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となりの花鳥風月  作者: Fennel
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五章:導因

五章:導因


「例の子供がまた来た?」

 数日後、突然風に乗って息吹から言葉が届き、穂高と八百里は思わず互いの顔を見合わせる。突然の報せを聞いた八百里と穂高は、商店街にある洋菓子店で昨今流行りのケーキを頬張っている真っ最中であり、八百里はリスの様に頬にケーキを詰め込んだまま語る。

「うむ。息吹が件の童を見つけたそうじゃ。わしらも向かうぞ、穂高よ」

「だが目の前のリスさんは食べるのに夢中で、とても出られるようには見えないが?」

「むむっ……わしを侮るなよ、穂高。わしがその気になればこの店中のケーキを一瞬で平らげることなど造作も無いぞ?」

 八百里が誇らしげに語り、穂高はそんな八百里を眺めて小さくため息を付く。

「ほらほら……八百里がすごいのは分かったから、もう行くぞ」

「こっ、こら! 待て! 早まるな。まだケーキが……あと一口残っておるじゃろ?」

「分かった分かった。それを食ったら息吹を追うぞ」

 頬をふくらませながらうなずく八百里を前に、穂高は再びため息をついた。

「それでどこに行けばいい?」

 穂高は自転車にまたがると、背中しがみついている八百里に向かって叫ぶ。穂高の言葉に八百里はゆっくりと瞳を閉じるとおもむろに口を開く。

「ふむ……この景色は……モノレールじゃな。それにこれは……病院か? 北鎌倉総合病院……と読めるが、知っておるか?」

「ああ! そこなら知ってる。モノレールの下にある病院だろ? じゃあ、ちょっと急ぐから、しっかりつかまっていろよ!」

 穂高は大きくうなずくと勢い良く自転車をこぎ始め、二人は一路北鎌倉を目指した。


「よし……着いたぜ。それで……息吹はどこにいるんだ?」

 穂高は息を切らせたまま慌ただしく周囲を見渡す。

「ほだかにやおりさま! 来てくれてありがとうなのです!」

 不意に後ろから声をかけられ、二人が振り返ると、そこには浮かない表情の息吹の姿があった。その様子に思い当たる節があるのか、八百里は息吹の頭を撫でながら優しく問いかける。

「……その様子から察するに息吹はことのあらましを知ったのじゃな?」

「はい……いぶきはどうしたらいいか……」

 八百里の言葉に息吹は力なく首をたてに不利、八百里は優しく息吹を抱きしめる。そんな二人を見て穂高がいぶかしげに首をかしげた。

「どういうことだ、八百里? 知ったってなんのことだ? なんで息吹はそんなに落ち込んでるんだ?」

 息吹がうつむいたまま穂高の服の裾をつかみ、力なく呟いた。

「……ほだかも一緒に見て欲しいのです。やおりさま……」

「うむ、心得た」

 息吹の言葉に八百里が軽く手を振ると、一瞬にして周囲の景色が移り変わり、穂高たちの目の前には病室とおぼしき景色が拡がり始める。その光景を前に息吹は困惑した表情で部屋の一点を見つめていた。

「これは……病室? あの子供は? どういうことだ?」

 穂高の目の前にはベッドに横たわる女性の姿があり、その傍らに紫陽花を花瓶に活けている少年の姿がある。状況が理解できていないのか、穂高は困惑した表情で八百里を見つめ、一方の八百里はそんな穂高の視線を受けてゆっくりと口を開く。

「……これは切り取られたツツジの見ている光景じゃ」

「つまりこの病室にいる少年がツツジと紫陽花を切っていた犯人と?」

 穂高の言葉に八百里は小さく首を縦に振る。すると穂高たちの目の前で、おもむろに少年が立ち上がると何やら女性に話しかけ、女性はそれに対して力なくほほえんでいた。始めは二人の会話は聞こえなかったが、次第にその会話が穂高たちの耳に届く。

