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となりの花鳥風月  作者: Fennel
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七章:八百里

七章:八百里


「……なぁ、息吹。俺……何か八百里を怒らせること言っちまったのか?」

 八百里が去った部屋に残された穂高が困惑気味に呟き、息吹が力なく首を横に振る。

「……多分、ほだかは何も悪くないのです」

「じゃあ、なんで!」

 思わず語気を強める穂高に、息吹は悲しそうに顔を伏せる。そんな息吹の様子に穂高は押し黙り、重い空気が部屋に充満する。息吹が沈黙に耐えかねて何かを言おうと口を開いた瞬間、窓の外に眩いばかりの光が現れた。

「何だ! って……あの光はまさか……?」

 穂高が驚いた様子で窓の外に身を乗り出すと、遠くで巨大な光の柱が天に向かって伸びているのが見えた。

「あれは……やおりさまの力なのです! でもどうして……えっ?」

 息吹が目の前の光景に思わず言葉を失った。遠くに見えた光の柱は次第にその大きさを増し、その周囲一帯を包み込んでもまだ止まらない。

「まっ……まさか、やおりさま。街中を全て流す気じゃ……」

「街中って言ったって……あの光って鎌倉山の辺りだろ。あそこからここまで丸ごと全部ってことか? いくら八百里でもそんなことできるのか?」

 穂高が驚いた様子で息吹に問いかけ、一方の息吹は小さく首を横に振る。

「……息吹もやおりさまが本気で力を使ったのは見たことがないのです。でもやおりさまならあるいは……」

「おいおい……冗談みたいな規模だな。……って、こっちに光が来るぞ!」

 穂高が叫んだ瞬間、周囲が瞬く間に金色の光に呑みこまれる。窓の外は全て金色に染まり、穂高の家を含む周囲一帯はそのまま光の柱に飲み込まれた。

「くっ……また……かよ」

 光に呑まれた瞬間、穂高が胸を抑えて小さく呻き、苦しそうに畳の上にうずくまる。穂高は唐突に薄れゆく意識を何とか奮い立たせ必死にこらえる。

「ほだか! 大丈夫ですか!?」

 程なくして周囲一体を包み込んだ光は消え去り、夜の静寂が窓の外に拡がっていた。穂高は頭を押さえながら立ち上がると、周囲を見回してゆっくりと口を開く。

「……大丈夫だ。八百里の力は消えたのか?」

「はい……恐らく周囲一帯の瘴気は全てやおりさまによって流されたと思うのです」

「……ったく、どうしちまったってんだ、八百里は? そりゃ瘴気を流してくれるのは有難いけどさ、ここまでされるとまるで俺が信用されてないみたいだな……」

 穂高は息吹に向かって苦笑すると、息吹がゆっくりと首を左右に振る。

「……いぶきからは詳しいことは言えないのです。でも……でもっ! やおりさまはほだかに危ない目にあって欲しくないって思っているのです。これだけは本当なのです!」

 必死に穂高に向かって語る息吹を前に、穂高は笑みを浮かべながらその頭を撫でる。

「……分かってるよ。あいつの心はちゃんと届いてる。だけど、本当にどうしちまったんだ……八百里」


「それじゃあいぶきはやおりさまの所に行くのです。もう大丈夫だとは思いますが、ほだかはくれぐれも瘴気に近づいては駄目なのです」

「さすがの俺もこう何度も言われたら分かるさ。八百里があそこまでしたんだ。俺に瘴気に関わらせたくない理由が何かあるんだろ?」

 穂高の言葉に息吹は小さくうなずくと、そのまま窓の外の夜の闇に溶けて消える。それを見届けた穂高は大きくため息をつくとそのまま畳に寝転がる。

 脳裏に浮かぶのは八百里の姿。あれ程感情を顕にした八百里を見るのは初めてであり、それに何か引っかかるものを感じた穂高は寝転がりながら今までのことを思い出す。

「……この世界は三つの世界が重なりあってできている。八百里は守護で、しかも特別な『門』ってのを司っている。その『門』っていうのは重なりあう三つの世界を超える力」

 穂高は寝転がりながら手を天井に向かって伸ばし、自分の手を眺めながら続ける。

「俺はその中でも『現世の門』の力を持っている。その力があったからこそ俺は狭間の世界の住人である八百里や息吹を視ることができるし、神羅万象の声を聞くことができる」

 穂高はゆっくりと瞳を閉じて昼間のことを思い出す。瞼の裏に映るのは瘴気が渦巻く古びた民家。穂高はゆっくりと瞳を開いて、天井を見つめながら呟く。

「瘴気は現世で生み出された穢れ。本来なら流転の理によって狭間を経て、隠世に流れる定め。流転の理から外れた淀みによって瘴気が現世に留まることはあれど、あそこまで大量の瘴気が一箇所に湧くことはない……って、どうして俺はそんなことを知っているんだ?」

 穂高は自らの呟きに驚いた様子で慌てて起きあがると、大きく深呼吸をしてゆっくりと正座の姿勢をとる。

「待て待て……落ち着け、俺。一体どうしたんだ。昼に瘴気を見てから何かおかしいぞ。どうして俺は瘴気を流せると思った? 考えろ……俺に一体何があった? 八百里はなんて言っていた? 確か……『門』の力が覚醒したとか……」

 穂高はゆっくりと瞳を閉じる。しばしの沈黙が部屋を支配し、突然穂高は頭を乱暴にかきむしったかと思うと、そのまま畳の上に大の字に倒れこむ。

「だあぁ――分かんねぇ! とにかく八百里に会わないことには話にならねえな。会ってくれれば、の話だけどな……」


 時を同じくして、八百里はとある山中にある大きな山桜の幹に腰かけていた。

「やおりさま……」

「……息吹か」

 突然現れた息吹に対して、八百里は振り返らずに答える。そんな八百里の様子を前に息吹が苦しそうに語りかける。

「先ほどの力は……やおりさまですね?」

「うむ……姑息な手段とは承知しておるが、穂高にこれ以上瘴気に触れさせるわけにはいかぬ。特に門として目覚めてしまった今となっては尚更な……」

 息吹は何も語らない。八百里は月を見上げながらとつとつと続ける。

「摂理の化身であり、万象の門たるこのわしがその気になれば、この街を、いやこの国を丸ごと『流す』ことなど造作も無い。しかしわしにそれだけの力があろうとも、やはり摂理には抗えぬのじゃ……。息吹よ……このような弱いわしを笑うか?」

 八百里の言葉に息吹は無言で首を横に振る。そんな息吹の胸中を知ってか、八百里はゆっくりと息吹の前に降り立つ。八百里は息吹を見つめ、息吹もまた真っ直ぐに八百里を見つめ返す。しばし二人の間に沈黙が流れ、息吹がゆっくりと口を開く。

「……いぶきは綻びや楔のことはやおりさまのお話の中でしか知りません。でも……その時にやおりさまが今のお姿になってしまうくらい悲しいことがあったことは存じているのです。いぶきはやおりさまには二度とそんな悲しい思いをして欲しくないです……」

 息吹の言葉に八百里は小さく瞳を細めると、月を見上げながら呟いた。

「これはわしのわがままじゃ……。後悔はしておらぬ。すればあやつの志が立たぬ。じゃが……わしはもう二度と穂高を失いとうない……」

「やおりさま……」

 八百里の消え入るような声が夜の山に静かに響いた。


 翌日、学校を終えた穂高は一人部屋の中で正座をしていた。閉じられたその瞼の奥に浮かぶのは昨日の八百里の姿、そして街に溢れた瘴気。

「……八百里、か。あいつは俺がガキの頃からずっと一緒だったなぁ。八百里は優しくて、何でも知ってて、いつも俺を守ってくれた。そんなあいつが理由もなく俺を叱ることは今までただの一度もなかった……。つまり何か理由がある?」

 穂高はゆっくりと瞳を開くと、何もない机の上を見つめて瞳を細める。不思議と八百里のことを考えると胸の奥が熱くなる。穂高にとって八百里は母であり、友であり、そして愛おしい存在でもあった。

