表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
となりの花鳥風月  作者: Fennel
9/10

八章:天地

八章:天地


 穂高は気がつけば自室の布団の上で目を覚ました。あれからどうやって家に戻ったのかも覚えていない。いつの間にか寝巻きに着替えていたが、それすらも記憶になかった。穂高はベッドに寝転がりながら昨日のことを思い出す。

「夢……?」

 穂高はベッドから慌ただしく飛び起きると、窓を開き周囲を一望する。視界に入るのは雲ひとつ無い晴天に、気持よさそうに飛ぶ鳥たちの群れ、そして風に揺れる木々。穂高は瞳を閉じてしばし窓の前でたたずむと、動揺した様子で呟いた。

「声が……聞こえない?」

 穂高は手早く着替えると、朝食も取らずにそのまま家を飛び出した。登校時間にはまだ早く、穂高は一目散に極楽寺の切り通しを目指す。

「八百里! いるんだろ? 息吹! どこだ?」

 しかし穂高に応える者はおらず、穂高の声だけが周囲に響く。それでも穂高は続ける。

「くそっ! どうしちまったんだ? なんで……なんで皆黙ってるんだ?」

 初夏の香りが周囲に充満し、草木は風に揺れている。穂高はゆっくりと瞳を閉じたかと思うと、震えながら自らの手を眺め、そのまま力なく膝から崩れ落ちた。

「ちがう……皆が黙っているんじゃない……。俺が……聴こえなくなったんだ……」


 穂高は力なく街を歩いていた。既に日は高く上り、真昼間から制服姿の少年が一人で街をうろついている様に通行人が一瞬怪訝な表情をするが、この街には訪れる修学旅行生も多く、穂高もそのうちの一人だと思われたのか大事には至らない。成就院の紫陽花、佐助稲荷の狐たち、段葛のツツジ、穂高は馴染みの場所をくまなく回った。

「ここにもいない……紫陽花たちも何もしゃべらない。分からない……こいつらが何を考えているのか、俺にはこいつらの声が聴こえない……」

 紫陽花を前に呆然と立ち尽くしていた穂高であったが、何かに気がついたのか、突然急いで自転車に乗り込みどこかに向かって走りだした。

「ここなら……」

 穂高が向かったのは、以前紫陽花とツツジの花を摘んでいた少年の母親の病室である。穂高が病室の外から中を覗くと、少年が大きな声で何やら叫んでいるのが聞こえた。

「あー! お母さん! お花が枯れてる!」

「あら、ほんとね。でもどうしたのかしら? 昨日まであんなに綺麗に咲いていたのに……」

「きっとお母さんの病気が良くなったから、もうお花は頑張らなくていいと思ったのかな?」

「ふふっ……そうかもね。お医者様もあと一ヶ月くらいで退院できるとおっしゃっていたし。この子たちのおかげだわ。お礼をいいましょう」

 にこやかな親子の会話とは裏腹に、穂高は目の前が暗くなっていくのを感じた。

「俺の力が消えただけじゃない。息吹の力も消えた……? どういうことだ? 息吹が言っていたように八百里が狭間の門を閉じたのか? あいつが楔になるために……そんな馬鹿な!」


 その後、まるで幽鬼の様に病院を後にした穂高は一人海を眺めていた。潮の香りが頬を撫で、穂高は思わず瞳を細める。

「……何となく分かってたさ。あの瘴気を流す力は楔に宿ったかつての俺の魂の残り香。俺は……門として目覚めていなかった……」

 穂高は続ける。

「息吹が言っていた。八百里は自らを楔にして、瘴気が漏れないように狭間と現世の門を閉じると。そして八百里は世界を閉じ、綻びに永劫縛られる。俺には……八百里が閉じた世界の門を開く事はできない……。開いたとしても楔がなければ八百里を救えない……」

 陽光を受けて海面が七色に輝き、穏やかな日差しが周囲に降り注ぐ。穂高はその光景に小さく笑みを浮かべると、苦しそうに呟いた。

「……世界は美しいな。これがお前が守りたかった暖かい世界か。こんなの……こんなの……あんまりだ……。お前がいない世界なんて……八百里……」

 穂高の瞳から一筋の涙がこぼれ、頬を伝わっていく。砂に落ちた涙は瞬く間に吸い込まれ、跡形も無く消えていく。穂高の世界は残酷な程美しかった。


 傾いた太陽が水平線に沈み、海面が黄金色に輝いている。穂高はゆっくりと立ち上がると服についた砂を払い落とす。穂高はおもむろに靴を脱ぐと裸足で渚を歩く。引いては押し寄せる波が足跡をかき消し、その光景に穂高は小さく呟いた。

「八百里……息吹……みんな……。何も聞こえねえ……何も見えねえ。あったはずの全てが、この足跡みたいに消えちまう……俺は……」

 気がつけば穂高は稲村ケ崎の海岸にいた。かつて八百里と訪れた黒い砂浜を前に穂高が思わず足を止める。思い出すのは八百里の笑顔。三人で過ごした日々。穂高は小さく体を震わせると、突然膝を付く。呼吸は荒く、目も泣きはらしたせいか赤く充血している。

「違う!」

 突然穂高は何かに気がついたのか、砂を握りしめながら叫んだ。

「……俺は楔を手に入れる前から八百里たちが視えた。木々の声が聞こえた。楔はかつての俺の魂の破片。楔が消えただけなら瘴気を流す力は消えても以前の俺の力は残っているはずだ」

 穂高はゆっくりと立ち上がると自らの手を見つめながら続ける。

「八百里の言葉を思い出せ! 森羅万象の声、それは魂の言葉。すなわち狭間の理。八百里が門を閉じた今、狭間の世界に触れることはできなくなった。だから俺には狭間の声が聞こえない。でも、現世の理なら俺の力は通じるはずだ!」

