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となりの花鳥風月  作者: Fennel
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四章:過渡

四章:過渡


「やおりさま……それは……」

 八百里の言葉に蒼白な表情で息吹が呟き、八百里はゆっくりと首を横に振る。

「案ずるでない。確かに以前よりも、隠世からの瘴気が漏れ出ることが多くなったが、『綻び』が生まれた訳ではない」

「でっ……でも、いぶきは知っているのです。あの櫛は……あの人は……やおりさまの……」

「息吹!」

 息吹の言葉を八百里が強い口調で制し、息吹は思わず体を震わせてうつむく。

「瘴気が漏れているだけならいいのです。でも、もし『綻び』だったら……やおりさまが……やおりさまが……」

 息吹が蒼白な表情で呟き、その体は更に強く震えている。八百里はそんな息吹を見つめると、ゆっくりと抱きしめる。

「息吹は……やさしい子じゃな。大丈夫じゃ……わしはここにおる。息吹と穂高と共に、ここにおる。どこにも行かぬよ」

「約束なのです……。やおりさまはいぶきと一緒に笑っていてくれなきゃ駄目なのです……」

 その言葉に八百里は息吹の髪を撫でながら小さくほほえんだ。


 ツツジと紫陽花が切られる事件があった翌週、穂高は見回りのために再び息吹と共に段葛と成就院を見まわることにしていた。朝食を終えた穂高が外着に着替えながら、茶をすすっている八百里に向かって声をかける。

「八百里は今日もその野暮用とやらか?」

「いや、今日はほだかと一緒に過ごそうと思うてな。野暮用は終わらせておいたわ」

「やった! じゃあ今日は一日やおりさまと一緒なのです!」

「きゃん!」

「八百里ぃー!」

 傍らにいた息吹がそう言うや勢い良く八百里に抱きつき、その勢いに小さな八百里の体が吹き飛ばされる。八百里は体をくの字に曲げながら壁まで吹き飛び、壁に寄りかかるように崩れ落ちる。その上にはまるで飼い主にじゃれる犬のような姿勢で息吹が覆いかぶさっていた。

