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となりの花鳥風月  作者: Fennel
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六章:裂罅 (れっか)

六章:裂罅 (れっか)


 穂高は草原に立っていた。草原の中には一本の大きな山桜が凛と構え、時折吹く風が草を揺らして風紋を刻んでいく。周囲に人の気配はなく、陽光を浴びた新緑の葉がきらきらと風に踊っている。どこか懐かしいその景色を、穂高は知っている。

「ここは……どこかで見た……」

 穂高が小さく呟くと、いつの間にか穂高の目の前に以前にも見た美しい女性が立っていた。穂高の周囲には多くの男女がおり、それぞれが嬉しそうに女性に向かって頭を下げる。女性はその光景に小さくほほえむと、ゆっくりと穂高に向かって歩み寄る。

 穂高の前に立った女性は透き通るような瞳で穂高を見つめ、ゆっくりと穂高に手を伸ばす。女性の手が穂高の頬に触れた瞬間、穂高の胸にまばゆい光が灯った。光は明滅を繰り返しながら徐々にその輝きを増し、世界はゆっくりと光に包まれていった。遠のいていく意識の中で、穂高の中で何かがつながった。

「……夢、か」

 穂高は布団の上で上半身を起こし、まだ朦朧とする意識を覚ますべく頬を叩く。

「……あの景色……どこかで見たような気がするんだよなぁ。あれ? そういえば俺、昨日八百里に助けられて……って、八百里……と、息吹もいない、か」

 穂高は寝ぼけ眼で布団を押入れに片付けると窓を開ける。初夏の清々しい風が部屋に吹き込み、穂高は瞳を閉じて大きく深呼吸をする。同時に聞こえる多くの声。

「ああ……みんなおはよう。今日も気持ちの良い朝だな!」

 木々が、鳥が、そして風が、森羅万象全てが穂高に語りかける。

 穂高は半身を窓から出して空を眺める。窓の外は雲ひとつ無い青空が広がり、鳥が悠々と飛んでいる。初夏の新緑の強い香りが部屋に充満し、穂高は満足そうに瞳を細めた。

「よし! 今日も世界は美しい! さて、飯食って学校に行くか!」

 穂高はそう言うと、朝食をとるべく慌ただしく居間へと向かった。


「やおりさま、昨日ほだかが瘴気に巻き込まれたって本当なのですか? いぶきはほだかが心配なのです」

 とある山中で、息吹が隣を歩く八百里に向かって心配そうに問いかける。

「うむ……あの程度の瘴気ならあてられたとしても死ぬことはないが、それでも穂高が瘴気に呑まれかけたのは事実じゃ……」

「でっ、でも! 淀みから溢れた瘴気はこの前やおりさまが全部『流した』はずじゃ……」

 八百里の言葉に息吹が驚いた様子で語気を強めるが、八百里は小さく首を横に振る。

「瘴気は大地の循環の理から外れた淀み。淀みがあればどこにでも湧くものじゃ」

「でも……仮に淀みがあったとしても、こんなに早く瘴気が溜まるなんて普通では……」

 息吹の言葉に八百里が小さくうなずく。

「うむ……普通ではありえんじゃろうな。現世で生まれた瘴気はすぐさま狭間を経て隠世へと流れるが定め。淀みが生じれば瘴気は現世に留まるが、所詮流れきれずに残った残滓、その量などたかが知れておる。じゃが昨日の瘴気はそれを遥かに上回る密度じゃった……」

「それって……やおりさま……」

「……どうやら着いたようじゃな」

 息吹が何かを言いかけた瞬間、突然八百里の足が止まる。そして息吹は目の前に広がる光景に思わず言葉を失った。

「……何ですか……これは……?」

「……これを息吹に見せたくてな」

 息吹が小さく震えながら呟き、八百里はゆっくりと瞳を細める。八百里たちの目の前には、車駕シャガの群生地があった。それだけならこの山ではよくある光景である。もっともその車駕すべてが漆黒に染まっていなければ、であるが。

 黒く染まった車駕からは黒い煙――瘴気が立ち上り、瘴気に触れた草木はあまねく枯れ果てていた。生暖かい風が周囲を包み、淀んだ谷戸の湿気が八百里たちを取り囲む。その光景に耐え切れなかったのか、息吹が車駕に駆け寄ると、その力を解き放つ。

「何てひどい……今助けてあげるのです!」

 息吹の言葉と同時にその身に宿る神性が解き放たれる。息吹の身体が淡く輝くと、息吹を中心に光が波紋を描きながら周囲に広がっていく。

 光は瘴気を瞬時に消し飛ばし、光に触れた草木は淡い光をその身にまとう。ゆっくりと、しかし確実に周囲の草木に命が戻る。既に枯れ去ってしまった草木を除き、命ある全ては息吹の力の恩恵を受ける。黒く染まっていた景色がゆっくりと色を取り戻す。