 穂高の瞳に強い光が宿る。

「そして楔はかつての俺が現世で作った鉄の杭。ってことはそれにまつわる記憶がこの現世のどこかに必ず残っているはず! なら楔は作れるかもしれねえ! 俺は……お前らを諦めねえぞ! 八百里!」


 穂高は夕暮れの街を歩いていた。

「まずは八百里が現世と狭間との門を閉じただけなのか、それとも俺の力が完全に消えたのか確認しなきゃなんねえな。狭間に入れないとしても、これなら……」

 穂高はそう言うと、商店街の和菓子屋の看板に手を触れる。見るからに古いその看板はところどころ文字が消えており、店構えと相まってその年季がうかがい知れる。穂高がゆっくりと瞳を閉じると、目の前にかつての商店街の景色が浮かび上がる。

 それは看板の見てきた記憶。雨の日も、雪の日も、ただの一日も途絶えること無くその看板は店の前にあり続けた。行き交う人々、その笑顔。看板が見てきた全てが穂高の脳裏に再生される。穂高はゆっくりと瞳を開くと小さくうなずいた。

「物に宿る記憶は現世に残った想いの残滓。俺はこうして物の記憶に――現世の理に触れる事ができる。それらが指し示す事はただ一つ。俺の力はまだ残ってる!」

 穂高は空を見上げて力強く語る。

「待ってろ……八百里。絶対に……お前を助けてみせる」



 翌朝、穂高は再び山桜の元を訪れていた。

「八百里は楔の作り方は教えてくれなかった。息吹は作り方を知らなかった。ならばやることは一つ。どこだ? どこに楔に関する記憶がある?」

 穂高は周囲を見渡すと、疲れた表情で桜を後にする。

「さすがに数千年も前の記憶なんてそうそう残っちゃいないか……。あったとしても八百里に関する記憶なんざ出てこねえ。八百里が偶然触った石でも見つけりゃ話は別なんだけどな……って、石か!」

 石切り場に来た穂高は額の汗をそのままに、崖の麓中腹にある大きな一枚岩を睨む。

「ここは夢で何回か見たな。……かつての俺と八百里がよくここに座っていたっけ」

 そう呟いた瞬間、穂高は視界の端に何かを見つけて思わず瞳を見開いた。

「あれは……まさか……」

 穂高はそう言うや、石切り場の崖を登りはじめる。

「あれは……八百里の櫛! だがどうして……? そうか……あれは石を削り出して作ったもの。つまりあれは現世の物! だから狭間が閉じてもこっちの世界に残っているのか!」

 穂高の見つめる先には、岩の間に挟まっている灰色の櫛があった。八百里の櫛――それは八百里たちが消えたこの世界に残る、彼女たちが存在したことを示す唯一の証。

「くそっ……あと少し……」

 穂高が岩にしがみつきながら、苦しそうに櫛に手を延ばす。

「よし!」

 穂高の手が櫛へと届いた瞬間、穂高のつかんでいた岩の一部が崩れ、穂高はそのまま崖の下へと滑落した。穂高は不思議と恐怖は感じなかった。その手には櫛が握られ、穂高の体はゆっくりと落ちていく。同時に穂高に櫛に宿る記憶が流れ込む。


 景色が反転し、穂高の目の前にどこかで見た景色が拡がっていく。そこが昔の石切り場だと気がつくのにそう時間はかからなかった。そして穂高の目の前に、岩の上に座り込む美しい女性――八百里の姿があった。

「八百里!」

 穂高が思わず叫ぶが、その声は八百里には届かない。八百里の隣には青年が座り、二人は楽しそうに談笑していた。青年はおもむろに服の袖から灰色の櫛を取り出すと、おぼつかない手つきで八百里の髪に挿す。八百里は嬉しそうに頬を染めてうつむき、青年はそんな八百里を前にほほえんでいた。

 八百里は櫛に手をあててほがらかに笑い、一方の青年は照れくさいのか頭をかいている。

「これが……あの櫛の記憶……」

 穂高が呟くと途端に景色が切り替わる。草が覆い茂る山中で、先ほどの青年と八百里が並んで立っている。二人の目の前の光景に、思わず穂高が声にならない悲鳴をあげる。

「っ!」

 そこには空を覆い尽くすほどの凄まじい密度の瘴気の渦が荒れ狂う大蛇のようにうごめいていた。複数の巨大な瘴気の渦が空を埋め尽くし、その光景に思わず穂高は絶句した。

 すると八百里がおもむろに手を天に向かってかかげた。その瞬間、八百里の上空から眩いばかりの光がまるで雨のように降り注ぎ、空に充満していた瘴気は一瞬にして霧散する。しかし二人の前方にはまだ数本の瘴気の竜巻が暴れていた。

 今度は青年がゆっくりと歩き出し、おもむろに竜巻に向かってゆっくりと手を振るう。その瞬間、大地が眩く輝いたかと思うと、地面から天に向かって光が立ち上り、光は瘴気を飲み込みながら空の彼方へと消えていく。その光景に穂高が思わず小さく呟く。

「あれがかつての”俺”か……。しかし凄まじいな……まるで八百里みたいだ……」

 八百里と青年は一瞬見つめ合うと小さくうなずき、二人は瘴気に向かって手を掲げた。その刹那、空と大地が眩く輝き、まるで天地を挟むかのように周囲一帯を凄まじい光の奔流が荒れ狂う。光は瞬く間に瘴気を飲み込んで流し去っていく。光が消えた頃には、周囲に充満していた瘴気はことごとく消え去り、周囲に静寂が戻る。

 穂高はその光景に思わず小さく息を呑む。すると再び景色が移り変わり、穂高の目の前には見知らぬ渓谷が広がっていく。谷には瘴気が溢れ、その中に八百里と青年の姿が見える。瘴気は二人の力によって瞬時に消え去るが、再び地面から湧き出て周囲に充満する。その光景に二人は苦しそうな表情を浮かべ、ひたすらに瘴気を流し続けていた。