「うれしいのです、うれしいのです! 今日は三人でお出かけなのです!」

「ふふっ……。そんなにわしと出かけるのが嬉しいのか? 可愛いやつじゃのう……」

「はい! いぶきは可愛いやつなのです!」

「ふふふっ、うい奴じゃのう。息吹はういのう……」

 まるで尻尾が見えるような勢いで息吹が嬉しそうに八百里に抱きつき、一方の八百里もまんざらではない様子で息吹の頭を撫でている。その光景に穂高が小さなため息をついた。

「……大型犬再び、ってか」


「よし! なら今日は八百里の好きなものを食わせてやる。『みのわ』のわらび餅でも、『雲母』のあんみつでも何でもいいぜ。何を食いたいか考えておいてくれよ」

「ふふっ……それは嬉しい申し出じゃのう。楽しみに考えておくとしよう」

 八百里は嬉しそうに笑い、三人はそのまま家を後にする。

「まずは段葛と成就院の様子を見てからだな。段葛から行くか」

「了解なのです! 今日は何も起きていないと嬉しいのです」

 穂高は息吹と八百里に告げると、勢い良く自転車をこぎだした。その荷台には八百里が座り、その横には息吹が浮かんでいる。

「しっかし便利だよなぁ……お前たち飛べるんだろ? 俺も一度くらいは飛んでみたいぜ」

「なんじゃ、穂高。お主飛びたいのか?」

「ああ、飛びたい……って、飛べるのか?」

 八百里の言葉に思わず穂高が聞き返し、八百里はいたずらっぽく笑みを浮かべる。

「その体のしがらみを捨て、狭間の住人となれば、な」

 その言葉に何か引っかかるものを感じた穂高は小さな声で聞き返す。

「……ちなみにそうなった場合、現世での俺の存在って?」

「まぁ……死んでおるじゃろうな。体のしがらみを捨てるというのはそういうことじゃ」

「……やっぱり飛ぶというのは無しの方向性で」

「ほだかは無い物ねだりをしているだけなのです。いぶきはほだかみたいにいろいろ美味しい物を食べられる現世の住人の方がうらやましいのです」

 息吹の言葉に穂高はそれもそうかと小さくうなずき、そのまま三人は一路段葛を目指す。


「今週は……切られていないみたいだな。良かった……」

「ふむ……件のツツジとやらはこれか。なるほど確かに切られておるのう……。うん?」

 八百里が何かを感じたのか首を傾げ、息吹と穂高もどこか慌てた表情で周囲を見渡す。

「今……聞こえたよな?」

「はいです! 今確かにツツジの声が聞こえたのです!」

「くそっ、どこだ? どこのツツジだ……?」

 段葛は早朝にもかかわらず多くの人で賑わっており、皆満開のツツジを楽しそうに眺めていた。八百里は焦る二人を眺めて小さくうなずくと、ゆっくりと瞳を閉じた。

「ふむ……そこか」

「分かるのか!?」

 穂高の言葉に八百里は胸を張って誇らしげに答える。

「わしを誰だと心得る。始まりの守護にして万象の門たる八百里じゃぞ。大地に生きる命はあまねくわしと共にある」

 八百里はそう言うや、段葛の一点を指差して瞳を細める。

「先ほどの声はこの先からのようじゃな」

「さすがやおりさまなのです! ほら、ほだか、早く行くのです! きっとこの前の犯人がまたツツジにひどいことをしようとしているのです!」

「おっ、おい、息吹。引っ張るなって……」

 意気込む息吹に手を引かれて穂高は人混みの中に消えていく。八百里はそんな二人の背中を眺めながら小さく呟いた。

「さて……現世でのことは現世の理に従わねばならん。どうする、穂高よ」


「ひどい……またなのです……」

「くそっ、今日はこっちが切られたか。息吹、周りに怪しい奴はいたか?」

「それが……人が多すぎてどの子供が怪しいか分からないのです……」

 切られたツツジを前に穂高が苛立ちを隠せず、息吹も焦った様子で周囲を見渡していた。二人は必死にツツジを切った少年を探すが、結局その努力は徒労に終わる。

「くそっ、こうも人が多くちゃ話にならねえ! せめて服装くらい聞いておけば良かったな……って、もう遅いけど」

 悔しそうに拳を握り締める穂高の横で、息吹が動揺した様子で小さく呟いた。

「どうして? ……どうして何も言ってくれないのですか?」

「息吹?」

「この子たちが何も話してくれないのです……。誰に切られたのか、どんな子供が切ったのか……どういうことでしょうか」

 息吹の言葉に穂高も驚いた様子でツツジたちに向き直り、ゆっくりと瞳を閉じる。次の瞬間、穂高が困惑した表情で首を横に振る。

「……駄目だ。こいつら黙っちまってる。どういうことだ?」

 穂高の言葉に息吹も困惑した様子で首をかしげていた。

「どうやらその子供はもう近くにはいないようじゃな」

「八百里……でも……」

 後ろから八百里が語りかけ、穂高は納得いかないのか何かを言いかける。

「こうなってしまってはもはや見つかるまい。それにツツジの花が摘まれたのであれば、今度は紫陽花の花も取りに来るやもしれん。ならばここは疾く成就院に行くべきじゃろう」

「はいなのです! 絶対犯人を捕まえてとっちめてやるのです!」

 八百里の言葉に息吹は大きくうなずき、穂高も無言で首を縦に振る。


 三人は成就院に向かうべく商店街を歩いていた。今でも古都としての面影が残ってはいるものの、その街並みは近代化の余波を受け、古い町並みは景観を損なわない程度に新しい建物に置き換わっていた。