 周囲に立ちこめる瑞々しい生命の香りに息吹は嬉しそうに瞳を細めた。

「ほう……さすがじゃな、息吹。相変わらず若いのに大したものじゃ……」

「えへへ。いぶきだって守護の一人だからこれくらい朝飯前なのです!」

 嬉しそうにほほえむ息吹を前に、八百里は悲しそうに首を横に振る。

「じゃが……それでもこれはどうにもならぬのじゃ……」

「どういうことですか?」

 息吹が八百里の言葉に首をかしげ、目の前の光景に再び言葉を失った。

「どっ、どうして!?」

 息吹たち目の前には、僅かではあるが、大地より黒い煙が再び漏れ出していた。瘴気はゆっくりと、しかし確実に大地から漏れ続け、程なくして周囲は再び瘴気に覆われた。

「そんな……瘴気が再び漏れてきた? どうして? 瘴気は摂理の循環から外れた大地の淀み。散らせば自然と隠世に流れるはず……なんでまた地面から瘴気が湧いてくるのですか!」

 息吹は何かに気がついたのか慌てた表情で八百里に向かって振り向き、八百里は小さく首を縦に振る。そんな八百里の様子に息吹は蒼白な表情で呟いた。

「散らしても瘴気が溢れてくる……。ということは……やっぱり……」

「うむ……やはり『綻び』が新たに生まれたか、『楔』が抜けたかのどちらかじゃろうな。場所から察するに恐らく『楔』が抜けたのかもしれん」

「でっ……でも、その『楔』って……やおりさまの……」

 八百里の言葉に息吹が肩を震わせる。八百里は息吹の頭に手を置くと小さくほほえんだ。

「……案ずるな、息吹。『楔』が抜けただけであればまだ何とかなる。楔を見つけ、綻びに打ち直せば良いだけのこと。もしそれが叶わぬ時は……」

 八百里が一瞬言いよどみ、思わず苦しそうに顔を歪めた。八百里の言わんとしていることを理解したのか、息吹が首を横に振る。

「それは駄目なのです! それではやおりさまが……」

 八百里はほほえみながら泣きそうな表情の息吹の頬を撫でる。

「だからこそ、なのじゃ。あの時果たせなかったわしの役目がこうして再び訪れた。これは償いでもあり、狭間の……いや、万象の『門』たるわしの義務なのじゃ」

「それを言うならいぶきも守護としてやおりさまと一緒に……」

「ならぬ……。息吹の力ならば確かに瘴気に侵された命を救うことはできる。じゃが綻びは『門』の力を持つわしにしか埋めることはできぬ。息吹とて無限に湧き出る瘴気に侵され続ける命を全て守る訳にはいくまい」

「……でも。いぶきは……」

 息吹が苦しそうに呟くと、八百里は息吹の頭に手をあてる。

「良いのじゃ……。息吹は優しい子じゃな……」

「やおりさま……、でも、でも……」

 八百里の言葉に息吹が悲痛な表情で首を縦に振り、その瞳には涙を浮かべている。八百里は涙に濡れた息吹の瞳を拭うと小さくほほえんだ。

「楔が抜けただけであれば、楔を戻せば皆元通りじゃ。そのためにまずは本当に楔が抜かれたか調べねばならん。わしを助けてくれるか? 息吹よ?」

「はい! いぶきが絶対に楔を見つけるのです! それでみんな絶対元通りにするのです!」

 息吹の瞳に力が宿り、八百里が嬉しそうにうなずいた。


「では以前の『楔』の場所を見てみるかのう。仮に楔が抜けたのなら、瘴気がそこから漏れているはずじゃからな」

 八百里の言葉に息吹は真剣な表情で小さくうなずき、八百里はゆっくりと瞳を閉じる。次の瞬間、八百里が思わず眉をひそめて小さく呟いた。

「……楔が視えぬ。その代わりに多くの瘴気が大地深くに渦巻いておる。恐らく極楽寺の当たりじゃな。千年以上前の話じゃから詳しい場所は覚えておらぬが、『綻び』があったのも確かあの辺りのはずじゃ」

「ということは、やっぱり『楔』が抜けたということですか? しかも極楽寺……成就院の近くなのです。紫陽花たちが何も言わないから全然気が付かなかったのです」

 息吹の言葉に対して八百里が腕を組む。

「ふむ……紫陽花たちや息吹が気が付かなかったということは、溢れた瘴気の多くはまだ地中深くに留まっているということに相違あるまい。ならば瘴気がこれ以上大地に溢れるよりも前に、抜けた楔を探さねばならん」

「了解なのです! 是が非でも楔を見つけるのです!」

 八百里の言葉に息吹が小さくうなずき、そのまま二人の姿は景色に溶けて消えた。


 その後、息吹と別れた八百里は、一人、石切り場に来ていた。八百里は誰もいない岩に腰をかけ、おもむろに懐に手を入れる。その手には小さな石の櫛が握られており、八百里は櫛を眺めながら小声で呟いた。

「あれから千年が経った…。お主が守った世界は相変わらず美しいぞ。ならば今度はわしの番じゃな……今度はわしが、世界を、お主を守る番じゃ」



 朝の喧騒に包まれた教室で、穂高は窓の外を眺めながら昨晩の事を思い出していた。突然現れた瘴気の渦。今までに見たことのない八百里の取り乱した姿。 

「八百里が怯えていた? ……まさかな。あの八百里が何かに怯えることなんてある訳ないか。それとも瘴気が予想以上に多くて怖かったのか? それもねえな……うーん」

 穂高が悩んでいると後ろから聞き慣れた声が響く。

「おはよう、穂高くん。昨日は大変だったね。体は大丈夫?」

「……棗か。お前の方こそ大丈夫なのかよ?」

 穂高の言葉に棗がその場で軽やかに回ってみせる。

「大丈夫大丈夫。一晩寝たら治ったよ」

「何かすげえな……お前……」

 棗はまるで何もなかったかのように笑い、穂高はそんな棗の様子に胸中で密かに安堵した。例え瘴気を見えずとも、その身に感じた負の気配は棗に恐怖を刻むには十分であった。それが杞憂に終わったことに穂高は小さくため息をつく。そんな穂高の胸中などつゆ知らず、棗がほほえみながら語りかける。