 景色が再び移り変わり、今度は二人が何やら地面に絵を描いて話し込んでいた。二人の表情は固く真剣そのものであった。穂高は地面に描かれた絵を見て思わず言葉を漏らす。

「あれは……あの絵は……まさか楔か!?」

 その瞬間、再び景色が流れ、穂高の前には八百里と青年が立っていた。八百里がほほえみながらその髪に挿した櫛を青年に渡すと、八百里はそのまま景色に溶けるように消えていった。八百里を見送った青年はそのまま近くの小屋へと向かう。

 小屋の中には小さな炉があり、その中は橙色に燃えていた。青年は炉の横に腰を下ろすと傍らに置かれた砂を炉に入れ始めた。それから数日、八百里は戻らなかった。

 青年は必死になって何かを打ち鍛えていた。穂高は瞬き一つせずその光景を食い入るように眺め、そして同時に理解した。青年が打ち鍛えているものこそ楔であることを。そして楔とはどのようなものなのか、何故八百里が自分に楔の作り方を伝えようとしなかったのかを。

 穂高は放心した様子で小さく呟いた。

「そうか……そういうことだったのか……」

 穂高が呟いた瞬間、突然小屋の扉が開き、八百里が血相を変えて中に飛び込んできた。八百里を見て青年が口を開いた瞬間、世界がゆっくりと暗転した。

 穂高は瞳を閉じる。その瞬間身体に激痛が走り、世界が揺れるような感覚に襲われる。

「……いてえ。そういえば石切り場から落ちたんだっけ……。よく生きてんな……俺」

 穂高は櫛を抱えたまま崖の麓に倒れていた。途中、木々の枝が落下の勢いを殺し、穂高は奇跡的に無事であった。穂高は何とか立ち上がろうとするが、滑落の衝撃からか、体が全く動かない。観念したのか穂高はそのまま大の字で寝転がりながら空を見上げて呟いた。

「……そりゃ俺には言えないよな。だがこれで楔は作れる。待ってろ……八百里」

 その瞳には溢れんばかりの決意に満ちていた。

 しばらく倒れていた穂高であったが、体が自由を取り戻すとゆっくりと立ち上がる。幸いにして重篤な怪我は無い様子に穂高は安堵のため息をつき、櫛を見つめて呟いた。

「『流す』事とは本来あるべき場所に還す事。だからこそ、かつての俺は海から砂鉄を集め、楔を作った。海には流す力が宿っている。『流す』という意味を楔に持たせることで、そこに宿る門の力をより強くすることができる……か」

 穂高は続ける。

「楔の形はどうでもいい。大切な事は穴を穿つという意味。それが綻びを穿ち、その穴は隠世へと通じる門となる。砂は既にある。俺もここにいる。全てが揃っている。ならば……楔は、作れる!」

 穂高の声が静かな森に響き渡る。


 自宅に戻った穂高は家の裏手に回り、干してある砂鉄を眺めながら小さく呟く。

「まさか八百里と一緒に採ってきたこの砂鉄を、こんな形で使う事になるとは思ってもいなかったぜ。砂鉄は十分にある。後は製鉄炉か……前に確認したから大丈夫だとは思うけど……」

 穂高はそう言うと、物置に向かう。

「よし! 七輪は大丈夫だな!」

 物置の棚の上には同じ形の七輪がいくつか並んでおり、その隣には大量の炭が積んである。穂高はそのまま物置の奥を漁ると、大きな機械を手にして笑みをこぼす。

「落ち葉集め用のブロワー(送風機)もあると……」

 穂高は七輪を両脇に抱えて裏庭に回ると、七輪の上にもう一つの七輪を上下逆さまに重なるように乗せる。そして再び物置に行くと、バケツと石膏を抱えて戻ってくる。

「こんなんじゃ長時間は保たない。だけど一晩、一晩だけ保てば簡易的なたたら製鉄炉としては十分だ」

 穂高はそう言うと重ね合った七輪の片方の底をくり抜き、その側面にも穴をあける。そして側面の穴に金属の煙突を介してブロワーをつなぎ、スイッチを入れる。機械音がけたたましく鳴り響き、勢い良く風が七輪の中に流れ込む。その様子に穂高は満足そうにうなずいた。

「これで、隙間を石膏で埋めれば終わりか……。……って、俺……震えている……のか?」

 自分でも気が付かなかったのか、穂高の体は小刻みに震えており、震える手を眺めて困惑した表情で呟いた。

「ははっ……そりゃ……怖いよな……。俺だって死にたくねえよ……」

 震える手を必死に抑えながら穂高が自分に言い聞かせるように呟いた。

「……だけど……俺しか八百里を助けられないんだ。……あいつは無限に近い時間の中で綻びに縛られ続ける。そんなの……そんなの……放っておける訳ないだろ」

 穂高は震えながらシートの上に広げられた砂鉄を眺める。思い出すのは八百里との日々。穂高は両手で頬を勢い良く叩き、自分に言い聞かせるように呟く。

「大丈夫……ちゃんとやれる。俺がやらなきゃ……俺が八百里を助けるんだ」

 初夏の強い日差しが穂高に向かって降り注ぎ、時折吹く山からの風が穂高の髪を揺らす。穂高の瞳にもはや迷いはなかった。

「……本当は自分用の切り出し刀を作りたかったんだけどな。またいつか、『俺』と出会えたら砂鉄運びを手伝ってもらうからな、八百里……」

 穂高はそう言うと、炭を七輪に入れて火を点ける。徐々に炭に火が付き、炉の中は柔らかい茜色に染まる。それに合わせるように穂高が炭を放り込み、側面に設置されたブロワーのスイッチを入れる。けたたましい音と共に風が勢いよく炉に流れ込み、炭が激しく燃え上がる。

 それを確認した穂高は大量の炭と共に集めた砂鉄を少しずつ炉の中に放り込んでいく。照りつける日差しが穂高を焼き、炉から放出される熱がさらに周囲の温度を引き上げる。穂高は額に汗を滲ませながら無言で炭を放り込み、続いて砂鉄を加えていく。