 しかし二人の間には、人にあるような明確な愛の形は存在しない。穂高は愛を語るには若く、恋との違いすら分からない。それでも穂高は確かに八百里を愛していた。

「八百里……」

 同時にもう一つの感情が穂高に流れ込む。それは瘴気を前にした時の心の昂ぶり。穂高は瘴気を前に、それを『流す』のが当然であると受け入れていた。つい先日までは瘴気に恐れおののき、命の危機さえ感じたというのに。

「……何かが俺の中で変わったのは間違いないな。……そもそも俺はあの極楽寺の一件以来、瘴気に近寄るなんてまっぴらゴメンだった。では何故昨日八百里を制してまで率先して瘴気を流した? いや、流そうと思った? つまり瘴気に対する恐怖が……消えた?」

 穂高は自問するように呟く。

「八百里は俺に『門』とやらの力があると言っていた。じゃあ、それが何故目覚めた? きっかけは、恐らく昨日の一件。そして八百里は俺が瘴気に関わることを快く思っていない。それにあの八百里の態度は普通じゃなかった。どうしてだ……」

 突然、机の上に無造作に置かれた鞄の中から電子音が流れ出し、穂高の思考は中断される。

「……棗からのメールか。じゃあそろそろ出かけるか。息吹と八百里は……今日は来なさそうだな……」

 穂高はそう言って携帯電話を閉じると部屋を後にする。向かうは昨日食べ損ねた――正確には棗が食べそこねた商店街にあるケーキ屋である。


「おう、待たせたな」

「ううん、私も今来た所。今日は穂高くんのおごりだからね、たくさん食べちゃうよ―」

「はいはいっと。でもお手柔らかに頼むぜ?」

 棗は嬉しそうに顔をほころばせ、二人はそのまま店内へと進む。ショーウィンドウの前には色とりどりのケーキが並び、棗は瞳を輝かせて忙しなく左右に動き回る。

「おいおい、ケーキは逃げねえぞ。だからあまりみっともない真似すんな」

「はーい。じゃあこれとこれ、あとこのマカロンももらっちゃおうかな」

「遠慮しねえな……」

 穂高は小さくため息をつくと、満面の笑みを浮かべた棗と共に二階へあがる。二階は小さなイートインスペースになっており、商店街が見下ろせるようになっている。

「じゃあ、いただきます!」

「うい。いただきます」

 棗は元気よく挨拶するとそのまま幸せそうにケーキを頬張り、穂高はぼんやりと外を眺めていた。窓の外には店が立ち並び、商店街を行き交う人々の姿が視界に入る。突然穂高はある一点を見つめて、思わずその視線が釘付けになる。

「……おいおい、嘘だろ!」

「穂高くん?」

 棗が頬を膨らませながら不思議そうに穂高に向かって首をかしげる。

「いや……なんでもない。それよりもうまそうだな」

 穂高は小さく首を横に振ると机に置かれたケーキを頬張り、穂高は大きく目を見開いた。「ねっ、おいしいでしょ! ここ評判だったから一度ちゃんと食べたかったんだよね。……って、穂高くんは昨日食べたんじゃないの?」

「ん? 昨日はちょっと……ほら、体調があれで、あまり味が分からなかったんだ」

 穂高の言葉に納得したのか、棗は幸せそうに別のケーキに手を伸ばす。一方の穂高は窓の外に広がる商店街の一画を眺めながら険しい表情で眉をひそめた。

「街の瘴気は昨日八百里が全て流したはず。それなのに、どうして街に瘴気が?」



「ごちそうさま! 今度は別のお店に行きたいんだけど、来週とかどう?」

「来週かあ。予定が空いてたら付き合うぜ。じゃあ宗源さんによろしくな」

「うん、じゃあまた明日!」

 棗はそう言うと商店街に消えていき、その背中を見送った穂高はゆっくりと歩き出す。その足は自宅ではなく、昨日瘴気が溢れていた古民家に向かっていた。

「……やっぱりか。どうなってるんだ? 俺の力が不十分で流せなかったのか? ……そんなはずはないな。現に八百里と息吹は狭間へと流された。それに俺の力が至らなかったとしても、八百里が昨晩この辺一体の瘴気をまとめて流したはずだ」

 穂高は目の前の古民家を眺めて思わず顔をしかめる。そこには穂高によって流されたはずの瘴気が僅かではあるがにじみ出ていた。

 穂高は無言で瘴気に向かって歩み寄り、ゆっくりと手を伸ばす。瘴気は穂高の指に触れた瞬間、霧散して消えていく。その光景をしばらく眺めていた穂高は、驚いた様子で呟いた。

「……おいおい、マジかよ。これって地面の底から溢れてきてんのか? くそっ、これじゃ家が邪魔で視えないな。……仕方ない」

 穂高はそう言うとゆっくりと瞳を閉じる。その瞬間、穂高の周囲の景色が大きく歪む。景色はたちどころに輪郭を失い、まるで水中に差し込む光のように揺れ始める。そして穂高の目の前に狭間の世界が現れる。

 極彩色に輝く光が忙しなく揺れ動き、輪郭を失った景色が揺れている。穂高はゆっくりと瞳を開き周囲を一瞥する。先ほどまで目の前にあった家は薄く透けており、その先に黒くくすんだ塊が見えた。黒い塊はゆっくりと周囲を巻き込みながらその大きさを増しており、その光景に穂高が緊張気味に呟いた。

「……狭間にも瘴気が湧いている。……ってことは、やっぱりこの瘴気は現世の淀みから生まれたものじゃない。狭間は境界の世界。瘴気は現世で生まれ、狭間を通って隠世へと流れるが道理。だがこの地には淀みは感じない。ならばこの瘴気は……隠世から逆流しているのか?」

 穂高はそう呟くや、突然胸を抑えて膝を付くと苦しそうに顔をしかめた。

「くっ……またか。それに俺はどうしてこんな事を知っている? 今俺は何を思い出そうとした? なにかとても大事な……。思い出す……? 俺は何を……知っている?」

 突如、穂高を中心に地面から太陽と見まごうほどの凄まじい光が天に向かって立ち上った。光は瞬く間に周囲を呑み込み、世界は白く塗りつぶされる。穂高はその光を知っている。

 穂高は唐突に薄れゆく意識の中で、自分を抱きかかえて泣いている八百里の姿を見た。


「……なんだ?」

 暖かい光の中、穂高はゆっくりと瞳を開く。気がつけば穂高は再び草原に立っていた。時おり吹き抜ける風が草原に風紋を刻み、目の前には大きな桜の木がそびえている。その木の下にたたずむ人影が二つ。一人は若い男であり、その男に向き合うように一人の美しい女性が立っている。二人はお互いの瞳を見つめながら、優しくほほえんでいた。

 次の瞬間、景色が大きく歪み、穂高はどこかの山中に立っていた。目の前には絶壁が広がり、その中腹には大きな一枚岩が突き出ている。その景色を前に、穂高はどこか懐かしい感覚を覚えた。

 突き出した岩の上には先程の女性が腰掛けており、その隣には青年が立っている。女性は何かを手に持ち嬉しそうに笑みをこぼし、青年もそんな女性を見て小さくほほえんだ。

 青年がおもむろに女性の手から何かを受けとり、ゆっくりと女性の髪に向かって手を伸ばす。その手には灰色の櫛が握られており、女性は幸せそうに男に頭をあずけた。青年が女性の髪を愛おしそうにくしけずる。穂高はその光景を知っている。