「でさでさ、今日の放課後って穂高くん何か予定ある?」

「今日? ……は特にねえなぁ。何かあるのか?」

「なら最近商店街にできたケーキ屋さんに行かない? 昨日はあんなことになっちゃったから、そのリベンジで」

「商店街のケーキ屋……ああ、由比ヶ浜0467だっけ? 変な名前だよな。いいぜ、俺もちょっともやもやしてたんだ」

「じゃあ決まり!」

 棗はほがらかに笑うとそのまま穂高の後ろに座る。一方の穂高は窓の外をぼんやりと眺めながら、本日何回目になるか分からないため息をついた。


 放課後、穂高と棗は並んで商店街を歩いていた。街は昼過ぎの光を受けて美しく輝き、風は新緑の香りを運ぶ。穂高は空を飛ぶ鳶を眺めて目を細めると、おもむろに大きくため息をつく。その様子に棗が心配そうに穂高を覗きこむ。

「どうしたの? 今日の穂高くん、一日中上の空って感じだったけど、やっぱりまだ体調が良くないんじゃないの?」

 棗の言葉に穂高は小さく首を横に振る。

「いや……俺ってあいつらがいないと本当になんにも出来ねえなぁって思ってさ。かといって、あいつらがいても結局なにも出来ないんだけどな……」

「あいつ……って、昨日助けてくれた八百里さんのこと?」

「ああ……」

 力なくうなずく穂高を前に、棗はほほえみながら続ける。

「……人にはそれぞれの役割ってのがあるんじゃないかな。昨日のことは正直今でもよく分からないけど、それは八百里さんのお仕事で穂高くんのやるべきことじゃない。だから仕方ないんじゃないの?」

「そうなんだけどさ……前に八百里が俺はあいつと同じだって言ったんだよ。俺も八百里と同じ力を持ってるんだってさ」

 穂高の言葉に棗が驚いた様子で穂高に向かって振り返る。

「同じって……穂高くんが?」

 棗の言葉に穂高は無言でうなずき、それを見た棗が突然大きく笑い出す。

「あはは! それはないわよ! その八百里さんって神様みたいな人なんでしょ? 穂高くんが神様と同じ力を持ってるって、いくら神社の跡取りでもそれは強く出すぎじゃない?」

「だよなぁ……棗もそう思うか?」

 棗はゆっくりと穂高の前に向き直り、穂高の瞳を見つめて真っ直ぐに語る。

「人には人の領分というものがあるわ。それとも穂高くんは神様にでもなりたいの?」

 その言葉に穂高が大きく首を横に振る。

「そんな訳ねえよ。……って、この辺りだっけか」

「あらら、今日は混んでるわね」

 棗と穂高は小さな店の前で足を止める。外見こそは古めかしいが、内装は白を基調としたモダンなインテリアが並び、店内は若い女性客で賑わっていた。その光景に棗がため息をつく。

「まずったなぁ……。最近雑誌とかでよく取り上げられてたから人気が出たのかなぁ」

「おいおい……どうすんだ? 席がもうねえじゃんか?」

「うむむ……じゃあ持ち帰りで穂高くんの家で食べる―!」

「うちか? そういえば棗がうちに来るのは久しぶりだな。昔は毎日遊びに来てたのに」

「高校生にもなればいろいろあるのよ。でも穂高くんが私がいなくて寂しいというのなら、この棗さんが毎日行ってあげる。喜んでくれていいのよ?」

 棗はそう言うとほほえみながら穂高の顔を覗きこみ、穂高は慌てて顔をそらす。

「ちっ、ちげえよ、そんなんじゃなくてだな……」

「はいはい、そういうことにしておいてあげるね。ふふっ……」

「ったく……、じゃあ行くぞ?」

 仏頂面の穂高とは対照的に、棗は満面の笑みを浮かべながらケーキを選ぶ。

「あれ? ここって……?」

 店を後にした二人はそれぞれのケーキを手に商店街を歩いていた。すると突然、穂高が路地の一画を眺めて不思議そうに首をかしげた。何事かと棗がそれに続き、穂高が言わんとしている事を理解したのか、小さくうなずいた。

「ああ、あそこね……もうすぐ壊されちゃうんだって」

 二人の視線の先には工事の予定を示す看板が立ててあり、その奥に古びた民家が見える。

「最近この街って再開発が盛んじゃない? なんでも土地を売る人が増えてきてるんだって。この辺は元から地価が高い地区だから、土地を売ると相当な額になるらしいの」

 棗の言葉に納得がいったのか、穂高が腕を頭の後ろで組みながらうなずく。

「ふーん。地主さんがそう決めたなら仕方ないけど、俺としてはちょっと寂しいな」

「うん……こうして古いものは全部無くなって、新しいものに変わって、それでそのうちその新しいものすらも更に新しくなって。その果てに残るものって一体何なんだろうね」

「さてな……俺には皆目検討もつかねえよ。俺が一番心配してるのは、その無くなっていくもののリストにうちの神社が入ってるかどうかってとこだな……切実に」

 穂高の言葉に棗が突然目を大きく見開き大きな声で笑い出した。

「あはははっ! 何それ、みみっちいよ、穂高くん。……さすがに神社は大丈夫なんじゃないの? でも今や有名どころでも結婚式用に解放したり、新しいお守りを作ったりと企業努力が求められる時代だからね。穂高くんも苦労しそうだよね」