「ほら、お母さんの大好きだった紫陽花だよ! 今日のはいつもと違う色なんだ。今年もいろんな色の花が咲いてて綺麗だったんだよ! ねっ、今度一緒に見に行こうよ!」

「この前のツツジといいありがとうね。でもお花が可哀想だからもう取ってきちゃダメよ?」

 ベッド上の女性は少年の母親らしく、その言葉に少年は悲しそうに小さく首を横に振る。

「でも……お母さん、もうすぐ手術なのに元気がないし。僕……お母さんに喜んで欲しくて……。お母さんいつもこの季節を楽しみにしてたから……」

 すると女性は少年を抱きかかえ、優しくその耳元で呟く。

「ありがとう……その気持だけで私は元気になれるわ。でもね、お花さんも私だけじゃなくて、もっと多くの人に喜んで欲しいと思っているはずよ。私は大丈夫、あなたがこうして来てくれれば、それが私にとってかけがえのないお花なのよ」

 その言葉に少年は泣きだし、女性の胸に顔をうずめる。周囲に嗚咽が響き、景色が徐々に薄らいでいく。次の瞬間、眩い光と共に穂高たちの目の前に元の景色が戻ってくる。

「……そういうことか」

 穂高は息吹が複雑な表情を見せた理由を理解したのか八百里を一瞥し、一方の八百里は穂高の視線を受けて小さく首を縦に振る。

「これは現世の理じゃ。あの小僧に花を切るなと言うも良し、もしくは小僧の意志を汲み母親のために花を差し出すも良し。あのような理由ならば紫陽花やツツジも納得するじゃろうて。さて、どうする、穂高よ?」

「どうって言われても……俺には……」

「ほだか……いぶきはどうしたらいいのか分からないのです。花は人と共にあり、人に喜ばれることを喜びとするのです。もちろんそのために切られるのは可哀想だけど、花が人の希望になるのであれば、ツツジや紫陽花もきっと……」

 息吹が困惑した表情で穂高を見つめ、穂高は額に手を当てて考えこむ。

「なぁ、八百里……ちなみにあの子のお母さんって、体調はどんな感じなのか分かるか? 結構まずい感じなのか?」

 穂高の言葉を受けて、八百里はおもむろに瞳を閉じるとゆっくりと首を横に振る。

「ふむ……魂は枯れてはおらんな。その手術次第なのじゃろうが、それ以外には特に身を蝕む病魔はないように見えるのう」

「そっか……良かった。なら問題ないな。となると花だけで済むか……」

「どういうことですか? いぶきにはほだかが何を言いたいのかさっぱりなのです」

 穂高の言葉に息吹が首をかしげ、一方の八百里は穂高の言わんとしていることを理解したのか、嬉しそうに口元をほころばせる。穂高は息吹を真っ直ぐに見つめて語りだす。

「俺としては花で母親を勇気づけたいというあの子の気持ちは分かる。二人はどうだ?」

「……いぶきもそれには賛成なのですが、毎回つぼみを切られちゃうと花が可哀想だから毎回はちょっと……っという感じなのです」

「ふふっ……わしよりも紫陽花やツツジに直接聞いたほうが良かろう。……ほれ」

 八百里が軽く手を振ると、穂高を淡い光が包みこむ。穂高は光に包まれながら瞳を閉じてしばし沈黙し、ゆっくりと瞳を見開いて大きくうなずいた。

「良し! あいつらも賛成してくれた。あの子の母親を元気づけたいってさ」

 穂高の言葉に八百里は嬉しそうに笑みを浮かべ、一方の息吹は首をかしげている。

「でもどうするのですか? 蕾を切るのを見逃すということなら、ツツジや紫陽花に負担がかからないように、せめて切る位置を変えるように頼んであげて欲しいのです。でもあの子が見ず知らずのほだかのお願いをいきなり聞いてくれるとは思えませんし……」