 穂高はただ無心で砂鉄を入れ、炭をかぶせていく。ゆっくりと瞳を閉じると、瞼の裏に八百里たちの姿が浮かび上がる。

「待ってろよ、みんな……」

 炭は煌々と燃え上がり、時折舞い上がる火の粉がまるで蛍の様に周囲に踊る。

 陽は傾き、空は茜色から灰色に染まる。宵の空には上弦の月が浮かび、星影が穂高に向かって降り注ぐ。その日、炎はついぞ絶えることは無かった。


「できた……か」

 穂高は疲れきった表情で空を見上げる。既に夜は終わり、朝焼けが空を焦がす。穂高は裏庭に大の字で寝転がると、その手に握る小さな黒い塊を見つめて呟いた。

「……これが……玉鋼。ついに……ついにできた。これで八百里を……助けられる!」

 穂高は空を見上げながら続ける。

「ははっ……震えてやんの。……大丈夫……大丈夫だ。きっとうまくできる……」

 穂高は手に持つ黒い玉鋼を見つめながら、自分の手が小さく震えていることに気がつく。

「……八百里は自分が全てを背負って楔の代わりになった。今度は俺の番だ。俺一人でもやってみせる。うまく行ったらいつもみたいに笑ってくれよ……八百里……」

 穂高は震える手を抑え、空を見上げながら小さく呟いた。


**


「こんな朝からどうしたの、サボり魔の穂高くん?」

 穂高は玉鋼ができるや朝食もとらず、そのまま宗源の元を訪ねていた。穂高の姿を見るや棗は小さく瞳を細め、からかうようにおどけてみせる。

「昨日は……ちょっとな。それよりも宗源さんはいるか?」

 穂高の今まで見せたことのない真剣な表情に、棗が一瞬息を呑むと小さくうなずく。宗源は朝の珍しい来客に一瞬驚くが、穂高のいつもとは違う様子にゆっくりと瞳を細めた。

「……とりあえず話は聞くぜ。奥に来な」


「切り出しを打ちたい? 削り出しじゃなくてか? ……って穂高、お前面白いものを持ってるじゃねえか。こんなもん、一体どうしたんだ?」

 穂高が宗源に玉鋼を手渡し、宗源はそれを食い入るように見つめる。しばし玉鋼を眺めていた宗源が突然首を横に振ると、穂高に向かって語り出す。

「……こりゃあ買ったもんじゃねえな。粗すぎるし汚ねえ。ゴミが多過ぎるぜ。ってことはお前ついに……」

「ええ……それは俺が昨日砂鉄から作った玉鋼なんですよ。さすがに炉の温度が足りなかったので、その辺は仕方ないかなと……」

「それで昨日学校を休んだんだ……。何をしているのかと思ったら……穂高くんってば」

 宗源が驚いた様子で穂高を見つめ、二人のやりとりを聞いていた棗が呆れ顔で呟く。穂高は宗源を一瞥すると小さくうなずき、そんな穂高を見て宗源が嬉しそうに笑う。

「そうかっ! お前、ついにやったのか! 砂鉄から玉鋼を作るって言ってたが、まさか本当にやるとはな。やるじゃねえか!」

 宗源の言葉に穂高は小さくほほえむと、宗源を見つめてはっきりと告げる。

「宗源さん! これを伸ばすために工房をお借りしたいんです! お願いします!」

 宗源は驚いた様子で穂高を見つめ、一瞬何かを考える素振りを見せる。一方の穂高は宗源を見つめて視線を離さない。宗源は小さくうなずくと穂高の頭に手を置いて笑みをこぼす。

「おもしれえ! まさか穂高が自分で玉鋼を作るとは思わなかったぜ。ここまで気合を見せられちゃ俺も手伝わねえわけにはいかねえな。この大きさじゃそんなにでかいものはできないがそれでもいいか? それでもいいなら手伝ってやる」

「ありがとうございます!」

 宗源の言葉に穂高が深く礼をする。宗源は穂高の頭を乱暴に撫でながら笑う。

「……この時間に来たってことは……お前このまま打っていくつもりか?」

 宗源の言葉に穂高は小さくうなずき、一方の宗源はそんな穂高の言葉に後ろを振り返りいたずらっぽく笑う。

「……だってよ、棗。こいつに飯を食わせてやれ。その様子だとまだなんだろ? 飯を喰わずに火を扱わせる訳にはいかねえ。そんで朝飯が終わり次第始めるぞ」

「えっ? うちは平気だけど……」

 棗は驚いた様子で穂高を見つめ、穂高は恥ずかしそうに頭を下げた。


「まずは自分でやってみろ。やり方は覚えてるだろ?」

 朝食を終えた穂高が工房に入るや、宗源が炉を見ながら振り返らずに語る。炉の中は炭が赤く燃えており、近づくだけでその熱気に当てられる。その光景に穂高が緊張気味に唾を飲み込むと、隣にいる宗源が無言でつちを差し出す。穂高は槌を受け取ると、持参した玉鋼を叩いて細かく砕き始める。

「あっ、玉鋼って最初は細かく砕かなきゃいけないんだっけ?」

 二人を見つめていた棗が思わず声を漏らし、宗源が小さく首を縦に振る。

「ああ。このままだと火がうまく通らねえし、伸ばせねえ。だから最初、玉鋼は溶けやすいように小さく砕かないといけねえんだ……って棗、そんくらい忘れんな」

「はいはい……女子高校生が覚えることじゃないわよね……」

 棗が小さくため息をつくと、鈍い音が数回工房に響き渡る。棗が振り変えると玉鋼は砕けて小さな破片となっていた。それを見るや、宗源がおもむろに長いテコと呼ばれる棒を手に取り、穂高にその先を向ける。

