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となりの花鳥風月  作者: Fennel
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二章:息吹

二章:息吹


「まずは塩抜きをしなきゃな」

「つまり砂を洗うと? これを全部か?」

「ああ。鉄に塩は厳禁だから、本当は砂浜の砂鉄なんか使うのは良くないんだけどな。まさかここの地面を掘って鉄がわんさかという訳にはいかないだろ? 背に腹は変えられぬってね」

「なるほどのう……。楽をした分、後が大変という訳じゃな」

「そうなんだよ。でも四の五言っても仕方ないからやるだけだ」

「ふふ……大切な物が簡単に出来てしまっては味気あるまい? せいぜい楽しむことじゃ」

 八百里の言葉に穂高は小さくうなずくと、用意した大きなバケツに水を張り、そこに運んできた砂を流し込む。バケツの中で砂を十分攪拌して、水を捨てる。その作業を数回繰り返した後、再び水を張ってしばらく放置する。単純な作業だが、根気と力のいる作業である。

 次第に穂高の額に汗がにじむ。そんな穂高を八百里は縁側に腰をかけたまま眺めていた。

「よし……ひとまず休憩にするか」

 砂を洗い始めてからしばらく経った頃、穂高が額の汗をタオルで拭いながら立ち上がる。その瞬間、八百里が勢い良く立ち上がり、穂高を見上げて瞳を輝かせながら語りだす。

「休憩するには茶が必要じゃろう? ならば当然、茶請けも必要じゃな。そうであろう?」

「おっ……おう。茶は飲むけどさ、いきなりどうした……って、そういうことか」

 穂高は幼子の様に瞳を輝かせる八百里を見て、得心がいったように小さくほほえむと、八百里に向かって問いかける。

「羊屋の羊羹と豊島屋の雲雀落雁、どっちがいいんだ?」

「おおっ! さすが穂高じゃな。分かっておるのう……」

 穂高の言葉に八百里が嬉しそうに顔をほころばせ、そんな八百里を見て穂高も小さく笑う。

「で、どっちがいいんだ?」

「そっ、その……羊羹も捨てがたいが落雁もなかなか……。難しいのじゃ……」

 八百里はどうやら本気で悩んでいる様子で、もじもじと体をくねらせている。一方の穂高は小さくため息をつくと、おもむろに八百里の頭に手を乗せた。

「じゃあ両方食うか。ちょっとずつだけど、それでいいか?」

「ほっ……穂高……」

 八百里は穂高の言葉に感動したのか、その瞳は潤んでおり、穂高はそんな八百里の様子に瞳を細めてほほえむばかりであった。

「ほらよ、今日は塩羊羹と小倉羊羹だ。ついでに練り切りもあったから持ってきたぞ」

 盆を手に穂高が八百里の隣に腰を降ろす。盆の上には品の良い皿が置かれ、その上には花をあしらった練り切りと羊羹、そして雲雀の姿をした落雁が乗っていた。

「おお……! 練り切りも付くとは、まこと幸せじゃのう……」

「ははっ、喜んでもらえて何よりだ。じゃあ茶でも飲むか。今日は掛川茶だ」

「穂高はいつもそれじゃな。茶など他にもいろいろあろうに。まあ旨いのは否定せんが」

「煎茶はこれが一番だ! 誰が何と言おうがな」

 穂高はこだわりがあるのか強い口調でそう言い切ると、用意した茶を湯のみに注ぎ始める。一つは淡い桜色、もう一つは緑色の湯のみで、底にはそれぞれ穂高の名前が刻まれていた。