「やめてくれ……マジでそうなりそうでちょっと怖いんだよ。この前なんて、爺ちゃんがいきなり、今の若者はどんな占いが好きか? とか聞いてきてさ、うちでも開運お守りとかを売り出すようになったら本気で笑えねえ……」

 穂高はがっくりと肩を落とし、棗もどこか遠くを眺めながら呟いた。

「うちもね……今じゃ包丁なんて数百円の安いものばかり売れて、ちゃんとした打ち包丁なんてほとんど売れないの。日本刀なんて買う人は限られているし、最近だと新しい顧客を求めて海外に向けて商売している鍛冶屋さんもいるのよ?」

「海外かぁ……。そう言えば、向こうでは日本の打ち刃物はいくつか見たなぁ」

「うん。日本の刀は美術的な価値が認められているし、和包丁は海外では高級品として受け入れられつつあるの。その内うちもそういう商売を考えないといけない時が来るんだろうなぁ……。はぁ……英語勉強しなきゃかぁ……」

 二人は空を見上げながら、ゆっくりと商店街を抜けていく。ぼんやりと立ち並ぶ家々を眺めていた棗が突然一つの古びた民家の前で足を止める。穂高が何事かと振り向くと、棗は目の前の民家を眺めながら呟いた。

「最近さ、ちょっとおかしいんだって」

「おかしい? 何が?」

 穂高は棗の言葉に首をかしげ、棗は真っ直ぐに穂高を見つめながら続ける。

「お父さんから聞いた話なんだけどね、ここの土地を持ってたのは八十過ぎのおじいちゃんだったらしいの」

 棗は目の前の民家を眺めて瞳を細める。軒先に並んでいた草花は手入れがされていないのか伸びきっており、まだ陽が高いにも関わらず雨戸は固く閉ざされている。

「でね、その息子さん……って言ってもうちのお父さんくらいの歳らしいんだけどね、そのおじいちゃんを東京に引き取るってことで、この土地を売るように説得してたらしいの。もちろんおじいちゃんは反対してその話はそこで終わりのはずだったんだけどね……」

「……なんか引っかかる言い方だな。……続きがあるんだろ?」

 棗が広告が詰め込まれた郵便受けを眺め、瞳を細めながら続ける。

「うん。そしたらね、最近そのおじいちゃんがいきなり寝込んじゃって、結局息子さんが看病するってことで東京の方に引き取ることになったみたい。そして、この家は晴れてお役御免になっちゃったんだってさ。最近その手の話が多いみたい。理由は分からないけど突然体調を崩す人が多いみたいなの。この辺りは特に」

「そりゃあ穏やかじゃねえな。でも爺ちゃんもそんな事を言っていたような気がするな」

「うん……古い街だし、たたりとかだったらやだなぁって」

 棗がおどけながら語り、穂高は苦笑する。

 一瞬棗は何かを言いたそうに口を開くが、小さく首を横に振りそのまま言葉を呑み込む。一方の穂高も口には出さないが、何かを言いたそうな瞳で棗を見つめている。棗が穂高の視線に気がつくと地面を見ながら小さく呟いた。

「昨日のやつ……なんか関係あるのかなぁ……」

「ああ……俺もそれを考えてた。八百里の言葉だけどな、瘴気は現世に生まれる穢れそのものなんだってさ。それは人の欲だったり、大地に溜まる淀んだ空気みたいなものらしい。んで、その瘴気ってのは人の命と心を蝕む。瘴気に侵された人は魂を喰われる……ってよ」

「じゃあ……最近この辺で体調を崩す人が多いのはそのせいなの?」

「どうだろうな……さすがにそこまでは俺には分からん。でも……まぁ気になるよな」

 穂高はそう言うと、目の前の民家に視線を移す。苔むした門柱がその家の歴史を悠然と物語り、年季の入った焼杉で覆われた外壁は威厳すら感じさせる。穂高はおもむろに剥げかけている焼杉に手を触れて瞳を閉じる。

「なっ!」

 その瞬間、穂高は得も言われぬおぞましい感覚を覚え思わず後ずさる。

「どっ、どうしたの? 穂高くん?」

「マジかよ……ドンピシャじゃねえか……」

 穂高の様子がおかしいことに気がついた棗が心配そうに穂高を覗きこむ。

 穂高は黙って目の前の家を指差すが、そこには古びた木の玄関があるだけで、棗には特に目立った違和感は感じられない。しかし穂高の瞳には、その固く閉ざされた玄関の引き戸から漏れ出る黒い瘴気がはっきりと映っていた。

「……また何か視えたの?」

「ああ……この家……瘴気が充満してやがる」

「えっ……それって昨日のやつ?」

 穂高の言葉に棗が青ざめた様子で思わず後ずさる。古い木でできた玄関の扉からは、まるで油が染み出したかのように瘴気が滲み出て周囲の地面を黒く染め、二階の窓からは灰色の煙が溢れ出て風に流れている。