 穂高は息吹の言葉に小さく首を横に振ると、息吹の頭に手を乗せてほほえんだ。

「ちがうちがう。もっといい方法があるぜ。なんせここには息吹がいるんだからさ」

「私ですか?」

 穂高の言葉に息吹が不思議そうに首をかしげるが、穂高は満足そうにうなずいた。

「簡単な話だ。あの子はお母さんを元気づけるために紫陽花とツツジを摘んでいた。じゃあどうしてあの子は何回も花を摘んだんだ?」

「それは……花が終わってしまうからですか? ……あっ、わかったのです!」

 穂高が言わんとしていることを理解したのか、息吹が大きくうなずく。

「ああ……これは息吹にしか頼めない。もちろん息吹が納得してくれたら、の話だけどな。お前はこういうことに自分の力を使うのを嫌うだろ?」

 穂高が息吹を眺めながらその顔色を伺うように呟く。息吹は一瞬考えこむと、おもむろに八百里に向かって振り向き、八百里は笑顔で首を縦に振る。

「息吹のしたいようにすれば良い。お主は狭間と現世の理にとらわれる必要はない」

 八百里の言葉に息吹が小さくうなずくと、穂高に向き直る。

「ほだか……今、いぶきも『あの子たち』に聞いてみたのです。そしたら『是非に』って……。あの子たちとあの人間たち、みんな幸せになれるなら、いぶきは力を貸すのです!」

「息吹……ありがとな!」

 その言葉に穂高が嬉しそうに息吹の手を取り、息吹は小さくうなずいた。

「守護とは大地の命と理を守る者なのです。私欲ではなく、誰かを思いやるその純粋な想い、このいぶきが確かに受け取ったのです。ならばいぶきは喜んで力を貸すのです」

 息吹はそう言うや、ゆっくりと瞳を閉じてその身に宿る神性を開放する。その瞬間、息吹を中心に青い光を宿した風が吹き荒れる。風は徐々にその勢いを増していき、息吹を中心に凄まじい光と風の奔流が生まれる。次の瞬間、吹き荒れていた風は一瞬にして霧散し、小さな光が息吹の体を取り囲むようにゆっくりと渦巻いていた。

 息吹の黒い髪は藤色に染まり、全身に淡い光が宿る。時折吹く風が息吹の髪を揺らし、風になびいた髪から光の残滓がこぼれ落ちる。息吹は病院を眺めると、ゆっくりと手を空に向かってかかげる。それに呼応するかのように息吹を取り囲むように渦巻いていた光が更にその輝きを増し、息吹を中心に眩いばかりの光が集まる。そして息吹の瞳が大きく見開かれる。

「ではいくのです!」

 息吹がそう言うや、周囲に凄まじい勢いで青い光がほとばしる。光は息吹を中心に同心円を描きながら広がっていき、瞬く間に病院を覆いつくす。光は留まる所を知らず、病院はおろか周辺一帯を埋め尽くした。

「ばっ、ばかもん! やりすぎじゃ! 街まるごとに魂振りの力を降ろす気か!」

「あっ……。ごっ、ごめんなさいなのです! やおりさま」

 八百里の言葉に息吹が慌てて力を抑え、光はゆっくりと消えていく。一方の穂高はその光景に言葉を失いただ茫然と立ち尽くしていた。

「すげえ……。相変わらずでたらめだな……」

 穂高が呆れた表情で呟くと、息吹が胸を張る。

「ふふん。いぶきはでたらめなのです! 尊敬するのです!」

「褒めてねえよ……。いや、褒めてるけど、褒めてねえよ……」

 穂高の前でふんぞり返っている息吹を前に、穂高と八百里はお互いに顔を見合わせて小さくため息をつく。そんな二人とは対照的に息吹は嬉しそうに語りだす。

「これであの紫陽花とツツジは水さえあれば、三月みつきくらいは枯れることはないのです。これであの子が満足してくれればいいのですが……」

「もう病室の紫陽花だけってレベルじゃねえけどな……」

「ふむ……息吹の神性は祓いと魂振り――即ち魂の再生と充足じゃ。花は言うまでもないが、恐らく先ほどの力の余波を受けて、あの小僧の母親も快気に向かうじゃろうな。……あまり現世の理を歪めるわけにはいかんが、この程度なら問題なかろう。ご苦労だったな、息吹」