「この辺も随分と変わったよなぁ……。古い店がどんどん消えちまった……」

 歩きながら穂高がある一角を見つめながらため息をつく。穂高の視線の先には大きな空き地が広がっており、そこにはかつて古い酒屋があったことを穂高は覚えていた。

「古いものが新しいものに変わる。それは人の常だから仕方ないと思うのです。そんな事を言ったら人は今でも茅葺かやぶきの屋根の家に住むことになるのです」

「そうなんだけどさ……それでもちょっと寂しい訳よ。この街で育った俺としては、さ」

「ふーん。いぶきにはたかだか百年くらいの物にそんなに価値があるとは思えないのです」

「お前たちからすれば何でも新しい物なんだろうが、俺には数十年でも大きな変化なの」

「ほだかは意外にみみっちいのですね」

「なんだとう、この野郎」

 騒ぐ二人をよそに、目の前の空き地を眺めていた八百里が、何かに気がついたのか振り返らずに二人に向かって呟いた。

「お前たち、先に行っておれ。……わしは少し野暮用ができた」

「どうしたんだ、いきなり?」

 八百里の言葉に穂高が驚いた様子で振り返り、息吹も首をかしげている。一方の八百里は苦笑しつつ首を横に振る。

「何、つまらんことじゃ。お前たちは気にせず先に行くがよい」

 八百里の言葉に何かを感じたのか、息吹が八百里を見つめて視線を離さない。その視線が八百里の背後にある空き地の一角を捉え、思わず息吹の瞳が大きく見開かれる。その光景に息吹が何かを言おうと口を開くが、それは八百里の言葉によって制される。

「すまんのう。なあに、直ぐ終わる」

「……やおりさまがそうおっしゃるなら」

「本当に良いのか? じゃあ先に行ってるぜ、八百里」

「うむ、わしも久しく紫陽花を見てなかったからな、楽しみじゃ」

 八百里の言葉に納得したのか、穂高が息吹を連れて商店街の奥に消えていく。そんな二人の背中を見つめながら八百里が小さくため息をつく。

「全く、穂高は危なっかしくていかん。現世の『門』として覚醒しているのなら問題はないのじゃが、今の穂高では手に負えまい」

 八百里はそう言うや空き地に向かって手をかざす。その瞬間、空き地の地面から黒い煙が勢い良く吹き出した。煙はとどまる所を知らず、周囲は瞬く間に黒く染まっていく。

「ほう……ここまで瘴気が溜まっておったか。ますます穂高を近づける訳にはいかんな」

 八百里は小さくほほえむと、ゆっくりと片手を天に向かって掲げる。その瞬間、八百里の足元が金色に輝き、大地より天に向かって光の柱が立ち上る。光は八百里を中心に広がっていき、周囲一体を巨大な光の柱が包み込む。