 テコの先は平たくなっており、穂高はそこに小さい破片となった玉鋼を並べ始める。宗源はテコの先に乗せられた玉鋼を落とさないように慎重に炉にくべると、額の汗を拭く。

「まずはあら延ばしで大まかな形を整える。小せえからすぐだと思うぜ」

「はい!」

 穂高は勢い良く返事をし、額の汗を拭いながら炉を眺める。宗源が穂高の隣にしゃがみこむと、炉を眺めながら問いかける。

「それで……どこまでやりてえんだ? 包丁を造りてえって訳じゃねえんだろ? なら割り込み用の皮鉄かわがねは要らねえよな? 心鉄しんがねを鍛えて焼入れするか?」

「はい。包丁や刀を造るわけじゃないので、適当に素延べした後に焼入れして研げばいいかなと思っています」

「こんなに小さきゃ鍛えるったってあっという間だ。ならいっちょ本焼きにするか?」

「本当ですか!?」

 宗源の言葉に穂高が瞳を見開き、宗源はそんな穂高を見て嬉しそうに笑う。

「……穂高よお、やっぱりお前うちを継がねえか? ああ見えて棗だってまんざらじゃねえみたいだしよ。どうだ?」

「ちょっ、ちょっと! お父さん! 穂高くんの前でそういうことを言うの止めてって言ってるでしょ!」

 宗源の言葉に棗が怒った様子で傍らに置いてあった槌を振り上げる。

「わっ、分かった! だからそれを降ろせ!」

 宗源が慌てて穂高に助けを求め、穂高は苦笑しながら返す。

「ははっ……俺を買ってくれるのは本当にありがたいです。魅力的なお誘いですけど、俺はまだやらないといけないことがあるので……」

「ほら! 穂高くんも困ってるじゃない!」

「へいへい……おっかねえなぁ……」

 穂高の言葉に宗源が苦笑しながらうなずき、棗は深くため息をつく。宗源は先ほどのおどけた様子とうって変わり、真剣な表情で炉を見つめていた。宗源は時折炉に入れたテコを引き出し、その上に乗せられた玉鋼の溶け具合を確認する。

 それを何度も繰り返し、二人はひたすらに鋼が溶けるのを待つ。炭の爆ぜる音が工房内に響き、穂高はその火をただひたすらに眺めていた。

「よし! じゃあ伸ばすぜ。と言っても、この大きさじゃあんまり伸ばしちまうとペラペラになっちまうけどな」

「はい! できる限り頑丈な奴が必要なんで、積沸かしは厚めでいきたいんですが……」

「いっちょ前に注文をつけやがって……。いいだろう、相槌は俺がやってやるよ」

「ありがとうございます!」

 宗源の言葉に穂高が再び深く礼をする。二人は一瞬視線を合わせると、小さくうなずき槌を握る。宗源がゆっくりとテコを炉から取り出すと、溶けた玉鋼が橙色に輝きながら熱を放つ。穂高が真剣な表情で槌を振りかぶり、宗源がそれに続く。

 主に穂高が叩き、宗源はたまに何かを調節するように相の手を入れる程度に留まっている。槌の音が子気味よい拍子を刻み、工房に甲高い音が鳴り響く。鋼の温度が下がると、再びテコを炉に戻し十分に鋼が熱せられるのを待つ。そして再びテコを取り出し二人が叩く。そうして玉鋼の破片は次第に一つにまとめられていく。

 真っ赤に溶けた鋼から立ち上る熱で工房は異様な熱気に包まれていた。穂高の額を大粒の汗が流れ、宗源の額にも大量の汗が浮かぶ。二人は終始無言で溶けた鋼を叩き続けた。

「……よし、いっちょ折り返すか」

「意外に大きさがとれましたね。これなら折り返せる……」

 宗源の言葉に穂高が安心したようにうなずく。そして二人は再び焼けた鋼に向き合い槌を打ち下ろす。飛び散る火の粉が工房に花を咲かせ、空気に溶けるように消えていく。宗源がおもむろに顔をあげ、穂高の表情を見て思わず息を呑む。

 穂高は笑っていた。焼けた鋼の光に照らされて浮かび上がったその表情は喜びに満ち溢れ、穂高は確かに笑っていた。

「穂高……おめえ……」

 穂高は槌を振り下ろす度に八百里の姿を思い浮かべていた。八百里に出会い、息吹と出会い、三人で過ごした日々がその脳裏に浮かぶ。

 目の前で飛び散る火花の向こう側には、草花と、風と、大地と、穂高が感じられる森羅万象のその全てが見えた。穂高の瞳の先には揺らめく狭間の世界と八百里の笑顔が広がる。気がつけば穂高は泣いていた。その瞳から一筋の涙がこぼれ、工房の床に小さな染みを作る。

「もう少し……もう少しなんだ。だから待っててくれ……八百里……」

 穂高の呟きは甲高い金属音に呑まれて消えた。


「……できた! これで形は大体整った!」

 やすりを手に穂高が短く息を吐く。髪は汗に濡れ、その表情には疲労の色が浮かぶ。穂高の手には小さな切り出し刀が握られており、一見すればそれは槍の穂先にも見える。

「おおっ! なかなか渋いじゃねえか。ややもすれば槍鉋やりかんなにも見えるな」

 そう言いながら宗源が灰色の容器を取り出した。それを見て穂高が嬉しそうに語る。

「いよいよ『土置き』ですね……」

「ああ、ようやく焼き入れだ。ここでしくじっちまったら元の木阿弥だ。気合入れろよ?」

 宗源の言葉に穂高が緊張したのか小さくうなずくと、容器の中に手を入れ、そこに満たされた灰色の液体――泥をすくい、丁寧に小刀に塗っていく。時折宗源が指示を飛ばし、穂高は無言でうなずきながら作業は続けられた。