「えへへ……いぶきもみんなのお役に立てて嬉しいのです!」

 藤の守護である息吹の力をもってすれば、花瓶の紫陽花は忽ちにして決して散らぬ悠久の花となるが、息吹がその力を行使することはほとんど無い。自然の中で繁栄し、そして滅びること。その栄枯盛衰を見守ることが守護の在り方であり、守護は不自然な変化は望まない。

 そんな息吹が人のために力を使ったことを八百里は内心とても喜んでいた。

「現世と狭間、人と守護、その在り方は大きく変わった。我らの繋がりは途絶えたかに見えたが、再びこうして新しい繋がりが生まれておる。……お主が愛した世界はまだ美しいか?」

 目の前で仲睦まじくほほえむ息吹と穂高を見て、八百里は小さく呟いた。



「穂高よ、今日は共にいると言ったが、ちと外さねばならなくなった。すまぬ……」

 八百里が申し訳無さそうに穂高を見つめ、一方の穂高は首を横に振るとほがらかに笑う。

「気にすんな。焦らなくても俺たちの時間は逃げたりはしないさ」

「ふふっ……ならばその言葉に甘えるとしよう。息吹を借りるが構わんか?」

「ああ。適当にそこら辺を覗いてから家に変えるから、なんか土産を買っておくよ」

「いぶきは甘いものがいいのです!」

 穂高の言葉に息吹が瞳を輝かせ、穂高はそんな息吹の頭を優しく撫でる。

「うむ。楽しみにしておくとしよう。ではまた後でな」

 八百里はそう言うや景色に溶けて消えていき、息吹もそれに続く。

 八百里たちと別れた穂高は、特に用事もなく適当に商店街を歩いていた。すると前方から棗が歩いてくるのが見えた。穂高は手を振りながら棗に語りかける。

「おっ? 棗じゃん。今日はどうした? またお使いか?」

「あっ、穂高くん。うん、そんなところ。穂高君こそこんなところでどうしたの?」

「例のツツジと紫陽花を切った子供がまた来てさ。でも、もう大丈夫だけどな」

「どういうこと? 何かあったの?」

 首をかしげる棗を前に、穂高は一瞬考えこみ、あっさりと説明することを放棄した。

「まあ、いろいろあったけど、あの子はもうこれ以上は花を切らないってことで決着だ」

「あはっ、何それ。適当すぎない? でも良かったね。穂高くん結構気にしてたみたいだし」

「おう!」

 屈託のない笑顔を見せる棗を前に穂高も嬉しそうに笑い、二人は並んで商店街を歩く。

「どう、穂高くん? 時間あるならたまにはコーヒーでも飲みにいかない?」

「おっ、いいね。イワタコーヒー店のホットケーキでも食いに行くか?」

「あそこいつも混んでるからなぁ……。でもせっかくだから行ってみる?」

「了解っと」

 穂高は棗を自転車に座らせると、そのまま勢い良くこぎだした。


「そういえば穂高くんって神社継ぐの?」

「いきなりだな、そうだなぁ……多分継ぐ……と思う。そのために戻ってきた訳だし」

 薄暗い店の中で、穂高と棗が向き合って座っている。棗の言葉に穂高はコーヒーカップを見つめながら小さく答える。

「ふーん。穂高くんって昔から変わっているというか、不思議な感じだったけど、神主さんになるならなんか納得だなぁ」

「不思議ねぇ……まぁ、変なガキだったってのは認めるよ」

「あの頃の穂高くんは不思議ちゃんだったもんねー。いきなり何もない所に向かって話しかけたり、花を踏みつけた子に喧嘩をふっかけたり」

「思い出させんなよ……黒歴史みたいなものだと思ってくれ……」

 棗の言葉に穂高が恥ずかしそうに頬をかく。棗はそんな穂高を眺めて笑みを浮かべながら続ける。

「いきなり外国に行っちゃうし、戻ってきたら全く別人みたいになってるんだもん。びっくりしちゃった。これでも一応寂しかったんだよ?」