 周囲に広がっていた黒い煙は光に触れた瞬間霧散し、跡形もなく消え去った。八百里はゆっくりと手を下ろすと、空き地を眺めて小さく呟いた。

「ここにも瘴気か……。ただの杞憂で済めば良いのじゃがな……」


「なあ……息吹」

 穂高が商店街を歩きながら息吹に向かって語りかける。

「……どうしたのですか、ほだか?」

「最近……八百里ちょっと変じゃないか? 妙にそっけないというか、あっさりとしているというか……。いつもなら休日は俺にくっついていろいろ出かけてただろ?」

「そうですね……確かに最近は平日も野暮用と言って、ふらっとどこかに行ってしまいますね。まあ……やおりさまにはやおりさまの都合があるのでしょう」

「事情ねぇ……。そう考えると俺って実は八百里のこと全然知らねえな……」

 穂高が腕を組みながら呟くと、後ろから聞き慣れた声が響く。

「ふふっ……ならば知れば良かろう。このわしは常にお前と在るのじゃから」

「やおりさま! もうよろしいのですか?」

 二人が振り返るとそこには八百里がほほえんでおり、八百里は抱きつく息吹の頭を撫でながら小さく笑みをこぼす。

「うむ。それでは行くとするか」

 八百里はそう言うや穂高の横に立つ。八百里の小さな手が穂高の手をしっかりとつかみ、穂高は何も言わずにその手を握り返す。

「ふふっ……暖かいのう……」

「あー、ほだかだけずるいです! いぶきもやおりさまと手をつなぐのです!」

 息吹はそう言うと穂高の反対側にまわり、三人はそのまま成就院を目指す。


「ここもか……」

 穂高が紫陽花の前で膝をつく。数こそ多くないものの、数本の紫陽花の花茎が鋭利な物で切られており、その光景に息吹が思わず眉をひそめる。

「また同じ子供ですか……。一体何のために……えっ?」

 息吹が紫陽花に向かって振り返り、穂高も驚いた様子で紫陽花を眺めていた。

「驚いたな、お前たち……怒ってないのか? 切られたのに……どうして?」

 驚く穂高をよそに、息吹は紫陽花を見つめて微動だにしない。息吹はおもむろに八百里たちに向き直ると、真っ直ぐに二人の顔を見つめながら口を開く。

「……やおりさま、それにほだか。恐らく花を摘んだ子供はまた来ると思うのです。だからいぶきはしばらくここにいます」

「ふむ……どうやら紫陽花から聞いたようじゃな、息吹よ」

 八百里の言葉に息吹は小さく首を縦に振る。一方の穂高は驚いた様子で問いかける。

「ここにいるって言ったって……仮に犯人を見つけても、お前じゃ話しかけることも触れることも出来ないんだぞ? 俺がいなきゃ……」

 穂高の言葉に息吹が小さく首を横に振る。

「いぶきにも少し分かってきた気がするのです……。それに……その子供が来たら、せめて摘んだ花をどうするのかくらいは見届けたいのです。何度も花を摘むにはきっと何か理由があると思うのです。花が好きなだけなら、せめて切る位置を変えてもらうように頼みたいのです。もちろんそのためにはほだかに力を貸してもらわないといけないのですが……」

「俺は全然構わないぜ。そういうことなら息吹はここで見張って、犯人の子供が現れたらどこに行くのか見ててくれ。その時は俺も急いで駆けつけるから」

「了解なのです! 頼りにしているのです、ほだか!」