「ふふ……」

 八百里が嬉しそうに湯のみを受け取ると、小さくほほ笑んだ。

「どうした? なんか面白かったか?」

「いや、わしのために穂高が作った湯のみを持ち、こうして穂高と共に風を感じておる。これ以上の幸せはあるまいよ……」

 その言葉に穂高の動きが一瞬止まり、照れくさそうに頭をかきながら呟いた。

「その……いつもそう言ってくれるのは嬉しいんだけどな、あんまりさらっと言われると俺としても何と言っていいのか困ると言うか……。いや、めっちゃ嬉しいんだけどな」

「ふふ……何をいまさら照れることがあろうか。あれほどわしを抱きしめておるくせに」

「いっ、いや……。あれはその……雰囲気というか。こう改まって言われると恥ずかしいんだよ……。嬉しいけどさ……」

「くくっ……この八百里の寵愛を受ける人間が何を照れることがある。胸を張るが良い」

 八百里はいたずらっぽく笑うと、盆に乗った落雁に手を伸ばす。

「――ま!」

「ん? 八百里何か言ったか?」

 穂高が八百里に問いかけるが、八百里は口に落雁を加えたまま小さく首を横に振る。

「空耳か……? でも……」

「――さまぁ!」

「八百里、やっぱり何か……」

 穂高が八百里に向かって口を開いたその瞬間、穂高の目の前を青い物体が凄まじい勢いで通り過ぎ、そのまま真っ直ぐに八百里にぶつかった。

「きゃん!」

 凄まじい衝撃が縁側を揺らし、八百里は短い悲鳴とともに縁側から吹き飛ばされ、地面をごろごろと転がっていく。

「八百里ぃぃー!!!」

 穂高が咄嗟に八百里に向かって叫ぶが、吹き飛ばされた八百里の勢いは止まらない。律儀にもその手に持った食べかけの落雁はそのままに、八百里は地面を数回転がりようやく止まる。

「だっ、大丈夫か! 八百里!」

 穂高が血相を変えて八百里に駆け寄ると、八百里の上に覆いかぶさるように藤色の着物に身を包んだ少女が倒れていた。

「やおりさまー! こんなところに居たのですね! 探しましたー」

 少女は八百里に覆いかぶさりながらほがらかに笑い、おもむろに八百里を抱き起こす。背の丈は穂高よりも低いが、八百里よりかは高い。美しい黒髪を風になびかせる少女は一見すると高校生にも見えるが、その笑顔は幼い子供にも見える。

「う……む、はて、わしは一体……」

 少女の腕の中で目を回していた八百里が我に返り、ゆっくりと瞳を開く。そんな八百里の様子に少女が驚いた様子で叫ぶ。

「やおりさま! 大丈夫ですか!? いきなり転がるから驚いたのです!」

「うん? 息吹いぶき……か? どうしてわしはお主に抱きかかえられておるのじゃ?」

「……いや、待てよ。その言い方はおかしいぞ、息吹」

 穂高が思わず突っ込むが、息吹と呼ばれた少女の耳には届かない。

「やおりさま、やおりさま。いぶきはやおりさまに会えない日々がとても辛かったのです!」

 息吹の言葉に八百里が小さくほほえみながら語りかける。

「ふふっ、息吹よ。なかなかかわいいことを言うものよ。よしよし、近う寄れ」

「はいなのです! やおりさま大好きなのです!」

「いや……近う寄れって、もう抱きつかれてるじゃん、お前……」

 穂高が再び突っ込むが、二人には届かない。穂高はその光景をまるで親子の様だと、否、飼い主とそれに懐く犬の様だと思いつつ小さくため息をついた。

「それで、息吹よ。いきなりどうしたのじゃ? 何か火急の用でもあったか?」

 息吹に後ろから抱きかかえられながら八百里が問いかけると、息吹が笑顔で答える。

「やおりさまに二日間も会っていません! 寂しかったので来てしまいました!」

「……それなら仕方ないのう。息吹はいつまで経っても甘えん坊じゃな」

「はい! いぶきはいつまで経っても甘えん坊なのです!」

「ふふっ……うい奴よのう……」

「もう突っ込まねえぞ……俺は……」

 まんざらでもない様子の八百里を前に穂高は茶をすするばかりであった。



「なぁ、息吹? なんでお前、当然のごとく俺の落雁食ってんの?」

「細かいことはいいのですよ、ほだか。私はやおりさまと違って現世の物に触れられないので、穂高の触れた物しか食べられないのを忘れたのですか?」

「だから何でそこで八百里じゃなくて俺なんだよ? 八百里だって『門』とやらの力を持ってるんだろ? 八百里が触れたものならお前だって食えるだろうが」

 穂高の言葉に息吹は一瞬八百里を見つめると、両手を頬にあてて呟いた。

「やおりさまの食べ物に手を付けるなんて、いぶきにはそんな畏れ多いことはできないのです!」

「……飯は駄目でも吹き飛ばすのは良いのかよ」

 その言葉に気を良くしたのか、八百里は息吹の頭を撫でながら嬉しそうに笑う。

「ふふっ、息吹は可愛いのう……」

「はい! いぶきは可愛い子なのです!」

「犬だ……。こいつ絶対犬だ……」

「そう言ってくれるな。狭間の住人である守護は本来現世の物に触れることはまかりならん。境界を超える力を持つわしか、穂高の力無くしては、息吹はいいに辿り着けんのじゃ」