「親父の仕事の都合だったからなぁ……って、俺そんなに変わったか?」

 穂高の言葉に棗は皿の上のケーキを口に運びながら小さくうなずく。

「……穂高くん、昔はエアーハグなんてしなかったもん。さすがヨーロッパ帰りは違うわね」

「お願いだからあれは忘れて……お願い」

 無邪気に笑う棗の横で、穂高は頭を抱えて机に突っ伏して悶えていた。


「……相変わらずうまいな、ここのチーズケーキ」

「ホットケーキも美味しいよ」

 二人はしばしの間、無言でケーキを頬張っていたが、棗がおもむろに手を止めて穂高を真っ直ぐ見つめて問いかける。

「……ねぇ、前から聞こうと思っていたんだけどさ、穂高くんのその『視えない』お友達ってどんな感じなの? 『やおりさん』と『いぶきさん』だっけ?」

 棗の言葉に穂高のフォークを持つ手が止まり、穂高は驚いた様子で棗を見つめる。一方の棗は真っ直ぐに穂高の瞳を見つめて視線を離さない。今まで見たことのない幼なじみの真剣な表情を前に、穂高は小さく深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いた。

「……一言で言えば大切な奴らだ。棗が信じるかどうかは別としてな」

「信じるよ」

「えっ?」

 棗は真っ直ぐに穂高を見つめて真剣な表情で見つめている。

「信じるよ。だって穂高くん子供の頃からその名前を呼んでいたもの。こっちに戻ってきてからもその名前を呼んでる。だから思ったの。きっとその人たちは昔からずっと穂高くんの側にいるんだろうって」

 棗の言葉が意外だったのか穂高は照れくさそうに頭をかく。

「……てっきり、頭のおかしい奴と思わてると思ったぜ」

「そんなこと無い!」

 突然語気を強める棗を前に穂高は思わず気圧され、それに気がついたのか棗が恥ずかしそうにうつむいてしまう。そんな棗を見つめながら穂高がとつとつと語りだす。

「八百里と息吹は……見た目は和服の小学生と高校生って感じだ。二人共美人だぜ」

 穂高の言葉に棗が露骨に顔をしかめて思わず上体をのけぞらせる。

「……どうしよう。今幼なじみの知ってはいけない性癖を垣間見てしまった気分だわ。いくら和装好きの穂高くんでもさすがに小学生は……引くわ」

「待て待て! 八百里が子供なのは見た目だけで、実際はすんごく長く生きてるらしいから大丈夫なはずだ。断じて俺はロリコンじゃない!」

 棗は慌てて弁解する穂高をどこか怯えた瞳で見つめ、心なしか腰を少し浮かしている。ますます本気になって弁解をする穂高の様子に、棗がいきなり大きく笑い出す。

「あははっ、冗談だよ。相手が子供でも幽霊なら関係ないもんね。でも穂高くん、本当に和装が好きだよね。和装フェチの異名は相変わらずだね」

「棗さぁ……お前俺を勘違いしてるが、俺は和装の女性が好きなんじゃない。和服が好きなんだ。あのきめ細やかな刺繍といい、デザイン、色使いどれをとっても日本の誇りだろ? それに訂正しとくが八百里と息吹は幽霊なんかじゃない。どちらかというと神様に近いらしいけど、詳しいことは俺にもよく分からねえ」

 真剣に語る穂高を前に、棗が突然笑い出す。

「あははっ! 和装少女の神さまなんて……穂高くんアニメの見過ぎだよ。神社の跡取りがそんなんでいいの?」

「あいつらは神様じゃないからいいんだよ」

「ふーん」

 棗は楽しそうにコーヒーをスプーンでかきまわし、そんな棗を前に穂高が語る。

「俺さ、ガキの頃から爺ちゃんに言われてたことがあってさ。棗の知っての通り俺の爺ちゃんは所謂視える人じゃん。んで、その爺ちゃんに言わせるとな、この世には俺たちだけじゃなくて森羅万象全てに意思が宿ってて、それこそ川の水ですら言葉をしゃべってるんだってさ」