「ふむ……ならばわしも少し気になることがあるので、ちと外そうかの」

 八百里と息吹の言葉に穂高がうなずき、二人の姿が景色の中に溶けて行く。穂高の前には紫陽花の花が鮮やかに咲き乱れ、周囲は溢れるような命の気配で満たされる。穂高は切られた紫陽花を前に小さく呟いた。

「なぁ……お前たちは花を切られたのに、どうしてそんなに嬉しそうに咲くんだ?」



 その場に一人残った穂高は成就院を後にする。海と反対側に位置する紫陽花の咲き乱れる長い階段を下れば、そこは極楽寺の切り通しである。

「……まだやってんのか。こんな狭い道で長々と工事なんかされたら渋滞がやばいだろ」

 工事は未だに終わる気配を見せず、それが車の通行を著しく妨げていた。切り通しは車で溢れ、穂高は渋滞した車の間を縫うように進む。突然、穂高は何かに足を取られてつまずいた。

「あぶね……って、何だ……これ?」

 穂高が足元に視線をやれば、そこには鉛筆ほどの長さの黒い杭のような物が転がっていた。穂高は首を傾げながらそれを拾い上げると、まじまじと観察する。

「……杭? 線路の枕木を止める犬釘に似てるな。でも形がちょっと違う。なんだ、これ?」

 拾ったものを前に首を傾げていた穂高だったが、次の瞬間思わず顔をほころばせる。

「ひょっとして……ひょっとしてこれって和釘じゃね? 地面に埋まってたのが工事で掘り起こされたってことか? 地面に放置って……捨ててあるんだよな? そうだよな?」

 穂高は一人興奮を隠しきれない様子で周囲を見渡し、手にした杭のような物をそそくさと鞄に詰め込む。そんな穂高に唐突に後ろから声がかけられる。

「何してんの、穂高くん?」

「うおぉっ!!」

「きゃっ! いきなりどうしたの!?」

「……って、棗じゃんか。いきなり脅かすなよ」

「それはこっちの台詞なんだけどね?」

 いきなり声をかけられて穂高が飛び跳ねる勢いで振り返る。そこには布袋を持った棗の姿があった。穂高は棗を見るや、大きく安堵のため息をつく。

「はぁ……寿命が縮まったぜ……。んで、棗は今日もお使いか?」

「うん。今頼まれた物を届けたところ。そういう穂高くんはまた紫陽花を見に来たの?」

 棗はそう言うと成就院の方角に視線をやり、穂高はゆっくりと首を縦に振る。

「ああ、ちょっと気になってな。また切られてたんだ。段葛のツツジも。まったく犯人は何をしたいんだか。花が好きだとしても切る位置が悪すぎる。あれじゃ株が傷んじまう」

「突っ込む所がそこなのが穂高くんらしいわね……。じゃあもう一個質問。さっき何を拾ったの? 私が声をかけたらすごく驚いたでしょ? 何? エッチな本とか?」

 ニヤニヤと笑う棗を前に、穂高が慌てて首を横に振る。

「ちっ、ちげえよ! 小学生じゃあるまいし、今どきエロ本なんて拾うかよ!」

「ふーん? その割には驚いていたよね?」

 どうやら口で言っても棗を納得させるのは不可能と判断した穂高は、しぶしぶ鞄の中から先ほど拾った黒い杭の様な物を見せる。

「ほらよ……こいつだ」

「何これ? 黒い……釘? ちょっと違うわね。何かしら……」

 穂高から黒い杭のような物を受け取った棗は、ゆっくりと瞳を細め、食い入るように見つめ始める。棗は時折爪を立てて表面をなぞったり、重さを確かめるように持ち直したりしていたが、おもむろに穂高に向き直る。