「後は焼いて、冷やせばひとまずは出来上がりだ。その後の研ぎは教える必要はねえな」

 宗源の言葉に穂高は小さくうなずき、炉にくべられた切り出しをただ黙って見つめていた。燃え上がる炎を見つめながら穂高が小さく呟く。

「本当に……できたのか……」

 まるで実感が沸かないのか穂高が茫然と目の前の光景を眺め、宗源がその背中を叩く。

「まだ気が早えぞ! 気を抜くな!」

「はっ……はい!」

 穂高は慌てて背筋を伸ばし、そんな穂高を見て宗源は小さく口元をほころばせた。

「……とは言うものの、自分で砂鉄から集めて打ち物を造っちまうなんてなかなか出来ねえよ。大したもんだ」

 宗源は満足そうに穂高の肩に手を置と、まっすぐに穂高を見つめて語る。

「……じゃあ最期の仕上げだ。いくぞ?」

 宗源の表情が引き締められ、穂高も緊張気味にうなずく。宗源は炉の横に置かれた水槽に手を入れて温度を確認すると、ゆっくりと瞳を細める。その光景に穂高の表情に緊張が走る。

 宗源は熱した刃物を掴むハサミのような道具――やっとこを取り出して炉中の切り出し刀を掴むと、そのまま横に置かれた水槽の中に勢い良く沈める。水が蒸発する音が響き渡り、大量の水蒸気が工房に充満する。水蒸気は程なくして収まり、宗源は水槽からゆっくりと切り出し刀を引き上げ、何かを確認するように真剣な表情で見つめていた。

 ひとしきり確認を終えた宗源は満足そうにうなずくと、十分に冷えたことを確認してから穂高に打ち上げた切り出し刀を手渡した。穂高はそれを受け取ると、瞳を大きく見開いて思わず言葉を失った。その体は小刻みに震え、瞳の端には涙が浮かぶ。

「これが俺の……八百里と一緒に作るはずだった俺の切り出し。そしてこれが八百里たちを救うことができる唯一の楔……」

 穂高は勢い良く宗源に向かって振り向くと、深く頭を下げる。

「宗源さん……どうも……どうもありがとうございました! 俺は……俺は……」

 感極まったのか、穂高は言葉にならない声を上げる。そんな穂高の様子に宗源は小さく首を横に振ると、その頭を乱暴に撫でる。

「いいってことよ。事情は知らねえが、お前さんが本気で打ちたいっていう気持ちが伝わったから手伝ってやっただけのことだ。気にすんな。いや、気にするならうちに婿に来い」

 歯を見せて笑う宗源を前に穂高は苦笑しながら再び深く頭を下げる。そんな穂高を見て、宗源が優しい表情で続ける。

「……それよりも最後までここで仕上げていくんだろ? 荒砥から仕上げ砥、合砥まで全部あるから、特別にお前になら貸してやるよ。自由に使っていいぜ。だけど使い終わったら面出しだけはしておけよ? 俺はちょっと休む」

 宗源はそう言うと、手を振りながら工房を後にする。穂高はその背中を眺めて再び深く礼をする。そして手に持つ切り出しを眺めて小さく呟いた。

「さて、と……最後の仕上げといくか」

 そう言うと穂高は大きくふらつき、辛そうに工房の壁にもたれかかる。

「くそっ! 時間があまり無いか……。急がないとな……」

 穂高はそう言うや、砥石を水の張ったバケツに沈める。砥石が水を吸うのを待つこと数分、穂高は手にした切り出しを眺めていた。すると先程から沈黙を保っていた棗がおもむろに語りかける。

「……穂高くん、何か隠してるよね?」

 その言葉に一瞬穂高の肩が震える。棗はそれを見逃さない。

「さっきもそうだけど、どうしてその切り出しにそこまでご執心なのかなって思って。泣くほど嬉しかったと思えばそうなのかもしれないけど、今の穂高くんは何か違う。その目は切り出しを見ていないもの。穂高くんはその切り出しの先に一体何を見ているの?」

「俺は……」

 思わず答えに窮した穂高をよそに、棗は続ける。

「当ててみせようか。『八百里』さんか『息吹』さんでしょ?」

「っ、お前! どうしてそれを……?」

 穂高が驚いた表情で顔をあげるが、棗はほほえみながら小さく首を横に振る。

「学校を休んでまで必死に玉鋼を作って、休日の朝から人の家に押しかけるなんて普通じゃないわ。穂高くんが普通じゃない時はいつだってあの人たちが関わっている。そうでしょ?」

 棗は小さく眉を潜めて穂高を見据える。一方の穂高は覚悟を決めたのか、真っ直ぐに棗を見つめてゆっくりと口を開く。

「……八百里が綻びに捕われた。俺は楔を作ってあいつを助けなきゃなんねえ」


***


「そんな……いくら八百里さんを助けるためだからって、どうして……どうして穂高くんが命を賭けないといけないのよ!」

 穂高は事の仔細を包み隠さず棗に伝え、それを聞いた棗が大きく叫ぶ。

「俺にしか……あいつを救えない。そして俺自身がそれを望んだんだ。悔いは……ない」

「そんなのおかしいよ! 自分の命より大事なものって一体なんなのよ!」

 穂高の言葉に棗が再び叫ぶ。しかし穂高は小さく首を横に振ると、ゆっくりとバケツから砥石を取り出し、打ち上がった切り出しを研ぎ始める。砥石の数は全部で四つ。荒く、形を整える荒砥に始まり、きめ細かく、刃に美しい光沢を付与する仕上げ砥に終わる。

 穂高は小さく息を吐くと、順々にそれぞれの砥石を使い丁寧に研ぎ始める。研石の上を切り出し刀がこすれる音が響き渡り、穂高の表情には疲労の色が浮かぶ。一回研ぐごとに穂高は軽いめまいを感じ、思わず視界がぶれる。それでも穂高は止まらない。