「この景色……前にも見た? あの場所は……石切り場。そしてあの櫛は! あの女性は!」

 その瞬間、穂高の中で何かが大きく脈動した。


 時は少し遡り、穂高が古民家に辿り着いた頃、とある山中で突然八百里が叫んだ。

「穂高がまた『門』を開きおった! あの馬鹿者が……!」

「……ということはまた瘴気が?」

 隣にいた息吹が驚いた様子で問いかけ、八百里は苦い表情で首を縦に振る。

「この街の瘴気はわしが昨夜全て『流した』。じゃが綻びがある以上、大地の奥深くより溢れ出る瘴気は止められぬ。瘴気が大地に再び溢れたのじゃろうな……」

「ほだかが『門』を開いたということはやはり瘴気を?」

 息吹が八百里に問いかけた瞬間、突然八百里が顔をしかめた。

「今度は狭間に入りおった! 穂高……この愚か者が……。狭間に入ったお主の体は実にして虚になった。その魂を瘴気に冒されれば現世の体が死ぬぞ!」

 八百里はそう言うや、その場から瞬く間に姿を消し、息吹も慌ててそれに続いた。


 八百里は光に呑まれて倒れた穂高を抱きかかえて叫んでいた。

「穂高! しっかりするのじゃ! 安心いたせ。お主の体は瘴気には冒されておらぬ……。あれ程瘴気には近づくなと言ったじゃろうに、お主は何故分かってくれぬのじゃ……」

 八百里が穂高を抱きかかえながら大粒の涙を流し、その涙が穂高の頬を濡らしていく。一つ、また一つと八百里の涙が穂高にこぼれ落ち、その涙は淡い輝きを放つ。光は穂高の体に吸い込まれるように消えたかと思うと、突然穂高の身体を淡い光が覆う。

 その光景に八百里が思わず息を呑み、息吹も驚いた様子で見つめている。光は穂高の胸元に集まると、ゆっくりと明滅を繰り返しながら体の中に吸い込まれるように消えていった。二人が見守る中、穂高がゆっくりと瞳を開いた。

「よお……八百里。背の高い美人の八百里も良いけど、俺は今の八百里の方が好きだぜ……」


 穂高の言葉に八百里の瞳がみるみる驚愕に染まる。

「……まさか穂高。……わしを……かつてのわしを覚えておるのか……?」

 思わず瞳を大きく見開いて穂高を見つめる八百里を前に、穂高は小さく首を横に振る。

「いや……多分知っていると言った方が正しいのかな。昔俺は八百里と一緒にいた。それだけは何となく分かるんだ。そして俺が八百里と同じ力を持っているということも。でもそれだけだ。なぁ……俺、一体どうしちまったんだろうな……?」

 その言葉に八百里と息吹が言葉を失って立ち尽くし、一方の穂高も困惑気味に頭をかく。そんな穂高を前に、八百里が小さく震えながらゆっくりと口を開く。

「本来人が死ねば、その魂は隠世へと流れ、その記憶や想いは全て消え去る定め。それは『門』の力を持つお主といえど変わらぬ……」

「でも、俺は……昔のお前を知っている。それに分かるんだ。夢の中で八百里の隣にいた男は俺だって。教えてくれ。あいつは――俺は誰だ? 俺と八百里はどんな関係だったんだ? 俺が突然この力に目覚めたことと関係あるのか? 何か大切なことを忘れている気がするんだ」

 穂高は真っ直ぐに八百里の瞳を見つめ、一方の八百里も穂高の瞳を見つめて視線を離さない。二人はしばしの間見つめ合い、八百里が諦めたようにゆっくりと口を開く。

「これもまた因果か……。よかろう……ならば話さねばなるまい」

「やおりさま……」

 息吹が心配そうに八百里を見つめ、八百里は絞りだすように小さく呟いた。

「先に穂高の家で待つ……」

 八百里はそう言うと景色に溶けて消え、息吹も慌ててそれに続く。その場に一人残された穂高は八百里のいた場所を眺めながら小さく言葉を漏らす。

「なんでお前はそんなに悲しい顔をするんだ……八百里……」


 穂高の部屋では八百里と息吹、そして穂高が机を囲んで座っていた。三人は黙して語らず、時計の音だけが軽快に部屋に響く。その空気に当てられてか、穂高がたまらず口を開く。

「そっ……それで、良かったら教えてくれないか。俺のこと。八百里のこと。そして今街に溢れている瘴気のことを」

 真っ直ぐに語る穂高を前に、八百里はゆっくりとその重い口を開いた。

「あやつは……かつて大地の意思の中にいた者。わしと同じ『門』の力を司どる人間。わしらと同じ景色を見た男。そして……」

 八百里の言葉に穂高が静かに息を呑み、息吹も緊張気味に八百里を見つめている。そんな二人を一瞥すると八百里ははっきりと響く声で告げた。

「わしがかつて殺したただ一人の人間じゃ」


**


 八百里の言葉に一瞬その意味が理解できなかったのか、穂高は唖然とした表情で八百里を見つめていた。一方の息吹は悲しそうにうつむいて黙っている。

「殺した……? ……じょっ、冗談だろ?」

 八百里は表情を変えずに淡々と繰り返す。

「わしはかつてのお主を殺した、と言ったのじゃ、穂高」

「ちょっ、ちょっと待てよ! 八百里が人を殺すなんて、何の冗談だよ?」

 穂高が到底信じられぬという表情を見せるが、八百里が突然立ち上がると叫ぶ。

「くどい! お主はかつての現世の門、そしてわしが殺した男。それは紛れもない事実じゃ! これ以上……これ以上……同じことを言わせるな……。頼む……」

 八百里の瞳には大粒の涙が浮かび、その瞳は真っすぐに穂高を見つめている。一方の穂高は八百里の言葉に混乱しているのか、ただ茫然と八百里を見つめるばかりであった。八百里の涙は止まらない。

「どうして……どうしてお主は再びわしの前に現れたのじゃ……。まるで示し合わせたかのように、このような時に……。またわしにお主を殺せと言うのか……」

「おっ、おい……八百里。お前何を言って……」

 穂高が慌てて八百里に向かって手を伸ばすと、一瞬八百里の体が怯えたように強く震える。

「あっ……」

 その光景に穂高が思わず手を止め、伸ばした手は虚空をつかむ。八百里の瞳に浮かぶのは怯え、そして僅かばかりの恐怖と悲しみ。それを直感的に感じた穂高は思わず差し出した手を引き戻す。それを見た八百里は慌てて首を横に振る。

「こっ……これは違うのじゃ……。わしは別に穂高が……」

「八百里……」

 穂高がゆっくりと立ち上がると、八百里が一瞬体を強く震わせる。それを見た穂高は悲しそうな表情を浮かべながら八百里に語りかける。

「……ごめんな。俺、八百里を怖がらせちまったか? いや、この場合は昔の俺か……」

「待て! そうではない。これは穂高のせいではない! これはわしが……お主を……」

 八百里は何かを語ろうとするが、涙が止めどなく溢れ続けて言葉にならない。

「八百里!」

 そんな八百里を見るや、穂高が震える八百里の体を半ば強引に抱きしめる。その瞬間、八百里は穂高の腕の中で一瞬大きく震え、小刻みに肩を揺らす。それでも穂高は八百里を抱きしめたまま離さない。穂高は八百里の耳元で優しく呟いた。

「昔何があったかは分からないけどさ、それは俺じゃない。だから昔何があっても俺、五條穂高には関係ない。だからあまり気にすんなよ、八百里らしくないぜ」

 穂高の言葉に八百里が顔を穂高の胸にうずめたまま小さくうなずいた。そんな八百里の様子に穂高は満足そうにほほえむと、八百里を抱きしめる手に力をこめる。八百里は一瞬大きく身を震わすと穂高の背中にその小さな手を回す。