「……なんとなく穂高くんがはぁはぁ言っている気持ちが分かったわ。これって和釘だよね? 私の知る和釘とはちょっと違うけど……」

「いろいろ突っ込みどころはあるが、やっぱりお前もそう思うか? さすが鍛冶屋の娘だな。犬釘かなと思ったんだけど表面が真っ黒だろ? 重さといい、形といい、俺が知ってる和釘ともちょっと違うんだよな……。まあ宗源さんなら何か知ってるだろ。今日は店にいるか?」

「お父さん? 今日は暇してるから穂高くんが来ると喜ぶわよ、きっと」

「そっか、ならお邪魔しようかな」

「ふふふっ、こうして穂高くんと一緒に私の家に行くのって久しぶりね。最近休日になると穂高くんいつも忙しそうにしてたから、ちょっと寂しかったんだよ?」

 棗はいたずらっぽくほほえみ、穂高の手を取って歩き出す。穂高も慣れているのか、はいはいと老人のような返事をしながら棗に引かれて行った。


「おおっ! 穂高じゃねえか! 今日はどうした?」

 穂高の姿を見るなり、宗源は嬉しそうに声をあげ、穂高も笑顔で挨拶をする。

「先週はどうもありがとうございました。あの砥石、とても良かったです。滑りがとても良いし、本当に俺なんかがもらっちゃって良かったんですか?」

「はははっ、そうかそうか! 良い石、か。道具は使ってなんぼ、使われてなんぼだからな。うちの蔵で埃を被っているよりかはお前に使われた方が石も幸せだろうよ」

「へぇ……そんなに言うなら、今度うちの包丁をお願いしてもいい?」

「おう! 任せとけ」

 満面の笑みでほほえむ穂高を前に、棗は嬉しそうに瞳を細める。

「んで、今日はどうしたんだ? 棗とデート、という訳でもなさそうだな」

 宗源の言葉に棗が宗源を睨み、一方の穂高は嬉しそうに鞄を漁り始める。

「これを見て欲しいんです」

「何だ……こりゃ……。ほう……」

 宗源は机の上に置かれた杭のような物を眺めて瞳を細めた。いつの間にか笑みが消え、その身に纏う気配が一変する。そんな宗源の様子に思わず穂高と棗が小さく息を呑む。

「……おもしれえ物を持ってんじゃねえか、穂高」

「分かるんですか!?」

 宗源の言葉に穂高が思わず身を乗り出す。その隣では表情には出さないが、棗も興味があるのか宗源の言葉を待っている。そんな二人を前に、宗源はゆっくりと口を開く。

「こいつは釘だな。それもとびっきり古い。見てみな、この黒い部分」

「お父さん……これって……ひょっとして」

 穂高は首をかしげるばかりであったが、棗が何かに気がついたのか宗源の顔を覗き込む。棗の視線を受けて宗源はゆっくりと首を縦に振る。

「ああ、こいつは黒錆くろさびだ」

「黒錆? 黒錆ってあの赤錆と黒錆の黒錆ですか?」

 穂高の言葉に宗源が小さくうなずく。

「ああ……。形から察するに古い和釘の一種だろうな。黒錆がついた古い鉄は今の鉄なんかよりもずっと質がいいんだ。今の鉄じゃこれほどのものは作れねえ」

「えっ? でも神社とかを改修する時に大工さんたちは和釘を使ってますよね? あれはどうしてるんですか?」

 宗源の言葉に穂高が驚いた様子で問いかけ、宗源は小さく首を横に振る。

「……本当の和釘はもう作れねえんだ。だから寺とか古い家を壊した時に出る和釘をもらって打ち直して使ってんだよ。お前んちだってそうだぜ」

「えっ? うちもですか?」

 驚く穂高をよそに、宗源は大きく笑う。

「当たり前よ。神社を直すのにそんじょそこらの釘なんて使えるかよ。あれは俺が打ち直した釘だ。と言っても、もううちには殆ど古い釘は残っちゃいねえがな」

「そんな貴重な物を……」

「へぇ……、じゃあこれって良い鉄なんだ?」

 宗源の言葉に棗がいたずらっぽく笑い、それを見た穂高が慌てて首を横に振る。

「駄目」

「ええっ? 私なんにも言ってないよ?」

「言わなくても分かるっつーの。これはやらないからな」

「はははっ、正直俺もその釘は欲しいが、そりゃ穂高のもんだ。なぁ、穂高?」

「宗源さん……そんなに釘を凝視しながら言われても説得力がないですよ!」

 宗源もその釘に惹かれるものがあったのか、釘を食い入るように見つめており、その隣では棗も同様に瞳を輝かせていた。そんな宗源と棗を前に言いようのない不安を感じた穂高は、慌てて釘を鞄にしまうと店を飛び出した。

「鍛冶屋の親子を侮ってたぜ……。しかし、やっぱりこいつは和釘だったとはね。道路工事さまさまだぜ。いつか打ち直してみたいなぁ……」


「ただいまー……って、さすがに八百里はまだ戻ってないか」

 穂高は釘を机の上に置くと、くるくると指で弄びながら呟いた。

「こいつはずっと昔に作られた釘だって宗源さんが言ってたな。ちょっと『視て』みるか」

 穂高はそう言うと、釘を握りしめてゆっくりと瞳を閉じる。

 その瞬間、世界が大きく揺れた。周囲の景色はたちまちにして消え去り、気がつけば穂高は緑豊かな草原に立っていた。

「ここは……」

 穂高が周囲を見渡すと、目の前で大勢の人が盃を片手に桜の下で酒宴を開いていた。人々の服装は現代のそれとは異なり、それが釘の見てきた記憶の欠片なのだと理解する。

 老若男女入り混じり皆楽しそうに酒を飲み、あるものは歌い、あるものは踊っていた。そして穂高の目の前には美しい女性がたたずんでいた。穂高はその女性に見覚えがあった。

「なるほど……あの桜のお花見って訳か。こうして見ると今も昔もあまり変わらないんだな……。でもあの女の人、この前石切り場で見た人だよな? ……どういうことだ?」

 穂高が小さく呟くと突然景色が変わる。視界に入るのは見知らぬ天井であり、先程の女性が泣きながら覗きこんでいた。

「これは……どういうことだ? あの人はなんで泣いてるんだ?」

 周囲には淡い光が漂い、光がゆっくりと穂高に向かって収束する。

 その瞬間眩い光と共に世界が大きく歪み、目の前には見慣れた天井が広がっていた。気がつけば穂高は畳の上に大の字になって寝ており、一瞬状況が理解できずにゆっくりと頭を振る。