「こりゃ……人が住める場所じゃねえな……。こんなとこで暮らしてたら命がいくらあっても足りねえぞ……」

 固く閉ざされた家の中で一体何が渦巻いているのか、それを直感的に理解した穂高は緊張気味に呟いた。昨日のこともあり一刻も早くこの場から離れたいと思った穂高であるが、不思議と心は平静を保ち、瘴気を目の当たりにしても恐怖は湧いてこない。

「ねっ……ねぇ、もう行こうよ?」

「あっ……ああ、そうだな」

 怯えた様子の棗が穂高の服を引っ張り、穂高もゆっくりと後ずさる。その瞬間、穂高の鼓動が大きく跳ねた。自分の耳に届くかのようなその大きな脈動に一瞬穂高の視界が揺れる。

「えっ……あ?」

 穂高は大きくよろめき、慌てて棗が穂高を支える。

「ちょっ、ちょっと穂高くん、大丈夫?」

「ああ……わりい。ちょっと気分が悪くなっちまった」

 穂高は頭を抑えながら大きく深呼吸をする。その視界の端には瘴気が映る。その瞬間、再び穂高の中で何かが脈動する。思考はまどろみ、まるで水の中にいるような感覚に襲われる。穂高はその感覚を知っている。

「こ……の……景色は……狭間?」

 穂高は棗の支えを受けてかろうじて踏ん張り、絞りだすように呟いた。そして再び穂高の視界が大きく揺れる。その瞬間、世界から色が消え、目の前に女性の姿が映る。光を背負って立つ女性のその表情は穂高からは分からない。しかし穂高はその女性を知っている。知っているということを知っていた。

「あれは……だれ、だ?」

 穂高が光の中で女性に向かって手を伸ばした。その瞬間、背後から声が響く。

「ほだか! こんなところで何をやっているのですか!? 危ないから下がるのです!」

 聞き慣れた声と共に景色が急速に戻る。穂高がまどろむ意識の中で瞳を動かすと、その視界の端に藤色の着物の少女――息吹の姿があった。

「……息吹? どうしてここに?」

「やおりさまから聞いたのです! ほだかが昨日瘴気に巻き込まれたって。それなのにどうしてこんな所にいるのですか! 今この街はただでさえ危ないというのに!」

「……危ない?」

 息吹の言葉に何か引っかかるものを感じた穂高が思わず聞き返す。その瞬間、息吹は焦った表情で両手を口に当てて勢い良く左右に首を振る。

「いっ、いぶきは何も言ってないのです! いいからほだかは下がるのです。そこに瘴気が漏れているのです」

「俺は……そうだ、瘴気だ!」

 息吹の言葉に我に帰った穂高は慌てて民家に向かって振り返る。民家は完全に瘴気に包まれ、溢れた瘴気がゆっくりと周囲に滲みでていた。その光景に穂高は思わず後ずさる。

「あっ、あっ……」

 忘れかけていた恐怖が穂高の心を蝕む。足が震え、体が小刻みに震え出す。喉は渇き、呼吸が浅くなる。まどろむ意識の中、穂高は突然胸に鋭い痛みを覚えてその場に膝をつく。

「ちょっちょっと、穂高くん? 大丈夫? 穂高くん!」

「大丈夫……だ。ちょっと……目眩が……いや、この感覚は……」

 その瞬間、穂高に向かってどこからか声が響く。

「下がれ、穂高! 瘴気に近づいてはならぬ!」

 声と共に穂高の横に光柱が立ち上り、その光の中から八百里が姿を現した。

「八百里?」

「やおりさま! ここなのです! 瘴気が漏れているのです!」

「うむ! 後はわしに任せるがいい」

 八百里が力を解き放とうとしたまさにその瞬間、穂高の視界が大きく揺れた。そして穂高の視界は白く塗りつぶされた。

 気がつけば穂高は何もない空間に横たわっていた。まるで波の上を漂うかのような、どこか覚えのある感覚に身を任せて穂高はゆっくりと瞳を閉じる。世界が揺れている。感じるのは棗の自分を案じる暖かい心。感じるのは八百里と息吹の想い。隣に棗がいて、八百里がいて、息吹がいる。穂高は彼らを感じていた。

 瞳の奥に美しい女性がほほえんでいる。その後ろには大きな桜の木が見え、その周りには美しい草原が広がっている。どこか見たその景色に、穂高の中で何かが脈動する。当たり前の様にあった日常。忘れていた景色。その瞬間、穂高の瞳が大きく見開かれる。

 現世があり、狭間があり、そして隠世がある。それは近くて遠い、重なりあう三つの世界。穂高が立つその場所は現世であり、狭間であり、そして隠世でもある。

「そっか……。そういうことか……」

 穂高は自分の身に何が起きたのか理解できなかった。同時に今の自分が何をすべきのかを理解した。永遠にも感じた刹那の時を駆け抜け、穂高の意識が一気に覚醒する。その瞬間、穂高の中で何かが目覚めた。