「……穂高。わしは……わしは……」

 しばらく嗚咽で言葉にならない八百里を抱きしめていた穂高はゆっくりと八百里から離れると、その瞳に溢れた涙を指で拭う。

「ははっ……お前を泣かせるなんて、昔の俺は駄目な奴だったんだな」

「……」

 八百里は何も語らない。しかしその表情には緊張が浮かび、穂高はそんな八百里を見つめながら真剣な表情で語りだす。

「まずは目の前の問題からなんとかしようぜ。最近街に瘴気が溢れてるだろ? あれをどうにかしなきゃな……」

 穂高がそう言った瞬間、八百里が蒼白な表情になる。

「八百里?」

 穂高の言葉に八百里は何かに怯えているかのように小刻みに震え出す。

「おっ、おい! 八百里! どうした、しっかりしろ!」

 穂高が慌てて八百里の肩を掴むが、八百里は何かを呟きながら首を左右に振るばかりであった。

「……嫌じゃ……もう嫌じゃ。わしは二度とお主を殺しはせぬ……。もう……二度とお主を失いとうない!」

「八百里! お前……何を言って……?」

 八百里はそう言うや、眩い光と共にその場から消えた。部屋に残った光の残滓が窓から吹き込む風に巻き上げられて消えていく。その光景を眺めていた息吹が小さく呟いた。

「やおりさま……」


「くそっ! どこにいるんだよ、八百里!」

 穂高は自転車に乗って街を疾走する。

「待つのです、ほだか! やおりさまに会ってどうするのですか!」

 必至に走る穂高の後ろを息吹が飛びながら追従して叫ぶ。

「決まってんだろ! 八百里の奴……何か抱えてる。あの怯え方は普通じゃない。……それに八百里のあんな顔、今まで見たことがなかった! 八百里があんな顔をする原因が俺だってんなら、俺はそれを見過ごす訳にはいかねえ!」

「でもそれは今の『ほだか』の問題ではないのです……やおりさまは……」

「うるせえ! じゃあ息吹は八百里があのまま悲しそうに泣いていて、それでいいって言うのかよ!」

「良くないです! いぶきだって……やおりさまが苦しそうなのは……辛いのです……」

「じゃあ、会って話すしかねえだろ! 八百里と俺の間に何があったのか。そして八百里は一体何を怯えているのか。聞かせてもらうぜ、八百里!」

 穂高の言葉に息吹が小さくうなずく。二人の瞳の奥には強い決意が宿り、そのまま茜色に染まる街を駆け抜けた。


「……どこだ。どこにいる? 八百里……」

 穂高は肩で息をしながら山中を歩いていた。陽は既に落ち、街灯も無い山中はたちまち暗闇に包まれる。息吹が前を歩き、穂高がそれに続く。

 月明かりを頼りに山道を進む穂高の目の前に、突然大きな一本の山桜が現れる。穂高はその桜の大樹を見つめるとゆっくりと瞳を細めた。

「覚えていますか、ほだか。この木を。やおりさまはこの桜の木がお気に入りで、いつも楽しそうにあの枝の上に座っていたのです……」

「……忘れるわけねえだろ。俺たちの出会った場所だ。くそっ……八百里……」

 忌々しそうに顔をしかめる穂高を横目に、息吹が穂高に背を向けたまま問いかける。

「ほだか……どうしてほだかはそこまでやおりさまのことを気にかけるのですか……? あなたは人間で、やおりさまは……私たちは人ではないのですよ? それなのにどうして?」

 息吹の言葉に穂高が一瞬呆気に取られたような表情になり、ゆっくりと空を見上げながら瞳を細める。空には満天の星が輝き、星影が穂高と息吹に降り注ぐ。穂高は小さく首を横に振ると、まっすぐに息吹を見つめながらゆっくりと口を開く。

「……人とか人じゃないとか俺には関係ねえ。八百里の事が大切だからだ」

 その言葉に息吹が小さくうなずくと、ゆっくりと穂高に向かって振り返る。

「いぶきも……もうこれ以上苦しむやおりさまを見ていられないのです……。本当はやおりさまから口止めされていたことなのですが……ほだかはそれを聞きたいですか?」

「そんなの決まって……」

 穂高がそう答えた瞬間、穂高は振り向いた息吹の表情を見て思わず息を呑んだ。息吹の表情にいつもの無邪気な笑顔はなく、瞳は鋭く輝き、見たものを射抜くような鋭い視線が穂高に向けられていた。そこには天真爛漫な少女の姿はなく、千年の時を生きる一人の守護としての息吹の姿があった。

 穂高は息吹を前に小さく息を飲み込み、真っ直ぐに息吹の瞳を見つめ返すと、ゆっくりと首を縦に振る。それを見た息吹は穂高の瞳を見つめたままとつとつと語りだす。


「これは……いぶきがまだ生まれていなかった頃の話。人がまだ風の声を聞き、私たちを感じることができた時代……」

 息吹はゆっくりと手を振る。その瞬間、周囲の木々が淡い光を宿す。森全体が淡く輝き、穂高の周囲を光の粒が蛍のように風に舞い踊る。その光景に驚く穂高をよそに、息吹は続ける。

「守護は万物を守り、育む。それは大地であり草木であり、人であるのです。そして始まりの守護であったやおりさまは、生命開闢以来、この大地の命を見守ってきました。悠久にも等しい時間の中で、やおりさまは唯の一度だけ、人間と恋に落ちたのです」

 息吹が何を言わんとしているのか理解した穂高は、思わず瞳を見開いた。息吹は続ける。

「……お二人は良い関係だったと聞きました。やおりさまが過去に愛した唯一の存在、そしてやおり様と同じ『門の力』を持った人間」

「……」

 穂高は答えない。そんな穂高を一瞥すると息吹は淡々と続ける。

「そして時を超え、彼の魂は再び現世に生を受けました。奇しくも同じ『現世の門』として」

「……それが俺か。なんとなく……分かる」

 息吹は続ける。

「ほだかが『門』の力を宿し、森羅万象を感じることができるのは、かつての『現世の門』としての魂を受け継いでいるからなのです」

 息吹の言葉に、突然穂高が体を大きく震わせる。

「……それは八百里が言ってたな。俺がかつて八百里と過ごした人の魂の生まれ変わりだと。たまに夢に見る景色がかつての俺の記憶というわけか」

 穂高は自分の手の平を見つめながら語り、そんな穂高を見つめながら息吹が瞳を細めた。

「……それがおかしいのです。本来、流転の理に入った魂は浄化され、前世の記憶を一切を持たぬ裸の状態で再び現世に戻るのです。門としての力は魂に宿るから良いとして、ほだかが断片的とはいえ、前世での記憶を持っているということは、本来ではありえないことなのです」

「……それは俺も分からないんだよな。いきなり思い出したというか……。まあそれはいいとして、あいつとかつての俺との間に何があったんだ? 二人は恋人だったんだろ? でも八百里は俺を殺したって……どういうことだ?」

 穂高の言葉に息吹が悲しそうに首を横に振る。

「いぶきも……詳しいことは分からないのです。ただ……やおりさまから聞いていることは、昔『綻び』が生まれて、その時に……」 


「わしがお主を殺したのじゃ」

 突然八百里の声が響いた。


***


 突然背後から八百里の声が響き、二人は慌てて振り返る。

「八百里!」

「やおりさま!」

 二人の後ろには月明かりに照らされた八百里の姿があった。八百里は表情一つ変えずにゆっくりと穂高たちに向かって歩み寄る。一歩、また一歩と八百里が近づく度に、周囲に言いようのない緊張が走る。

 八百里は穂高の前に立つと黙ってその瞳を見つめ、一方の穂高も何も言わずに八百里の瞳を見つめ返す。

 二人は見つめたまま黙して語らない。突然吹いた風が二人の頬を撫で、月光が二人の顔を照らす。八百里の瞳には涙はなく、代わりにその奥には強い光が宿っている。

 八百里は真っ直ぐに穂高の瞳を見つめたままゆっくりと口を開く。

「生憎今は昔話をしている余裕がなくての……。穂高の疑問に一つ答えるとしようかの」

「八百里……?」

 穂高が思わず八百里の瞳を見つめて聞き返すが、八百里は淡々と続ける。

「知っての通り、街には瘴気が溢れておる。既に気がついているかもしれんが、これらは大地の循環の理から外れた『淀み』から来るものではない。純然たる瘴気が隠世より狭間を通り現世に溢れておる。この意味……分かるな?」

 八百里の言葉に穂高が緊張した様子で小さく首を縦に振る。

「隠世から現世に瘴気が……つまり重なり合う三つの世界に穴が空いたってことか?」

 穂高の言葉に八百里がうなずくと、苦しそうに顔をしかめた。

「それをわしらは『綻び』と呼ぶ。綻びは世界の裂け目。その裂け目より隠世にうずまく瘴気が狭間と現世に溢れておる。綻びを塞がねば瘴気は無限に溢れ出て、やがて現世と狭間、二つの世界はゆっくりと蝕まれて死んでいくじゃろう」