「……何だったんだ、今のは? って、俺いつの間にか寝てたのか? あれは、夢……か?」

 穂高は朦朧とする意識の中でなんとか立ち上がると、机を見つめて思わず息を呑んだ。

「机に置いたはずの釘が無い! ばあちゃんがどっかに持って行ったのか?」

 穂高は慌てて家の中を見渡すが祖父母の姿はない。穂高は祖父母が諸用で家を空ける旨を告げていたことを思い出し、ますます混乱した様子で頭をかく。

「おいおい……まさか全部本当に夢なんてオチじゃねえだろうな? 和釘を拾って、棗に会って、宗源さんに話を聞いて……って、それだ!」

 穂高はそういうや、鞄を手にそのまま家を飛び出した。


「あれ? 穂高くんだ? ひどいよー、なにも逃げることないじゃない!」

 店の前に立っていた穂高に気がついたのか、店内から棗が手を振りながら近づいてくる。棗の言葉に穂高の中に渦巻いていた疑問が確信に変わる。

「……なぁ、棗。俺さっきまでここにいたよな? 釘を拾って、お前に見せたよな?」

「いきなりどうしたの? まさかその年でもうボケちゃったとか言わないでよね?」

「……茶化さないで答えてくれ、頼む」

 穂高は棗の肩をつかむと真っ直ぐにその瞳を見つめ、そんな穂高のただならぬ様子に棗は驚いた様子でゆっくりと首を縦に振る。

「うっ……うん。穂高くんが釘を拾って、お父さんにそれが何か聞きに来たよ。って……本当にどうしちゃったの?」

「そうか……それで十分だ。サンキューな、棗!」

「えっ? ……どういたしまして?」

 穂高はそう言うや、そのまま小走りに成就院へ向かう。

「家には誰もいなかった。そして釘は確かに拾った。でも気がついたら無くなっていた。それらが指し示すことは一つ……」

 穂高は成就院の階段を駆け上がり、紫陽花の横に座っている息吹を指差して叫んだ。

「犯人はお前だー!!」

「あれ? ほだか? どうしたのですか? まだ例の子供は来ていませんよ?」

「とぼけるな! お前、俺が寝てる間に釘を持って行っただろ?」

 穂高の言葉に息吹は困惑した表情で首をかしげる。

「ちょっ……ちょっと待つのです、ほだか。いぶきにはほだかが何を言っているのかさっぱり分からないのです。変なものでも食べたのですか?」

「俺にいたずらをするのはお前くらいだ。大人しく釘を出せ……さもなくば……」

「ひっ……こっ、怖いのです、ほだか」

 穂高の全身から闘気にも似た覇気がにじみ出て、穂高を中心に周囲の空気が大きく揺れる――ようなことはなく、穂高は突然後頭部に衝撃を感じてゆっくりと地面に倒れ伏す。

「やおりさま! 助かったのです! ほだかがなんか変なのです!」

「うむ……わしも見ておった。何やら尋常ではない様子じゃったのでとりあえず寝かせたが……さて、どうしてものか。釘がどうのと言っておったが、息吹は何か知っておるか?」

 倒れた穂高の後ろにはいつの間にか八百里が立っており、息吹は八百里を見るや一目散にその胸に飛び込んだ。八百里の言葉に息吹は困惑した様子で首を横に振り、一方の八百里は息吹の頭を撫でながら倒れた穂高を一瞥して小さくため息をついた。

「まぁ、悪い夢でも見たのじゃろう……。今は寝かせておくか……」

 周囲の観光客には、穂高が急に叫びだして倒れたようにしか見えない。

「ママー? あのお兄さんいきなり叫びだしたら倒れちゃったよ?」

「きっと邪な事を考えていたから天罰が当たったのよ。あまり見ちゃ駄目よ? 行きましょ」

 その後、穂高が目を覚ますと取り囲んでいた野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように離れていき、穂高はその場を逃げるように駆け出した。穂高の瞳の端には光るものがあったという。


「……それで息吹を疑ったと? まったくお主は……」

「いぶきを疑うなんて、ほだかはとんでもない奴なのです!」

「……面目ない」

 家に戻ってきた穂高は八百里と息吹の前で正座をさせられていた。八百里は半ば呆れたような表情を浮かべながら、そして息吹はため息をつきながら穂高を見つめている。二人の無言の圧力に穂高はますます縮こまり、そんな穂高を見て思わず八百里が笑い出した。

「……穂高は昔から好きな物のこととなると周りが見えなくなるが、たかが釘の一つでこうも取り乱すとはさすがのわしも思わなんだ。釘じゃぞ、釘。これが笑わずにいられようか」

「いられようか、なのです!」

 耐え切れず腹を抱える八百里の横で、なぜか息吹がしたり顔で穂高を見下ろしている。一方の穂高は何も言い返せずに、ひたすらに縮こまるばかりであった。

「はぁ……笑わせてもろうたわ。して……その釘はどうしたのじゃ?」

 八百里は穂高の背中にくっつくと、その耳元で小さくささやいた。

「……消えちまった」

「ほう……それは面妖な。釘がのう……」

 八百里の言葉に穂高が思わず振り向き、驚いた様子で八百里の顔を見つめる。

「信じるのか? こんな突拍子もない話を?」

 驚く穂高を前に、八百里はほほえみながらゆっくりと穂高の頬を両手で挟む。二人の顔と顔が近づき、八百里は穂高に額をつけるとゆっくりと瞳を閉じる。

「ふふっ……他でもない穂高の言葉を信じぬわけがなかろう……」

「そっ……そう真っ直ぐに言われるとさすがに照れるな……」

 穂高はゆっくりと八百里の体を抱きしめ、八百里もその小さい手を穂高の背中に回す。優しい時間が二人を包み、傾いた太陽が空を茜色に染める。周囲に息吹の声が響いた。

「あれー? いぶきは空気ですかー?」


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