「待て、八百里」

 八百里が力を解き放とうとしたまさその瞬間、穂高が立ち上がる。急に立ち上がった穂高を見て八百里が心配そうな表情で問いかける。

「穂高? いいから、ここはわしに任せて下がっておれ」

 八百里は瘴気から守るように穂高の前に立っている。穂高はそんな八百里を眺めて小さくほほえむと、後ろからゆっくりと抱きしめる。

「なっ……穂高?」

 八百里は驚いた様子で振り返るが、穂高は八百里を抱きしめたままその耳元で呟いた。

「……ようやくおそろいだな八百里。少し待っててくれ。すぐ終わる」

「ほ、穂高? お主一体何を……?」

 穂高はそう言うと、ゆっくりと瘴気が渦巻く民家に向かって歩み寄る。八百里は穂高の纏う気配が一変したのを感じ取り、呆気にとられた表情でその背中をただ見つめていた。

 一歩、また一歩と穂高が民家に歩み寄るにつれて瘴気が穂高の体にからみつく。しかし穂高はそれを気にすることなく、玄関まで歩み寄る。既に穂高の体は半分以上瘴気に覆われていた。穂高はそれをまるで気にする様子もなく、瘴気の渦を見つめながら小さく呟いた。

「……分かるんだ。俺が何をするべきか、どうすればいいのか」

「穂高……まさかお主……。待て! 穂高! お主にもうその力は必要ない!」

 我に返った八百里が何かに気がついたのか慌てて叫ぶが、穂高は八百里の方を向いて小さく笑う。穂高はゆっくりと渦巻く瘴気に向かって手をかざした。

「今ならできる! 感じるんだ! 開くぜ、現世の門!」

 穂高が叫んだ瞬間、穂高の足元が大きく輝き、空に向かって眩いばかりの光柱が立ち昇る。その光景に思わず息吹が叫ぶ。

「あれは……! やおりさまと同じ――『門』の力!?」

 光柱はゆっくりとその大きさを増していき、光に呑まれた瘴気は瞬く間に霧散する。光は周囲の全てを飲み込んでまだ止まらない。景色は金色に塗り替えられ、凄まじい光の奔流が天へ向かって立ち上る。

「きゃっ!」

 穂高を中心に突風が吹き荒れ、棗が思わず叫ぶ。風が収まり棗が恐る恐る目を開けると、そこには先程と同様、民家に手を向けて立っている穂高の姿があった。

 民家に充満していた瘴気は跡形もなく消え去り、穂高は周囲を見渡すとバツが悪そうに頭をかきながら小さく呟いた。

「……やっちまった。わりいな、八百里、息吹」

 そこに八百里と息吹の姿はなかった。


**


「ほっ……穂高くん? 大丈夫? いきなりうずくまっちゃったから心配したんだよ?」

 棗が慌てた様子で穂高に駆け寄り、穂高は棗に向かって小さく首を縦に振る。

「ああ……ちょっと……な。わりい、心配かけた」

「本当にもう平気なの? ……って、ここ危ないみたいだから離れなきゃだよね」

 棗が我に返ると、民家を眺めながら無意識のうちに穂高の服の裾を握る。穂高はそんな棗を一瞥するとゆっくりと首を横に振る。

「ああ……そのことならもう大丈夫だ。瘴気はもう無いぜ」

 穂高の言葉に棗は不思議そうに首を傾げていたが、納得したのか小さくうなずいた。

「……よく分からないけど、穂高くんがそう言うならそうなんだろうね。でもなんでいきなり大丈夫になったの?」

「……ん。詳しくは俺も説明できないんだけど、平たく言うと瘴気は俺が『流した』」

「流す? 何を? ごめん、穂高くんが何を言っているのかよくわからないや」

 穂高の言葉に棗が困惑した表情で答え、一方の穂高も苦笑しながら続ける。

「俺もよくわからないんだけどさ、なんか瘴気を消せるようになっちまった。できそうだなぁって思ってやったら……」

「やろうと思ったら出来たって……そんなこと……」

「まぁ俺もよくわからないんだけどさ……まぁいいじゃんか。俺にも何がなんだかさっぱりだからな……って、いてて……」

 穂高は乾いた笑いを浮かべると突然頭を押さえてよろめき、棗が慌てて支える。

「ちょっ、ちょっと……本当に大丈夫なの? 穂高くんが分からないことなら私も詳しくは聞かないけど、今日はもう休んだほうがいいよ。せっかくだけど、ケーキはまた今度にしよ?」

 棗が穂高の顔を心配そうに覗き込み、一方の穂高は力なく小さくうなずいた。

「わりいな……。なんか知らんがものすごく疲れたぜ……」

「いいのいいの! じゃあ、これ食べて元気出しなよ!」

 棗はそう言うと手に持ったケーキの箱を穂高に差し出す。

「おいおい、俺が全部受け取る訳にはいかないだろ?」

「いいのいいの。病人は高カロリー食だよ。その代わり今度は穂高くんのおごりね」

 棗はそう言うと小さく片目をつぶり、そんな棗を前に穂高は苦笑しながら頭を下げる。

「……じゃあお言葉に甘えてこれはありがたく受け取っておくとするか。ありがとな」

「うん! また明日ね、穂高くん。それとも家まで送ろうか?」

 棗の言葉に穂高は小さく首を左右に振り、二人はそのまま別れることとなった。棗は穂高が心配だったのか、途中何度か振り返りながら商店街へと消えていく。そんな棗の背中を見送った穂高は何もない空間に向かって小さく呟いた。

「さて……さっきはごめんな、八百里、息吹。まさか二人を巻き込むとは思わなかったんだ」

 穂高の言葉に呼応するかのように穂高の目の前に光の柱が立ち上り、その中から八百里と息吹が現れる。八百里の表情は固く、息吹もどこか緊張している様子で穂高を見つめていた。