 八百里の言葉に息吹が苦しそうに眉をひそめ、穂高も強張った表情で八百里の言葉に耳を傾けている。八百里はさらに続ける。

「あれは息吹が生まれるより遥か昔、かつて人がわしらと共に歩んでいた頃、この大地に大きな『綻び』が生まれた。瘴気は瞬く間に世界を包み、多くの命が蝕まれていった」

「……だけど、俺は、俺たちはこうして生きている。この世界は死んじゃいない。つまり八百里たちは『綻び』を何とかすることができたってことか?」

 穂高の言葉に八百里が小さくうなずいた。

「世界の裂け目を塞ぐことはわしをもってしても叶わぬ。ならば溢れ出る瘴気を常に隠世へ流し返せば良いだけの話。そしてそのために作られたのが『楔』じゃ」

「『楔』? なんだそりゃ?」

 穂高の言葉に息吹が心配そうに八百里を見つめるが、八百里はそのまま続ける。

「『楔』は言わば小さな『門』じゃ。それも現世から狭間、そして隠世へと一方通行のな。つまり楔を綻びに打ちこめば、溢れ出る瘴気はそのまま隠世へと流し戻されるという訳じゃ」

「おおっ! すごいな、それ!」

 興奮したのか穂高が思わず声をあげ、一方の八百里は小さく首を横に振る。

「そして今、その楔が抜かれた。綻びは再び瘴気を吐き、世界はゆるりと冒され始めておる」

「……それで、今いぶきたちは必死に楔を探しているのです。まだ見つかっていないけれど……とにかく楔さえ見つかれば全て解決なのです」

 八百里の言葉に息吹が続き、穂高も状況を理解したのか真剣な表情でうなずいた。

「とにかく俺たちはその『楔』とやらを見つけないとやばい。そういうことだな。なら俺も協力するぜ!」

 穂高は力強く拳を握り、息吹はその言葉に嬉しそうに顔を綻ばせる。

「鳥や草木に聞いたのですが、まだそれらしいものは見つかっていないのです。今は鳥だけじゃなくて森の中の動物達にも聞いているところなのです。とにかく急がないと!」

 息吹はそう言うと八百里に視線を送り、八百里はそれを受けて小さくうなずいた。息吹は小さく八百里に向かって礼をすると、ゆっくりと月光に溶けて消えていく。

 息吹が消えた後、八百里も穂高に背を向ける。その瞬間、穂高の手が八百里の肩をつかむ。

「……なんじゃ。まだ何か聞き足りないか?」

 八百里は振り返らずに答える。

「……昔何があったかは分かった。だけど……話の中でどうしてお前が俺を殺す必要があったのかさっぱり分からなかった。やっぱり俺には……言いたくないか?」

 穂高の言葉に八百里は答えない。八百里の小さな体は小刻みに震え、その震えは肩に置かれた手を通して穂高にも伝わる。

「八百里……? お前……震えて……?」

 穂高がそう言うや、突然八百里が振り返り、穂高の胸に顔を埋めた。

「わしは……穂高を愛しておる。それは穂高が『あやつ』の魂を持つからではない。わしは今の穂高が心より愛おしい。じゃからこそ、今度は間違えぬ……。お主の全て……わしが守ってみせようぞ」

「八百里……」

 穂高が呟くと、八百里はゆっくりと顔をあげてほがらかにほほえんだ。その瞳には大粒の涙が浮かび、頬には幾筋もの涙の後が見える。

 月光を浴びた八百里の髪が金色に輝き、髪よりこぼれ落ちた光の残滓が風に乗って散っていく。夜の静寂の中に小さな嗚咽が木霊した。穂高は八百里をただ抱きしめていた。


「その楔って言うのはどんなものなんだ?」

 翌日、学校から帰宅した穂高が制服を脱ぎながら息吹に問いかける。

「……実はいぶきも見たことがないのです。いぶきが生まれた時には既に楔は綻びに打ち込まれていたので……。やおりさまが言うには、名の示すように”楔”のような形らしいのです」

「楔……ねぇ。楔って言ってもいろいろあるからな……杭みたいな感じだよなぁ……。待てよ……杭って……まさか……っ!」

 穂高は何か思い当たる節があるのか、慌てて息吹に振り返る。

「息吹! その綻びってのはどの辺にあるんだ? 楔はどこにあった!?」

「えっ……? 綻びは……今で言うところの極楽寺の切り通しの近くのはずです」

「おいおい……偶然にしちゃできすぎだろ……」

「ほだか? どうしたのですか?」

 穂高の様子に息吹が首をかしげ、一方の穂高は真剣な表情で息吹に向かって口を開く。

「息吹……確かめたいことがある。今すぐ八百里を呼べるか?」


「息吹に呼ばれて来てみたが……なにかあったか、穂高よ」

 部屋に眩いばかりの光が溢れ、その中から八百里が現れる。息吹は心配そうに穂高を見つめ、一方の穂高は真っ直ぐに八百里を見つめながらゆっくりと口を開く。

「八百里……単刀直入に聞くぞ。お前の探している楔は鉄でできた釘のようなものか?」

 その瞬間、八百里が驚いた表情で穂高に向かって振り向いた。

「何故……穂高がそれを知っておるのじゃ? まさか穂高……お主……楔を……」

「ああ……見つけたぜ。今まで夢かと思ってたけど、いろいろ考えたら全てつじつまが合う。俺が変な夢を――昔の俺の記憶を見始めたのも丁度その頃だ」

「待ってください! 穂高は一体何を言っているのですか? いぶきにはさっぱりなのです」

 息吹の言葉に八百里もうなずき、穂高は二人を見つめるとゆっくりと語りだす。

「……極楽寺の切り通し近くでそれらしい物を拾ったんだ。黒錆で覆われた和釘だと思ってたんだけどな」

「っ! それをどうした! 今はどこにある!」

 八百里が焦った様子で穂高に詰めより、穂高はバツが悪そうに外を眺めながら呟いた。

「消えちまった……」

「……はっ? 消えたじゃと? まさかあの時大騒ぎしていたのは……」

「あの時……釘が無くなったとかでいぶきがほだかに襲われかけた時の……」

 思わず八百里が呟き、息吹も驚いた表情を見せる。そんな二人の様子を見て穂高が居心地が悪そうに続ける。

「ああ。あの時は悪かったよ、息吹。釘を拾った日、俺は確かに釘を机の上に置いて寝たんだ。そしたらその夜に不思議な夢を見てさ、翌朝にはなくなってたって訳だ」

 穂高の言葉に八百里と息吹が思わず息を呑む。

「その日からだ、俺が夢に昔の八百里を見るようになったのは。場所的にも夢の内容的にも、俺にはあれが無関係とは思えなくてさ」

 苦笑する穂高を前に、八百里は何かに気がついたのか慌てて瞳を閉じる。次の瞬間、八百里の体が小刻みに震え、蒼白な表情で立ちあがる。それを見た穂高と息吹が何事かと心配そうに八百里を見つめ、一方の八百里は震える声で絞りだすように呟いた。

「なっ……なんということじゃ……」

「どっ、どうした?」

 穂高が八百里の言葉に思わず聞き返す。八百里は瞳を見開きながら茫然と告げた。

「楔が……穂高の魂と結びついておる……」


「そっ……そんなことが……」

 息吹が驚愕に瞳を見開き、八百里は苦しそうに穂高を眺めている。一方の穂高は首をかしげながら不思議そうに呟いた。

「ちなみに……それって問題なのか? 楔があるって分かったなら、それを綻びに打ち込んで終わりだろ? むしろ俺が拾ってて良かったじゃんか」

 穂高は陽気に笑うが、八百里は瞳を閉じて力なく首を横に振る。

「……駄目じゃ。楔をお主の魂から引き抜くのは危険じゃ。最悪穂高の魂が削れ、楔に喰われるぞ。忘れるな、それはあくまでも現世から隠世へと通じる門なのじゃ。何の因果か今は穂高の魂と融合しておるが、それを無理に引き抜けば何が起きるか分からぬ」