 穂高は最期の砥石を持つと小さく呟いた。

「なぁ……棗……。俺……多分これでもう終わりだと思うんだ。さっきから目が霞んできてさ……手の感覚だけで研いでる状態なんだ」

「そんなの……信じられる訳無いじゃない! たかが切り出し刀を造ったくらいで人が死んでたらお父さんなんて何十回も死んでるわよ! 変なこと言わないでよ! お願い……だから」

 穂高の言葉に言いようのない不安を感じた棗が思わず叫ぶが、穂高は力なく首を横に振る。工房に刃物を研ぐ音だけが小さく響く。

「でもさ……俺、八百里に出会えて……本当に幸せだったんだ。今なら分かる。あいつがどんな気持ちで綻びに入ったのか。かつての俺がどんな気持ちで楔を造ったのか……」

 棗は答えない。穂高は研ぎながら続ける。

「楔は……俺の魂そのものだった。だからこそ八百里は俺に楔の作り方を教えなかった。……多分あいつは分かってたんだろうな。俺に楔のことを教えたら、きっとこうするって」

 穂高は笑みをこぼしながら研ぎ続ける。黒かった地金が光沢を放ち、その刃には穂高の顔が映り込む。すると突然棗が立ち上がり、穂高に向かって怒鳴る。

「馬鹿! そんなに八百里さんが大事なくせに、穂高くん自身が死んじゃったら八百里さんを悲しませることになるじゃない! それなのにどうして!」

「……仕方ないじゃんか。……俺しか八百里を救えない。俺しか楔を作れないんだから」

 穂高の瞳から再び涙がこぼれおちる。瞳は赤く染まり、髪は汗で乱れている。その憔悴しきった表情とは対照的に、その瞳にはまだ鋭い光が宿っている。穂高が叫ぶ。

「……だったら俺があいつを助ける、それだけだ! 愛する女を助ける。それに……」

 穂高は研ぎ終わったのか、息を吐くと手に持つ切り出し刀を眺めて満足そうに笑った。

「俺の命、こいつに『籠めちまった』。……もう後には引けえねえ」


「うそ……。そんなことって……」

 穂高の言葉に棗が蒼白な表情で思わず膝を付く。そんな棗を横目に、穂高は重い体を奮い立たせゆっくりと立ち上がる。使い終わった砥石の面を修正し、丁寧に板の上に並べていく。立て掛けられた箒を手に工房を掃除し終わると、穂高は工房の扉を開いて小さく呟いた。

「……最期の仕上げと行くか。俺には……時間がねえ……」

 穂高は宗源に礼を言うと、そのまま工房を後にした。外に出た瞬間、穂高は力なく膝から崩れ落ちた。まさに穂高が地面に倒れこむその瞬間、その手を棗がつかみ引き上げる。

「……棗」

「もういい! いいからもう喋らないで! 今病院に連れて行ってあげるから!」

 棗はそう叫ぶや、穂高の肩を担いで何とかその体を支えようとする。しかし穂高はほほえみながらゆっくりと首を横に振る。

「それは無理だ。自分の体のことだ……俺が一番よく分かる。時間が……もうないんだ。棗、我儘を承知で一つ頼まれてくれないか?」

「もう喋っちゃ駄目! いいから病院に行こ? ね? お願いだから……」

 棗が取り乱した様子で叫ぶが、穂高は棗の手を握ると小さく首を横に振る。

「楔を……楔を綻びに打ち込んでくれ……。それで……八百里は開放される……」

 穂高の棗をつかむ手は弱々しいが、その瞳には強い光が宿っている。穂高を医者に連れて行ってもきっと助からないということを棗は直感的に理解していた。棗は大きく息を吐くと、真っ直ぐに穂高を見つめて小さくうなずく。その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

「……分かった。私が穂高くんの代わりにこれを届けてあげる。だから……だから穂高くんは……死んじゃ駄目」

 棗の言葉に穂高は力なくほほえむと、小さく首を横に振る。

「分かるんだ……。多分……俺はもうあまり長くない」

「そんなこと言わないでよ! それに……穂高くんがいないと……私じゃ八百里さんたちを視ることはできないの……。だから……穂高くん、そんなこと言わないで」

 瞳に涙をたたえる棗を前に、穂高はその頭に優しく手を置いて語る。

「……大丈夫。棗ならきっと視える。八百里が言ってた……本当は門の力なんてなくたって人は彼らを感じられるって。綻びの場所は……八百里自身が門となって世界を繋いだせいで少しずれたみたいだ。でも……そんなに遠くない。多分この前……瘴気に巻き込まれた場所の近く……」

 穂高は大きく深呼吸をすると搾り出すように続ける。

「棗。楔を……俺の想いを……八百里に届けてくれ……頼む! そしてあいつを……」

「分かった! 私が穂高くんのところに八百里さんを連れてきてあげる! だから穂高くんは頑張って!」

 泣きながら棗が叫び、その涙は地面に小さな染みを作る。

「分かった……。せめて日が暮れるまでは……」

 穂高の言葉に棗は工房を飛び出した。


 布留川棗は五條穂高の幼なじみである。布留川家と五條家の付き合いは古く、穂高は神社の跡取りとして、棗は刀匠の娘として二人は出会うこととなる。

 穂高がどこかに行けばその後ろを棗が追いかけ、二人は常に一緒にいた。穂高はいわゆる不思議な子供と呼ばれる部類であった。山に行けば草木に話しかけ、まるでそこに誰かがいるかの様に振るまうこともしばしばあった。大人たちはそれを子供の遊びと一笑に付したが、棗だけは穂高の言葉を信じた。自分には見えない、穂高にしか見えない世界があるのだと。

 しかし、それと同時に棗は穂高の存在が時折ひどく希薄に感じられた。そして穂高がこのままその見えない世界に行ってしまうのではないかという棗の中の小さな不安は、穂高が歳を取るごとに大きくなっていった。ある日穂高の口から八百里と言う名前を聞いた瞬間、棗は思わず身震いした。そこには今まで見たことのない穂高の笑顔があったからである。