「おいおいどうした、二人共? 顔が怖いぞ?」

「……穂高。お主は目覚めてしまったのだな……その身に宿す『門』の力に……」

 悲痛な表情を浮かべる八百里をよそに、息吹が驚いた様子で語りだす。

「いぶきはとても驚いたのです! いつの間にか瘴気を『流せる』ようになっていたなんて、すごいのです、ほだか!」

 息吹のその言葉に八百里が苦い表情を浮かべ、穂高を見つめて小さく呟いた。

「穂高……家に着いたら大事な話がある……」

「ん? 分かった。せっかくだからケーキも食べようぜ。ほれ」

「わーい、ケーキなのです! ほらほら、やおりさま! ほだかが美味しそうなケーキを持っているのです!」

 穂高が手に持つケーキの箱を見せると息吹がまるで子供のようにはしゃぐ。しかし息吹の瞳にいつもの天真爛漫な輝きがないことに穂高は気がつかない。八百里は息吹の不器用な心遣いを理解したのか、小さく笑うと息吹を抱きしめる。

「穂高よ、わしらは先に行って待っておる。くれぐれもつまみ食いなどしてくれるなよ」

 八百里がそう言うや、息吹を抱きしめたままゆっくりと景色の中へ溶けるように消えていく。そこに一人残された穂高が首をかしげながら呟く。

「……ところでなんで八百里はあんなに怖い顔をしてるんだ? やっぱり八百里たちをいきなり現世から狭間に『流し』ちゃったのがまずかったのかなぁ……あれ、絶対怒ってるよな。説教は嫌だなぁ……はぁ……」

 穂高は大きくため息を付くと、肩を落としながら帰路につく。

「……って、待てよ。なんで俺、八百里たちが『流れた』って知ってんだ? というか、なんで瘴気を流せたんだ、俺?」


 穂高の部屋に一足先に到着した八百里と息吹はお互い向き合って座っていた。息吹は先ほどとはうって変わりうつむいたまま沈黙を保ち、一方の八百里も険しい表情で瞳を閉じている。

「……やおりさま、さっきいぶきとやおりさまが現世から弾かれたのはやっぱり……」

 息吹の言葉に八百里が小さくうなずき、苦しそうに語る。

「……間違いないじゃろうな。息吹はおろか、このわしをも狭間に『流す』とは、あれはまさに『門』の力に相違あるまいよ」

「じゃあ、やっぱりほだかは……門の力に目覚めたのですか?」

「どうやらそのようじゃな……もはや疑うべくもあるまい」

 八百里は悲痛な表情を浮かべたまま空を見上げ、ゆっくりと瞳を細める。

「……楔が抜かれ、大地には瘴気が溢れておる。そして現世の門の覚醒。これは偶然ではなかろう。例えこれが大地の意思だとしても、今度ばかりは穂高を関わらせる訳にはいかぬ……」

 八百里は拳を握りしめながら小さく肩を震わせ、その様子に息吹が慌てて首を振る。

「だっ、大丈夫なのです。楔が抜けただけなら楔を見つけて、それを綻びに打ち込んで全部元通りなのです! それにほだかも力に目覚めたのなら、瘴気を『流せる』からもう安全なのです! だから……だから、きっと全部大丈夫なのです……」

 必死に語る息吹を前に、八百里は小さくため息をつき、おもむろに息吹の頭を撫でる。

「息吹は優しい子じゃな……。そうじゃな……そのためにも早く楔を探さねばなるまい」

 息吹は八百里に頭を撫でられながら、心配そうに八百里を見つめる。

「やおりさま……楔のことはやっぱりほだかに言ったほうが……」

 息吹の言葉に八百里は悲しそうに首を横に振るばかりであった。


「おーい、戻ったぞー」

「遅かったのです、ほだか! いぶきはケーキが待ち遠しかったのです!」

 息吹がケーキを待ちきれない様子で勢い良く穂高に向かって飛びつき、穂高は慌ててケーキを落とさないように息吹を受け止める。

「今日はたまたまだからな、棗に感謝しなきゃだぞ? 気に入ったならまた買ってやるよ」

 穂高の言葉に息吹は瞳を輝かせて、しきりにうなずいている。穂高はそんな息吹の様子に満足そうにほほえむと、八百里の隣に腰を降ろす。

「ほらよ、これは八百里の分だ」

「……うむ。うまそうじゃな、礼を言うぞ穂高」

 穂高は一瞬驚いた表情で八百里を見つめ、おもむろに首をかしげる。八百里はそんな穂高を一瞥すると、いぶかしげに問いかける。

「……なんじゃ? わしの顔に何か付いておるのか?」

「いや……今日は膝の上に来ないんだなぁって思ってさ」

「……」

 穂高の言葉に八百里は沈黙を保ち、そのまま無言で穂高を見つめる。普段は見せない八百里のその真剣な表情に思わず気圧された穂高は小さく息を呑む。

 沈黙が部屋を包み、その空気に耐えられなくなったのか穂高が語りだす。

「あっ、あのさ。やっぱり八百里と息吹を『流し』ちゃったのはまずかった……かなぁ? なんてさ……あはは……。何か俺、いきなり瘴気を流せるようになっちゃったみたいでさ……いまいち加減が分からなくてさ……」