「待てよ! だけど、これがないと世界がやばいんだろ? ならやるしか無いだろ! そりゃ……ちょっと怖いけど、八百里なら何とかできるだろ?」

 穂高の言葉に八百里は力なく首を横に振る。そんな八百里を見て穂高が続ける。

「この楔が使えないなら、新しい楔を作ればいいんじゃないか? ちゃんとできるかどうか分からないけど、昔できたなら作れるだろ?」

 穂高がそう呟いた瞬間、八百里が声を荒げる。

「ならぬ!」

「なっ……」

 八百里の剣幕に思わず穂高が体を震わせ、一方の八百里は無言で穂高の目の前に立つと、穂高の頬に向かってゆっくりと両手を伸ばす。穂高が緊張気味に息を呑むが、伸ばされた八百里の手は穂高の頬を優しく包みこむ。

 驚く穂高をよそに、八百里がほほえみながら穂高に語りかける。

「……案ずるな。言ったはずじゃ……お主の全てはわしが守ってみせると。楔のことは気にせずともよい。他にも手はある」

「八百里……? お前……」

 穂高が八百里の態度に何かを感じたのか、思わず問いかける。しかし八百里は穂高の言葉を待たず、その姿は景色に溶けて消えていく。

「待てよ! おい、八百里!」

 慌てて穂高が叫ぶが、八百里の姿は瞬く間に消える。部屋に残された息吹と穂高はお互い顔を見合わせてしばらく沈黙する。

「おっ、おい。どうするんだ? 楔は俺の中にあって取り出せない。かといって新しい楔は八百里があそこまで反対するんだ、理由は分からないけど作れないってことだろ。そうなった場合、綻びはどうなるんだ? 八百里はまだ他に手があるって言ってたけど……」

 穂高の言葉に息吹はしばし何かを考えるそぶりを見せ、小さく呟いた。

「いぶきは……やおりさまのところに行ってくるのです」

 そう言うや息吹の姿がゆっくりと消えていく。一人残された穂高は八百里のいた場所を眺めながら小さく呟いた。

「一体何を隠してる、八百里……」


「息吹か……」

 いつもの桜の木の下で、八百里は振り向かずに小さく呟いた。その瞬間、八百里の背後に光の柱が立ち上り、その中から息吹の姿が現れる。

「やおりさま……」

 息吹の言葉に八百里が首を横に振る。

「まさか楔が穂高の魂に溶け込んでいるとはな。どうりでいくら探しても見つからぬ訳じゃ」

「でっ、でも……楔がないと綻びは……」

 息吹の言葉に八百里は苦しそうに顔を歪めて、絞りだすように呟いた。

「……綻びを放っておけば、いずれ世界は瘴気に冒される。捨て置くわけにはいかん。かと言って穂高の魂から楔を引き抜く訳にもいかん。うまく事が運べばその魂から楔だけを引き抜けるやもしれんが、失敗すれば穂高の魂は最悪楔に喰われて消える」

「じゃっ、じゃあ……新しい楔を作るわけにはいかないのですか?」

 息吹がそう呟いた瞬間、八百里を中心に周囲の空気が一変する。空気が張り詰め、八百里は息吹に背を向けたまま動かない。八百里は振り返らずに答えた。

「楔はもう作れぬ……いや、わしが作らせぬ」

「でっ、でも! 楔がないと世界が大変なことになるのなら、新しい楔があれば……」

 息吹が八百里の背中を見つめながら小声で呟いた瞬間、八百里がおもむろに振り返る。八百里は一瞬苦しそうな表情を浮かべると息吹に向かってゆっくりと口を開いた。

「……息吹よ、あの楔が……何からできているか知っておるか?」

「えっ? 楔って……鉄とかじゃないのですか?」

 息吹が不思議そうに首をかしげ、そんな息吹を前に八百里は表情一つ変えずに呟いた。

「楔は……人の魂じゃ」

「魂……」

 八百里の言葉の意味するところを理解したのか、息吹の表情がみるみる青くなる。そんな息吹を見て、八百里は優しく息吹の体を抱きしめる。

「かつての穂高――あやつは……なまじ『門』の力に目覚めてしまったが故に、楔を作れてしまった。その命と引き替えにな。本来であればわし自身が綻びに潜って自らを楔とすれば良いだけのことじゃったというのに……。あやつはわしのために自らの魂を楔とした」

「……っ!」

 八百里の言葉に一瞬息吹の体が大きく震える。八百里の独白は続く。

「わしは大地の摂理を守る者。始まりの守護にして万象の門たる八百里じゃ。悠久の時を生きるわしにとって、時間は意味を成さぬ。仮にわしが楔として未来永劫に渡って綻びに縛られることになったとしても、それはわしにとってはやはり瑣末なことなのじゃ。しかし……あやつはそれを良しとはしなかった」

「そんなっ! やおりさまがずっと綻びに縛られ続けるなんて! いぶきは……そんなのは嫌なのです……」

 思わずうつむく息吹を撫でながら八百里は続ける。

「かつてわしが犯した間違い……。それはあやつに楔の作り方を教えてしまったことじゃ。わしを綻びに縛らせまいとの一心で、あやつはその魂を全て使って楔を作り、そして死んだ……。わしは守るべき最愛の人を殺してしまったのじゃ……」

 八百里がゆっくりと息吹から離れる。息吹がおもむろに八百里を見つめ、思わず息を呑む。そこには満面の笑みでほほえんでいる八百里の姿があった。その瞳に宿るのは強い決意。

「だっ……駄目なのです……やおりさま」

 何かを察したのか息吹が震えながら八百里に手を伸ばす。八百里はその手を両手で握ると、ゆっくりと告げる。

「……これよりわしは狭間に潜り、溢れる瘴気を止める。そのためには現世と狭間の門を閉じねばならん。そうなれば狭間への道は閉ざされ、穂高は狭間の世界を――息吹を感じることができなくなる。息吹には辛い思いをさせてしまうが、許せ……」

 八百里の言葉に息吹が取り乱した様子で叫ぶ。

「……いぶきはもともと狭間の住人だから……ほだかがいぶきを見えなくなるのは寂しいけど大丈夫なのです! でもっ! やおりさまが綻びに永遠に縛られ続けるのは嫌なのです! 何か、何か他の方法はないのですか!」

 息吹が叫ぶ。その瞳には涙が浮かび、頬に一筋の光がこぼれる。八百里は瞳を閉じると静かに首を横に振る。

「今はこれしか方法がないのじゃ……。もっともあと千年もすれば、わしの力だけを切り離して門にすることも可能やもしれん。試した事は無いがな」

「千年……」

「姿は見えずとも、穂高ならきっと息吹を感じて見つけてくれるはずじゃ。わしの……わしの愛した大地を、人間を……穂高をたのんだぞ。息吹」

「だっ、だめ……やおりさま……。いっちゃ……だめ……です。駄目!」

 息吹が叫ぶと同時に八百里の姿が光の粒となって霧散する。その場に一人残された息吹は力なく桜の木に寄りかかると、その場に崩れ落ちた。そして世界はゆっくりと閉じ始めた。


「穂高よ」

「おっ? 八百里か? さっきはいきなり消えちまってどうしたのかと思ったぜ。俺……何か悪いこと言ったか?」

 突然部屋に現れた八百里を前に、穂高が心配そうに声をかける。八百里は穂高に歩み寄ると、おもむろに穂高に背を預けて寄りかかる。

「おいおい……どうしたんだ。さっきは機嫌が悪かったり、今度は良さそうだったり……八百里はせわしないなぁ……」

 そう言いながらも穂高は八百里を後ろから抱きしめ、八百里も回された手に嬉しそうに自分の手を添えて瞳を閉じる。

「穂高……わしは穂高に会えて、こうして抱きしめられて、今はとても幸せじゃ……。わしの世界は暖かい幸せに満たされておる。世界とは、生きる喜びとはこうあるべきだと知ったのじゃ……」