「へぇ……それは素敵な考え方だね。私も好きだな、そういうの」

 棗の言葉に穂高は小さくうなずくとそのまま続ける。

「それでさ、そこらで咲いている花や木、そして雨風も全て言葉をしゃべってるんだって言うんだ。俺はガキだからそうだったらすげえなぁ……くらいにしか思ってなかったんだけどさ。それでも、もし本当に木とか風とかが話してたらすげえ、ただそんな事を考えてたんだ」

「……それで、穂高くんにはその声が聞こえた、と?」

 突然棗の声色が変わり、真っ直ぐに穂高を見つめる。穂高はそんな棗の視線を真っ直ぐに受け止めて小さく首を縦に振る。

「ああ……それである日突然、あいつに、あいつらに出会ったんだ。その日からだ。俺がいろいろな声を聞くことができるようになったのは」

「それって……あの時の事、だよね?」

「ああ……」

 二人は見つめ合ったままお互い黙して語らない。すると棗が笑みを浮かべ、残りが少ないコーヒーカップを一気に傾ける。

「話してくれてありがと。私はいつだって穂高くんを信じてるよ」

「……そっか。そう言ってくれるのは爺ちゃんとお前くらいだ。ってか、この話を知ってんのも棗と爺ちゃんだけなんだけどさ」

「へぇ、それはいいことを聞いちゃった。口止め料は横浜デートでいいよ」

「ばーか、言ってろ……って、もうこんな時間かよ! ばあちゃんに帰りに鳩サブレを買って来いって言われてたんだ。棗はどうする? 一緒に帰るなら途中まで送ってくぜ?」

 穂高の言葉に棗は満面の笑みを浮かべながら嬉しそうにうなずいた。

「豊島屋に行くなら私も買いたいものがあるの。じゃあ一緒に帰ろうかな」

 外は既に陽が傾き、斜陽が通りに差し込んで周囲は茜色に染まる。雲が赤から黒の階調を刻み、幾分か冷えた夕方の風が二人の間を吹き抜けた。


**


 穂高と棗が買い物を終え、二人が極楽寺の切通しにさしかかった瞬間、突然穂高の目の前に黒い煙が立ち上る。

「っ! 何だ!」

 穂高は慌てて自転車を止めると、後ろに座っていた棗の手を引き、緊張気味に後ずさる。

「どっ、どうしたの? 穂高くん?」

 突然の事に驚いた棗が問いかけるが穂高は答えない。穂高は目を大きく見開き眼前の光景を見つめているが、棗の瞳には何も映らない。穂高の瞳には地面から這い出るようにゆっくりと広がる黒い煙が映っていた。穂高はそれを知っている。

「……あれは……瘴気。どうしてこんな所に?」

「瘴気? どういうこと? 何かあるの? ねぇ、穂高くん?」

 動揺する棗をよそに、穂高は目の前を見つめるばかりで微動だにしない。大地より溢れ出る瘴気を前に、穂高は思わず固唾を飲み込んだ。

 穂高にとって瘴気を見るのはこれが初めてではなく、瘴気が穂高に害をなしたことはただの一度もない。故に穂高は瘴気に対して嫌悪こそ覚えたが恐怖を抱いたことはない。しかし穂高が瘴気に遭遇した時は、いつもその傍らには八百里たちがいた。

 八百里が見守り、息吹が側にいる。それだけで穂高は瘴気を前に臆すること無く、自分らしく在ることができた。しかし、いざ彼女たちがいないこの状況で瘴気に対面した穂高は、その禍々しい気配にあらためて恐怖した。