 しどろもどろに語る穂高を前に、八百里は黙して語らない。その様子に息吹はケーキに伸ばした手を引っ込め、心配そうに二人を見つめていた。

「あっ……あの。こっ、このケーキすごくおいしそうなのです!」

「そっ……それは良かった。俺のもやるよ」

 息吹が困った様子で呟き、穂高もぎこちなく返す。そして再び部屋に重い沈黙が充満する。八百里は目の前に置かれたケーキには手を付けず、ただひたすらに穂高を見つめていた。

 そんな八百里の様子に穂高が意を決したように口を開いた。

「なっ……なぁ。八百里……」

「……何故じゃ?」

 穂高の言葉は八百里によってかき消され、穂高が思わず聞き返す。

「えっ?」

 八百里は目を大きく見開いて、穂高に向かって声を荒げる。

「何故穂高が『門』の力に目覚めたのかと聞いておる!」

 有無を言わさぬ八百里の迫力に気圧されたのか、穂高と息吹は一瞬肩を震わせる。

「なっ……何故って言われても……。昼間、あの家を見てたら、急に瘴気を流せるって思ったんだよ。理由は分からないけど、俺がやらなきゃって……。でっ、でも見ただろ? 俺、やっぱり八百里の言ったとおり同じ力を持ってたんだな。瘴気もちゃんと流せたぜ」

 穂高の言葉に八百里が唇を噛み締め、拳を握りしめる。そんな八百里の様子などつゆ知らず、穂高は笑みを浮かべながら続ける。

「でもこれで俺も役に立てるってことだろ。八百里と一緒なんて何だか嬉しいぜ」

「……」

 八百里は黙って穂高を見据え、視線を離さない。その瞳に浮かぶのは悲しみと怒り。しかし穂高はそんな八百里の様子に気が付かずに続ける。

「最近商店街で急に体調を崩す人が増えてるらしくてさ、昨日のこともあってちょっと考えてみたんだ。それでさ、それって街に瘴気が漏れてるせいじゃないかって思うんだよ。俺のこの力があれば八百里みたいに瘴気を流せるし、せっかくなら瘴気が漏れる原因も調べられたらなぁって思ってるんだ」

 穂高は嬉しそうに自分の両手を見つめながら語る。穂高が笑みを浮かべながら八百里に向かって顔をあげた瞬間、八百里の怒号が響き渡る。

「ならぬ!」

 八百里の言葉に呆気に取られた穂高が一瞬体を震わせる。一方の八百里は穂高を見据えながら低い声で語りだす。

「ことはお主の考えているよりも遥かに厄介なものじゃ! 瘴気を流せるようになったからといって思い上がるでない!」

「そっ……そこまで言うことないだろ! 俺はお前の力になれたらいいなと思って言ってるんだぞ。それにこれは八百里たちだけの問題じゃない! 現に街の人が瘴気に冒されてるんだ。それを黙って見てろってのかよ!?」

 我に返った穂高が八百里の言葉に語気を強めて反論する。しかし八百里は譲らない。

「瘴気を流せるくらいでいい気になるな。穂高が思っているよりもお主の手は小さく、全てをつかもうと欲すればその全てはお主の指の間からいとも容易く零れ落ちると知れ! これはわしの問題じゃ。お主のような未熟者の手など借りるべくもないわ!」

「っ! ……言わせておけば。いいぜ、お前がそこまで言うなら、俺は俺のやり方でやらせてもらうぜ!」

 穂高はそう言うや話は終わったとばかりに立ち上がる。その瞬間、八百里が勢い良く立ち上がった。

「なっ……なんだよ……」

 穂高が驚いた様子で八百里を睨むが、八百里は何も言わずに穂高に背を向ける。八百里は振り向かずに小さく呟いた。

「……ならぬ。穂高は決して瘴気に関わってはならぬ」

「ちょっ、ちょっと待てよ! どういうことだよ、八百里? おっ、おい!」

 八百里はそう言うや、溶けるように夜の闇に消えていった。

 穂高は八百里の態度がまるで理解できないと行った様子で茫然と立ち尽くし、息吹は悲しそうに瞳を伏せる。

「やおりさま……」

 部屋に息吹の声が小さく響いた。


 とある山中の大きな山桜の枝の上で八百里はぼんやりと月を眺めていた。八つに分かれた山桜の幹がその樹齢を雄弁に物語る。八百里は苔むした幹を撫でながら小さく呟いた。

「……わしにも人のような未練があったとはのう。何の因果か……」

 八百里は夜空を見上げ、ゆっくりと瞳を細める。空には満天の星が輝き、星影が八百里に向かって降り注ぐ。

「楔は抜かれ、綻びが再び開いた。そしてそれに合わせるかのように大地の意思は穂高を『門』として目覚めさせた。楔が見つかればよし、さもなくば……」

 八百里はしばし黙ったまま空を見上げ、ゆっくりと瞳を閉じる。閉じた八百里の瞳には大粒の涙が浮かび、涙は月光を浴びてきらめきながら地面に落ちていく。

「わしはまた失うというのか……。いやじゃ……それだけはいやじゃ……」

 八百里の手には小さな石の櫛が握られており、一つ、また一つとこぼれ落ちる涙が櫛の上に小さな染みを作る。涙はとどまることを知らず、その夜、八百里は音もなく泣き続けた。

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