「八百里?」

 穂高が首をかしげる。そんな穂高をよそに八百里は続ける。

「かつてのわしには穂高の様な暖かい血もなければ老いて死ぬこともない、ただそこにあり続けるだけの世界の理の一部じゃった。そんなわしがまるで人のような心を持ち、心を焦がし、喜びを知ることが出来たのは他でもない穂高――お主のお陰じゃ」

 八百里はそう言いながらゆっくりと瞳を開く。

「……わしは見るべき夢は全て見た。本来わしには無かったはずの世界を見た。ならばわしは、お主のくれたこの暖かい世界を守ろうと思う」

「八百里……お前何を?」

 八百里はゆっくりと穂高から離れると、真っ直ぐに向き合ってほほ笑んだ。窓から差し込む斜陽が八百里の顔を隠し、逆光に隠れたその表情は穂高からは分からない。八百里の言葉にどこか違和感を感じたのか、穂高がいぶかしげに首をかしげる。

「おい、どうした? 今日の八百里は何か変だぞ? まだ昔の事を引きずってんのか? 詳しい事は分からないけど、俺も八百里と一緒の世界を感じる事ができてとても幸せだぜ!」

 穂高はほがらかに笑い、そんな穂高を見つめて八百里は優しくほほえんだ。そしてはっきりと穂高に告げた。

「さらばじゃ……わしが愛した穂高よ。どうか達者でな……」

「おっ……おい? 八百里?」

 穂高が慌てて八百里に駆け寄るが、八百里の姿は夕日の中に溶けるように消えた。


 言いようのない不安が穂高の心を駆り立てる。気がつけば穂高は街を走っていた。頭に浮かぶのは八百里の姿。

「八百里……あいつ……何か隠してる。お前は一体何をしようとしてるんだ……。達者ってなんだよ……くそっ、八百里!」

 逸る気持ちを抑えて穂高は街を駆け抜ける。向かうは八百里の愛した桜の老木。

「いるかどうか分かんねえけど、俺にはあそこくらいしか知らねえ。頼むぜ……」


「ここにも……八百里はいないか……って、どうした! 息吹!」

 穂高は桜の幹に寄りかかっている息吹を見つけるや、慌てて駆け寄った。穂高に抱きかかえられた息吹は瞳に涙をたたえ、放心した様子で力なくうつむいていた。

「おい! 息吹! ……って、泣いているのか? どうした! 何があった!」

「……あっ? ……ほ……だか? ほだか……ほだか……ほだか!」

 息吹の瞳に急速に光が戻る。突然息吹は取り乱した様子で穂高の肩をつかんで叫ぶ。

「ほだか! やおりさまが……やおりさまが!」

 崩れ落ちる息吹を穂高が慌てて支え、真っ直ぐにその瞳を見つめて叫ぶ。

「八百里が!? 八百里に何かあったのか? あいつさっき俺のところに来て様子が変だったんだ。あれはまるで……別れの挨拶だった! 教えてくれ! あいつは一体何をしようとしてるんだ!」

 息吹は真っ直ぐに穂高を見つめ返し、何かを決意したように小さくうなずいた。

「……やおりさま。いぶきは悪い子なのです……。でも……やおりさまが一人縛られ続けるなんていぶきには……」

「息吹?」

 息吹は穂高に正面から向き合うと、はっきりとした声で穂高に向かって告げた。

「お願い。やおりさまを助けて……ほだか」


「そういうことか……くそっ! でも俺から楔が抜けりゃ万事解決なんだろ!」

「そうなのです……でもやおりさまでもうまくいくかは分からないって……」

「なめんなよ! 元々はかつての俺の魂なんだろ。なら俺が自分で引き抜いてやる。それに八百里が永久に縛られるなんてのは俺も納得がいかねえ!」

 息吹から事情を聞いた穂高はひたすらに自転車を走らせる。目指すは綻びのある極楽寺。極楽寺が近づくに連れて周囲に瘴気が漂い始め、視界が徐々に失われる。穂高はその光景に顔をしかめて叫ぶ。

「くそっ! これじゃ前が見えない! 仕方ないな、走るか」

 穂高はそう叫ぶや、自転車から降りて瘴気に向かって無造作に手を振るう。その瞬間、まるで風が通り過ぎたかのように瘴気が左右に割れていく。

「瘴気がこんなに漏れているなんて……。急がないとやおりさまが!」

「よし! 八百里が現世と狭間の門を閉じる前に狭間に入るぞ!」

「はいなのです!」

 穂高は叫ぶと共に、自身に内包する『門』の力を解き放つ。途端に世界が大きく歪み、次の瞬間狭間の世界が穂高の目の前に現れる。狭間の世界は綻びより溢れ出た瘴気によって黒く塗りつぶされており、色を失ったその景色を前に穂高が思わず瞳を細めて呟いた。

「八百里……待ってろ。……今、行く」

 穂高は苦しそうに胸を押さえると走り出し、息吹がそれに合わせるかのように自身の力を開放する。その刹那、眩いばかりの光が瘴気を打ち払い、穂高の目の前に光の道ができる。

「ほだか! いぶきが道を作るからほだかは急いでやおりさまを助けて!」

「ああ! 任せとけ!」

 穂高はそう言うや、瘴気の中をひたすらに突き進む。瘴気が穂高を飲み込もうとするが、横を走る息吹がそれを許さない。息吹の命の光が瘴気を切り裂き、灰色に染まった世界に光の道を刻む。どれくらい走っただろうか、穂高はおもむろに足を止め、ゆっくりと呟いた。

「よお……一人で楽しそうなことやってんのな。俺も混ぜてもらうぜ……八百里!」


****


「ばっ馬鹿な……! 何故……何故お主がここにいるのじゃ……穂高!」

 穂高の目の前では大地より瘴気が噴水のように吹き出し空を黒く染めていた。その中心には美しい長身の女性――八百里が佇んでおり、突然現れた穂高の姿にその瞳を驚愕に染める。

「それはこっちの台詞だ! 八百里! お前こそ一人でこんな所で何をするつもりだったんだ! 言ってみろ!」

 穂高も負けじと叫び、その言葉に八百里が一瞬怯む。

「……聞いたぜ八百里。お前……俺たちを守るために自分自身が楔になるんだってな!」

 穂高は大きく踏み出し八百里に近づく。その瞬間、穂高の足元が一瞬輝き、穂高を取り囲むようにして渦巻いていた瘴気が一瞬にして霧散する。その光景に思わず八百里が叫ぶ。

「これ以上綻びに近づいてはならぬ! お主は人の身で狭間に入った。その意味を忘れるな! 瘴気に魂を食われればその体とて無事では済まぬぞ!」

 叫ぶ八百里をよそに穂高がさらに踏み出す。

「うるせえ! 俺は……今……とても頭にきてるんだよ……。八百里……お前……。ここに……瘴気が充満しているこの『綻び』に……」

 穂高が踏み出した瞬間、突如八百里と穂高の間を遮るように凄まじい勢いで瘴気が立ち上る。その光景に思わず息吹が叫んだ。

「ほだか! やおりさま!」

 息吹が叫んだ瞬間、穂高を中心に眩い光柱が天に向かって立ち上り、一瞬にして瘴気が霧散する。光柱の中から穂高がゆっくりと歩み出る。

「未来永劫ずっとここに……こんな場所にたった一人で……縛られるつもりだったんだってなぁ、八百里!」

 穂高が叫んだ瞬間、穂高の体が淡い光をまとう。穂高が一歩踏み出すごとに体から光の残滓がこぼれ落ち、瘴気に覆われた黒い世界に金色の道を刻む。穂高が近づくにつれて、八百里が怯えた様子で首を横に振る。

