていた。
今回は紅葉が綺麗です、と言うことが書いてあったことに期待している。
紅葉を愛でる時間もなかった婆ちゃんを楽しませてあげられるからだ。
土曜日は朝から鼻歌混じりでご機嫌なようすだ。
そんな婆ちゃんを見ているだけで嬉しくなってくる。
「守、荷物頼むぞ」
「旅館は?」
「予約したよ」
「よしっ」
守と俺から婆ちゃんへのプレゼントだ。紅葉の坂を上がると絶景旅館で豪華な食事と温泉が待っている。
指定された場所に車を止める。
婆ちゃんと変わらない年代の女性が待っていてくれた。
「結でございます」
「志乃でございます」
志乃さんが待ち合わせに指定して来た場所は平屋造りの庭付き一軒家だった。
駐車するスペースが広いため、そこでキッチンカーを開いた。
「あっという間にお店が出て来たわ」
「志乃さんもやりましょ」
俺の誘いを婆ちゃんが止めた。
「賢人、志乃さんをテーブルに」
志乃さんはキッチンカーを初めて見たのかワクワクしていた。
「志乃さん、こちらへ」
婆ちゃんは志乃さんをキッチンカーに入れないし手伝いもさせない。
ハーブティーとクッキーと一冊の本を手渡した。
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」
婆ちゃんからは想像もつかない言葉が志乃さんに向けられた。
「あ、はい……」
いつもなら一緒に作り話をしながら時間を過ごすのだが。
「婆ちゃん、何したらいい?」
「メモ通りにしておくれ」
守用、賢人用、とメモを一枚づつ渡された。
最初から志乃さんにティータイムを楽しんでもらうつもりだったようだ。
婆ちゃんは食堂をやっていた頃のように手際よく無言で料理を作った。
「お待たせ致しました」
「まぁ、いい匂いだわ」
どれもこれも珍しい物ではない。
舞茸キノコのおっ切り込みうどん、たらの芽天ぷら、油揚げの納豆包み、肉じゃが、味噌焼き茄子の油炒め。
そして、出し巻き卵に塩おむすびだ。
「お、美味しい……」
「ゆっくり、ゆっくり食べましょう」
「結さん」
志乃さんは一口づつ、ゆっくりと食べながら何かを思い出すように話し始めた。
私はね……
夫に尽くして子どもに尽くして、気付いたらお婆ちゃんでした。
それでもよかったんです。
婆ちゃんは話に相槌を打ちながらも志乃さんの心に一歩踏み込む。
「今は、よくないかね」
「無いものねだりは許せないわ」
志乃さんは強く力のこもった目で婆ちゃんを見ていた。
「じゃ、問題ないがね」
「えっ?」
「志乃さんが捨てたんだがね」
志乃さんは少し考えるような仕草をしてから突然、笑った。
「そうよ、そうだわ」
「志乃さん、味噌茄子はどうかね」
「うん、凄く美味しいわ、いいお味」
初対面の印象とは違い、顔の引きつり感もなくなり楽しそうに食べながら話をする志乃さんは言った。
「何も出来ないの……」
「みんなそうだがね」
「とても遅いのよ」
「丁寧なんだがね」
「人の手を借りてしまうの」
「ありがとうって言えばいい」
志乃さんはポロポロと涙を流しながら話を続けた。
「いいのかしら」
「いいさね」
「大丈夫かしら」
「大丈夫だがね」
「結さん」
志乃さんは五十年も大切にして来た家族から離れようとしている。
年を取ったお婆さんが世の中にどんな扱いをされるのか、不安に押しつぶされそうになっていた。
夫に守られて主婦として生きて来た自分には、仕事も友人も自信もないと嘆いた。
勇気が欲しかったの……
婆ちゃんはあえての家庭料理を作って出したようだ。
「結さん、本当に美味しいわ」
「作ってもらったからだがね」
「えっ?」
「これも、復讐だがね」
婆ちゃんは言った。
誰かに作って貰った料理は上げ膳、自分では何もせずに食べられるから美味しいのだと。
今、志乃さんが何もせずに美味しい物を食べた感動、その感動を旦那さんは五十年も味わって来たのだ。
「そうね、確かに復讐だわ」
「残りの人生は後悔だけだろうね」
若い女の人に熱くなるのは一瞬だ。五十数年もの長い時間をかけて育てた胃袋は、日々、泣きながら生き続けることになる。
残りの人生を泣いて過ごすのは夫であり、志乃さんではない。
誰かのためじゃない志乃さんのために生きて欲しいと婆ちゃんは言った。
「美味しい料理と勇気を頂きました」
「志乃さん、自信を持っていいさね」
「結さん、ありがとう……」
志乃さんは、長い間のおもてなし人生を終える勇気を手にした。
自分のために作ってくれた婆ちゃんの上げ膳料理に胃袋を温められて元気な顔で見送ってくれた。
美味しいのは誰かが作ってくれたから、と言った婆ちゃんの言葉が耳に残った。
俺は婆ちゃんの上げ膳料理で育ててもらった。
俺の胃袋は温めてくれた人を泣かせたりはしない。
「賢人、ここは?」
「守と俺からのお祝いだ」
「何のお祝いだね」
「まぁまぁ、結婆、入ろうぜ」
守に背中を押され、婆ちゃんが旅館に入って部屋のドアを開ける。
「結婆、古希、おめでとう」
(パチパチパチー)
「みんなが、みんなが来たんかい」
「うん、来たよ」
婆ちゃんはどんな豪華な料理よりもプレゼントよりも、きっとみんながいたら嬉しいと思うから…
「賢人、守、アタシは幸せだがね」
「まだまだ、これからだからなっ」
幼なじみのみんなと一緒に古希を祝いたい、と夏生やサクラたちと計画していた。古希祝いの家族旅行だ。
「賢人さん、大成功ね」
「渚、いろいろありがとなっ」
「こちらこそ、ありがとう」
婆ちゃんありがとう……。