 棗は走りながら小さく呟く。

「……絶対に行かせないんだから。穂高くんは……こっちの人なんだから……」

 棗はひたすらに走る。既に陽は傾き、日没までそう多くの時間は残されていないことを理解した棗の表情には焦りの色が浮かぶ。

「何で……何で穂高くん笑っていられるの? 死ぬとか……ありえないんだから!」

 棗には穂高が嘘を言っているようにはどうしても思えなかった。棗を真っ直ぐに見つめた穂高の笑顔。その瞳の端に溢れる涙。その全てが穂高の言葉が真実であることを告げているようにも見えた。故に棗は走る。

「その『綻び』って一体どこなの? 私にも感じることができるって……本当に私に分かるの?」

 幾度と無く同じ場所を駆け抜けた棗が足を引きずりながら呟く。その表情には疲労が浮かんでいたが、それでも棗はひたすらに綻びを探すべく街を駆けた。棗が再び極楽寺の切り通しに差し掛かると周囲を見渡して小さく首を横に振る。

「……確か瘴気に巻き込まれたのはこの辺りだったはず。でも穂高くんは綻びの場所がずれたと言っていた。ならここじゃない。一体どこにいるの、八百里さん……」

 そして再び棗は走り出す。極楽寺の切通しを超え、稲村ヶ崎を周り、由比ヶ浜に辿り着くと再び極楽寺に向かう。

「駄目……やっぱり私には……視えない」

 棗が憔悴しきった様子で呟く。既に空はゆっくりと茜色に染まっていた。徐々に落ちていく太陽は穂高の死への秒読みである。刻々と迫る穂高の死の恐怖から逃げるように、棗はひたすら走り続けた。既にその体には限界が来ていたのか、その瞳に光は無く、気がつけば棗は再び成就院の階段にたたずんでいた。

「ここは……? 確か……穂高くんが紫陽花に向かって話していた場所……。また……ここに戻ってきちゃったわね……」

 棗は膝を立てて階段に座り込むと頭を膝に付けてうずくまる。次第にその肩が大きく震え、周囲に小さな嗚咽が響く。

「私じゃ……私じゃ駄目なんだ。穂高くんが自分の全てをかけてこれを作ったのに、私がそれを無駄にしちゃう! 私には穂高くんの世界が視えない。何も聞こえない! 私はどうすればいいの!? なんで……なんで私にはあなたたちが視えないの……? どうして!」

 膝を抱えてうずくまる棗の頬を一陣の風が撫でる。その瞬間、棗はどこかで誰かが自分の名前を呼ぶ声を聞いた。棗の声は彼らに届き、彼らの声もまた棗の心に確かに届いた。

 棗が何かを感じて顔をあげ、目の前の光景に思わず言葉を失った。

「……なん……で、花びらが……。これはツツジの花? だけどツツジなんて……どこにも咲いてない……」

 棗の周囲にツツジの花びらが舞い、風の吹き抜ける道を赤く彩っていく。風はまるで進むべき道を示すかのように棗を中心に吹き抜け、棗はその光景に呆気に取られながらもゆっくりと立ち上がる。棗は何かに導かれるように、風の道の中をゆっくりと踏み出した。

 一歩、棗が足を踏み出した瞬間、風が強く吹き、今度は桜吹雪が棗を包み込む。また一歩、棗が足を踏み出す度に風が吹き、棗を誘うように花弁が舞い踊る。その光景に棗の瞳に小さな光が灯る。乱れていた呼吸は元に戻り、震えていた足はいつの間にか落ち着きを取り戻した。

 棗はこの瞬間、確かに森羅万象の声を聴いた。

「……私にも……届いた。……あなたたちの想い……あなたたちの言葉。待ってて……必ず届けるから! だから間に合って!」

 棗はそう言うや風の道を駆け抜ける。花吹雪に彩られた階段を抜けて、そのまま真っ直ぐに海を目指す。目指すは由比ヶ浜。まるで棗を後押しするかのように、追い風が花びらと共に棗の背中を優しく後押しする。

 棗は止まらない。棗の体は既に限界を迎えていた。その体は呼吸を満たすことはなく、酸欠からかその瞳は焦点を失い、意識が再び朦朧とし始める。それでも棗は風に導かれるままにひたすらに走り続けた。走りながら棗から笑みがこぼれる。

 既に空には気の早い明の明星がうっすらと浮かび、水平線に沈みかけた太陽が赤く燃えている。棗の意識は朦朧として定まらず、目に映る全てはその輪郭を失なって揺れている。棗は幽鬼の様に砂浜を歩きながら、突然目の前を見つめて笑い出す。

「あはっ、あははっ! あはははっ!」

 それは誰にも視えることのない狭間の光。そこに確かに感じる圧倒的な存在感。棗はもはやそれが何かを考えることはしない。姿は視えずとも、棗の五感全てが全力で答えを叫ぶ。

 朦朧とする意識の中で、急速に冴え渡る思考が爆発する。棗は最期の力を振り絞って光に向かって駆け出すと、穂高の作った切り出し刀――楔を握りしめて力の限り叫んだ。

「……私にも……視えた! これがあなたの世界! 穂高くんの想いは……今、届く!」

 棗が楔を光にかざすと、楔は一瞬眩く輝き、そのまま光の中にゆっくりと沈んでいく。その瞬間、棗の足元の砂浜が金色に輝き、巨大な光柱が天に向かって立ち上る。光柱は天を穿ちながら徐々にその大きさを増し、周囲は一面黄金色に塗り替えられる。その光景を眺めながら棗はゆっくりと倒れこんだ。

 棗は薄れゆく意識の中、倒れ行く自分の体が突然誰かに抱えられる感覚を覚えた。かろうじて動く瞳を開けば、そこには同年代と思しき藤色の着物を着た少女が自分を抱きかかえているのが見えた。棗は一瞬何が起きたのか理解できない様子で瞳を大きく見開き、一方の少女は棗を抱きかかえながら優しくほほえんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