 途端に穂高の足が小刻みに震えだす。呼吸は荒く乱れ、視線はせわしなく虚空を泳ぐ。穂高の動揺は隣にいる棗にも伝わり、棗を言いようのない恐怖が包む。

「えっ? なっ、なに? 穂高くん、どうしちゃったの?」

 棗が混乱した様子で穂高の手を強く握りしめるが穂高は動かない、否、動けなかった。

「ねっ、ねえ……。何かここ良くない感じがするから、さっさと行こう? ねぇってば!」

 棗が穂高の服を強く引っ張り、心配した様子で大きく叫ぶ。その声に我に返った穂高は慌てて棗の手を強く握って叫ぶ。

「ここはマズい。……逃げるぞ、棗!」

 穂高が棗の手を引いて走ろうとしたその瞬間、突然棗が座り込む。

「あっ、あはは……ごめんね、穂高くん。なんでか分からないけど……足が動かないや」

 穂高が慌てて棗の足元を見ると、棗の足を絡めとるように瘴気が渦巻いていた。

「……マジかよ、くそっ!」

 穂高は何とか棗の体を持ち上げると、そのまま棗を抱きかかながら走り出す。しかし棗の足に絡みついた瘴気は離れる気配はなく、ゆっくりと棗の体を包み込み始める。

 その光景に穂高の顔から血の気が引いていく。穂高の脳裏に以前山中で見た光景が再生される。瘴気は命を喰らう。穂高の目の前でみるみる枯れていく植物たち。そして棗が瘴気に飲み込まれつつあるという事実。

 穂高の体を一瞬にして恐怖が包み、その体は小刻みに震え出す。

「棗……棗!!」

 はじめはつま先、そして脛、そして膝へと徐々に棗の体を這い上がる瘴気を前に、穂高の額に冷たい汗が流れる。一方の棗は体の変調を感じてか、穂高の腕の中で震えていた。

「ねっ、ねぇ? 穂高くん? 私どうしちゃったのかなぁ? さっきから体が寒くて震えちゃってるんだよね。……あはは、変なの」

 棗は乾いた笑いを浮かべ、そんな棗を前に穂高は思わず叫ぶ。

「棗! しっかりしろ! とにかく今はここから離れるぞ!」

 穂高は棗を抱えたまま走るが、突然足を取られてつまずき、棗の体はそのまま植え込みへと放り投げられる。

「きゃあ!!」

「くっ……なんだってんだ? 一体……」 

 穂高が何事かと足元を見れば、穂高の足を絡めとるように瘴気がまとわりついていた。

「……っ! しまった!」

 穂高はその光景に一瞬恐怖に呑まれそうになるが、植え込みに埋まっている棗を見るや慌てて叫ぶ。

「棗! 大丈夫か!?」

「私は……大丈夫だけど、穂高くんは?」

「問題ない……多分な」

 穂高は瘴気に足を絡めとられたままゆっくりと立ち上がると、足を引きずりながら棗の下に向かう。棗の下半身は既に瘴気に覆われており、思わず穂高が息を呑む。そんな穂高を見て何かを察したのか、棗が力なく笑う。

「……逃げて。なんだか分からないけど『視えて』いるんでしょ? どうしてか分からないけどさっきから寒気がして足が動かないの。多分私はもう動けない。だから穂高くんは逃げて」

「ふざけんな! いいからここを離れるぞ、棗! 大丈夫、家に帰れば八百里がいる!」

 穂高は棗を抱えるとゆっくりと立ち上がる。その瞬間、穂高は体がとてつもなく重く感じ、思わず膝を付く。穂高が何事かと目を凝らすと、いつの間にか穂高の体は胸まで瘴気に覆われていた。その光景に穂高は顔をしかめて苦しそうに呟いた。

「……こりゃ……本気でやばいな。俺も八百里と同じように瘴気を祓えれば……くそ……」

「穂高くん! どっ、どうしたの!? ねぇ、穂高くん!!」

 地面に放り出された棗が穂高に向かって叫ぶが、その声は穂高には届かない。

「……なるほど……な。命を喰われるってのはこういう気分なのか……勉強になったぜ。八百里……泣くかな……ちくしょう……」

 次第に視界が霞み、穂高は力なく地面に両手をつく。意識は徐々に薄れ、穂高はゆっくりと地面に崩れ落ちた。その瞬間、誰かが穂高の前に立った。

「……待たせたな、穂高。よくぞ耐えた。後はわしに任せるがよい」


 どこか聞き慣れた声が響き、次の瞬間、周囲を眩いばかりの光が覆う。大地が黄金色に輝き、穂高を中心に天を衝くような光の柱が立ち上る。

「我が名は八百里! 始まりの守護たるわれが司るは天地あまつちことわりにして万象の門! 今ここに開け! 流転の道よ!」

 八百里の声が朗々と響いたかと思うと、光柱は徐々にその大きさを増し、瞬く間に周囲の一切を飲み込んだ。周囲に溢れていた瘴気は一瞬の内にあまねく光に呑まれて消え去った。