「だめじゃ……。それ以上近づいてはならぬ! これはわしの役目、お主を巻き込む訳にはいかぬのじゃ! 頼む……これ以上は……」

 泣きそうな表情で叫ぶ八百里をよそに、穂高は止まらない。

「勝手なこと言いやがって……。俺の人生はな……お前に出会ったあの日から……お前に巻き込まれてんだよ!」

 穂高が叫んだその瞬間、今度は八百里の足元から瘴気が吹き出した。瘴気がまるで間欠泉のように天に向かって吹き上がり、八百里の姿は瞬く間に瘴気に飲まれた。穂高はその光景を前に小さく瞳を細めると大きく叫んだ。

「俺は……俺の心は!」

 そう叫ぶや穂高は勢い良く吹き上がる瘴気に飛び込み、穂高の体は瞬く間に瘴気の波に呑みこまれる。

「ほだか!」

 その光景に思わず息吹が叫ぶ。次の瞬間、一筋の光が瘴気を切り裂きながら天へと立ち上る。光は徐々にその大きさを増し、周囲の一切を巻き込みながら大きく輝いた。

 光柱の勢いは止まらない。光はいつしか瘴気が蔓延していた狭間の世界をあまねく照らす。その中心で穂高は八百里を抱えたまま優しくほほえむ。

「俺の心は……あの日からずっとお前のものだ。だから……八百里は……責任を取って俺と一緒にいなきゃ駄目なんだ。勝手にいなくなるなんて、絶対許さねえ……」

 穂高の言葉に八百里が取り乱した様子で叫ぶ。

「やめろ! もう……やめてくれ……。わしが……わしがやらねば世界は死ぬのじゃぞ! 今度こそわしはお主を守る。だから……行かせてくれ……穂高。後生じゃ……」

 八百里の瞳から大粒の涙が止めどなく溢れだす。穂高は八百里の頬を伝う涙を指で拭うと、その瞳を見つめながら優しく呟いた。

「……八百里が綻びに縛られる必要はない。大丈夫だ、この楔は俺の魂から抜ける。俺は嘘はつかない」

「……わしとて……穂高と別れとうない……。じゃが楔が無事に抜ける保証も無い。……もはやこうするよりほかはないのじゃ。許せ……穂高……」

 八百里はそう言うと穂高の頬を優しく撫で、小さく笑った。その瞬間、二人を包む光が一層眩く輝き、八百里の体がゆっくりと浮き上がる。

「いかせねえ! 俺はそう言ったはずだ!」

 穂高が八百里の手をつかんで大きく吼えた。同時に周囲を覆っていた光が穂高を中心にゆっくりと渦を巻く。光の渦はやがて風を呼び、いつしか凄まじい光の奔流が吹き荒れる。その光景に八百里が思わず目を見開き、慌てて穂高の顔を覗き込む。穂高は八百里に向かって小さくほほえむと、天に向かって高らかに右手をかざす。

「俺の魂に! 昔の俺の想いが宿ったとしても! 俺は! 五條穂高の想いは決して混ざらねえ! 八百里と過ごした時間、八百里への想い、その全てはこの俺のものだ! だからこそ俺は! 俺たちは! 絶対に混じらねえ!」

 穂高の叫びと共に、その掲げた手に眩いばかりの光が集まる。

「我が名は五條穂高!」

 穂高の叫びと共に掲げられた右手に光が渦を巻きながら収束していく。穂高は続ける。

「我が司るは大地の理にして現世の門!」

 それはまるで黎明の空に輝く太陽のような、それはまるで闇夜を照らす月光のような、眩くもおぼろげな光が穂高の手の中に収束していく。

「其は我が身命。其は我が願い。其は君が未来!」

 穂高の言葉に呼応するかのように光はゆっくりと杭の形を取る。その光景を見ていた息吹が思わず叫ぶ。

「あれは……まさか……楔!?」

 眼前の光景に八百里も思わず言葉を失い、ただ呆然とその様子を眺めていた。その瞬間、二人の足下から再び瘴気が溢れ出す。穂高は八百里を見つめて小さくほほえむと、大きく叫ぶ。

「今ここに! 全ての因果を! 穿つものなり!」

 穂高の声に呼応するかのように、頭上で輝いていた光の杭がゆっくりと二人の足元に沈んでいく。眩いばかりの光が瘴気がうずまく世界の裂け目に向かって真っ直ぐに沈んでいく。

 綻びから溢れ出た瘴気はまるで光に吸い込まれるように消えていく。ゆっくりと、しかし確実に綻びから溢れる瘴気が狭間の世界から消えていく。光は大地深く沈み、それでも尚その輝きは穂高たちを煌々と照らしている。

 八百里は呆然とその光景を眺め、穂高は笑顔で八百里に向かって語りかける。

「今、楔は確かに綻びに打ち込まれた」

 ほほえむ穂高の後ろには、瘴気が消え去った美しい狭間の世界が揺れていた。その光景に八百里の頬を一筋の涙がこぼれ落ちる。

「綻びが……静まった……のか? 穂高がここにおる。わしの穂高がここにおる……。わしは……わしは……」

「言ったろ、俺は嘘は言わねえってな。もう離さねえぜ、八百里?」

 穂高が八百里を抱きしめながらほほえみ、八百里は感極まって言葉にならない様子で嗚咽を繰り返す。そんな二人を見つめて息吹も思わず涙をこぼす。

「穂高……わしは……」


 八百里が口を開いたその瞬間、どこかで何かが割れる音が響いた。

「っ! 何だ!」

 穂高が何かを感じたのか咄嗟に周囲を見渡し、八百里も慌てて穂高から離れる。

 次の瞬間、周囲から大量の瘴気が吹き出した。大地より溢れ出た瘴気は天高く舞い上がり、瞬く間に狭間の世界を灰色に染めていく。

「馬鹿な! 楔はちゃんと打ち込んだはず! どうなってんだ!」

 穂高が叫ぶが、瘴気は止まらない。その光景に八百里が体を震わせながら小さく呟いた。

「……まさか……『楔』が弾けた……?」

「っ!」

 八百里の言葉に穂高が慌てて足元を見る。そこには先ほどまであった楔の輝きはなく、ただ黒い瘴気が大地深くに渦巻いていた。その光景に穂高が思わず小さく漏らす。

「……楔が……ない?」

 穂高が呟いた瞬間、舞い上がった瘴気が黒い雨となって周囲に降り注ぐ。穂高が慌てて手をかざすが、次の瞬間、穂高は苦しそうにうめき声をあげる。

「ぐっ……何だ……これ。すんげえ痛え……」

 瘴気の雨にうたれた穂高は全身から煙をあげて思わず膝を付く。その光景に八百里が蒼白な表情で叫ぶ。

「穂高! お主……まさか力が……」

 八百里が慌てて手を振ると、地面より穂高を包み込むように光柱が立ち上る。その間にも周囲には凄まじい量の瘴気が溢れ続けていた。その光景を見ていた息吹が叫ぶ。

「やおりさま! 瘴気が! 穂高が楔を打ち込んだのにどうして!」

 黒い雨は八百里の体に触れるとそのまま煙となって消えていく。八百里は足元を見て何かを確認すると、ゆっくりと穂高を見つめる。一方の穂高は苦しそうに顔をあげ八百里を見つめ返す。お互いが無言でしばし見つめ合い、八百里が穂高に向かって口を開いた。

「――――――――――」

 八百里の言葉は穂高には聞こえない。周囲に深々と黒い雨が降り注ぐ中、八百里は穂高を見つめてほがらかに笑った。

 その瞬間、八百里の体を眩いばかりの光が包み、世界は一瞬にして光に呑み込まれた。白く塗りつぶされていく視界の中で、穂高は自分に向かって笑っている八百里の姿を見た。


 気がつけば穂高は一人極楽寺の切り通しに立っていた。既に日は落ち、暗い谷戸の気配が周囲を包み込む。

「ここは……? 極楽寺……?」

 穂高はゆっくりと手足を動かし、その感触を確かめていく。ところどころ痛む体が先ほどの事が夢の類でないことを如実に物語る。

「八百里……? 息吹……?」

 溢れんばかりの瘴気、草木の声、風の息づかい、そして息吹と八百里。穂高の眼前から全てが消え、世界は沈黙した。


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