 光は夕闇を切り裂き天へと上り、空から光の残滓が雪のように深々と降りそそぐ。その光景に穂高はゆっくりと体を起こし、目の前に立つ人物に向かって小さくほほえんだ。

「遅いぜ……八百里」

 穂高の目の前にはその体に眩いばかりの光をまとった八百里が立っていた。八百里は穂高を見るや、無言でその胸に飛び込んだ。

「おっ、おい? 八百里?」

 穂高の言葉に八百里は答えない。八百里は無言で穂高の胸に顔をうずめ、そのまま穂高を抱きしめる。八百里の体は小刻みに震えており、穂高を抱きしめる腕に力がこめられる。そんな八百里を前に、穂高はほほえみながら八百里の体に手を回す。

「……穂高よ」

「……なんだ?」

 八百里は穂高の胸に顔をうずめたまま呟く。

「……約束するのじゃ。勝手にわしを置いて消えぬと……。二度とわしの前から勝手に消えぬと……」

「ああ……約束する。今回はちょいとばかり焦ったけど、助かったぜ、八百里」

 穂高は八百里の頭をゆっくりと撫で、八百里の体が一瞬小さく震える。

「……何かあったら疾くわしを呼ぶのじゃ。この八百里、穂高の言葉があれば例え那由多の果てからでも駆けつけようぞ」

「ああ……ありがとな」

 穂高は八百里を抱きしめたまま、ゆっくりと瞳を閉じる。二人が抱き合ってしばらく経った頃、穂高は棗の存在を完全に失念していたことに気がつき、恐る恐る棗に向かって振り返る。するとそこには穂高に向かって指をさしながら、体を震わせている棗の姿があった。

「……またエアーハグしてる。ごめん、やっぱりちょっと気持ち悪い……」

「……」

 穂高は何も答えなかった。


「いやー、怖かった―。それで一体何が起きていたの? いきなり体が軽くなったけど。どうせ穂高くんには何か『視えて』いたんでしょ?」

 棗が体を伸ばしながら、手足の調子を確かめる。一方の穂高は八百里をその腕に抱きかかえながらしばし考えこむ素振りを見せる。すると八百里が穂高に向かって小さくささやいた。

「どうせ言った所でその女子には瘴気は見えん。いたずらに事を荒立てる必要もあるまい……と言いたいところじゃが、その娘はそんな答えでは恐らく納得するまいよ。仕方あるまい」

 八百里の言葉に穂高は小さくうなずき、棗に事のあらましを説明し始める。棗は自身が瘴気に冒されるという経験をしたせいか、真っ直ぐに耳を傾けていた。

「要はその八百里さんという人が地面から湧き出る毒みたいなものを処理する役目なのよね」

「平たく言うとそんな感じだ。正確にはそれをできるのが八百里しかいないってことらしい。八百里に言わせると俺にもできるらしいんだけどな」

 穂高の言葉に棗は一瞬何かを言おうとするが、小さく首を横に振る。

「……にわかには信じがたいけど、さすがにさっきのを体験したらそうも言っていられないわね。それで、その毒みたいなのはこれからも湧くの?」

「八百里が言うには気が淀んだ場所に稀に溢れるらしい。でも、今回みたいに瘴気が大規模に漏れ出る事は珍しいらしいけど」

「よくわからないけど、怖かったんだから。あんな目に遭うのはこれっきりにして欲しいわ」

「それには同感だな、正直死ぬかと思ったぜ……」

 棗はそう言うと肩をすくめ、穂高は苦笑しながら小さくうなずいた。そんな二人を見つめながら、八百里が誰にも聞こえない声で小さく呟いた。

「……瘴気が湧くのはこれで二度目。わしも覚悟しておかねばならんか……」


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