「そうですよ、穂高。私がひもじい思いをしているのだから、少しは協力して欲しいのです」

「待てよ……そもそもお前ら飯を食う必要なんてねえだろうが」

 穂高が呆れた様子で呟くと、八百里と息吹は顔を見合わせて不思議そうに首を傾げる。

「のう、息吹よ。わしは穂高が何を言っているのか分からんが、息吹には分かるか?」

「息吹も分からないのです。私達がご飯を食べなくていいなんて、鬼畜な言葉が聞こえてきたけど、きっと気のせいなのです」

「うむ、わしも疲れておるのやもしれん。あの穂高が……あの優しい穂高が斯様な鬼畜じみた事を言う訳がないしの」

 まるで芝居のようなやりとりが穂高の前で繰り広げられ、その様子に穂高は観念したのか大きくため息をつくと、息吹に自分の茶と皿を差し出した。

「ほらよ……つまんねえ芝居してねえで、欲しいなら欲しいと素直に言えよ……まったく」

 穂高の言葉に八百里がほほえみ、息吹は感動したのか瞳を潤ませて穂高に抱きついた。

「さすがほだか! 大好きなのです!」

「こら、息吹。穂高はわしのものじゃ。息吹とて譲るつもりはないぞ?」

「はいです、やおりさま! いぶきはほだかを好きだけど、やおりさまの言う愛とかそういう気持ちは良く分からないから大丈夫なのです!」

「人をモノ扱いはやめてくれ……」

 穂高が思わず突っ込むが、八百里は満足そうに茶をすするばかりであった。


「じゃあ俺は学校に行くが、二人は……って、息吹の奴、どこに消えたんだ?」

 翌朝、穂高が慌ただしく制服に着替えながら部屋を見渡すと、八百里が首を横に振る。

「息吹は朝から姿が見えん。大方街にでも出ておるのじゃろう。好奇心旺盛な子じゃからな」

「ははっ、まるで子供だな。俺よりも遥かに年上とは到底思えねえぜ……って、やべえ! もうこんな時間か。どうする? たまには八百里も学校に来るか?」

 穂高の言葉に八百里は瞳を伏せると静かに首を横に振る。

「いや、せっかくの誘いではあるがやめておこう」

「気にすんな。人ばかりいるところにいても面白く無いもんな。じゃあちょっと行ってくるぜ。今日は早めに帰るから、迎えはいつもの所でいいか?」

「うむ。なに、時間などわしにはあって無いようなものじゃ。気にせず今を楽しむがよい」

 八百里はそう言うと小さく笑い、その姿がゆっくりと景色に溶けて消えていく。その光景を見届けた穂高は慌てて準備を終えると、食卓に置いてあったパンを片手に家を飛び出した。

「やっべー、間に合うかぁ?」

 穂高は家を出るや、そのまま家の目の前の坂を駆け下りていく。穂高の通う高校は穂高の家からそう遠くない。通学時間で言えば、穂高は学生の中では近い方から五本の指に入る。故に慢心からか、常に遅刻ぎりぎりの登校が日課となっていた。

「よ……し。ぎりぎり……間に合ったぜ……」

「あっ、穂高君だー。今日も相変わらずギリギリね。クラスで一番家が近いくせに」

 息を切らしながら教室に入った穂高に向かって声がかけられる。穂高は乱れた息を整えながら顔をあげると、一人の少女が穂高に向かって手を振っていた。

なつめか……。いいんだよ、ギリギリだろうが余裕があろうが、間に合えば一緒だろ。ならギリギリの方が時間を有効に使ってるってことだろ?」

「ふふっ、そんな表情で得意気に語られても説得力無いよ?」

 棗と呼ばれた少女はほがらかに笑い、穂高は棗の前の席に腰を下ろす。朝のホームルームが始まると、棗が後ろから小声で穂高に呟いた。

「ところで穂高くん、昨日道端でエアーハグしてたよね? 何あれ、今流行ってるの?」

「ぶっ!!」

 棗の言葉に穂高が盛大に吹き出し、教室中の視線が穂高に集中する。すると担任が出席簿を眺めながら穂高を一瞥すると小さく呟いた。

「五條……穂高、出席……と」

 穂高は慌てて後ろの席に座る棗に向かって振り返る。

「棗……お前まさか見てたの……か?」

 穂高の言葉に棗はいたずらっぽく瞳を細めると、小さく笑いながら指を唇に当てる。

「んー何のことかなぁ。私としては、ついに穂高くんの空気嫁が実体化しちゃって、穂高くんが耐え切れずに抱きついちゃったんじゃないかなぁと思ってるんだけどね」

 その瞬間、穂高の隣に座る男子生徒――ひしはじめが身を乗り出してくる。

「なになに? 穂高の二次元嫁がどうしたって? ついに次元を超えたのか?」

「ちょっと待て、菱。何でいつの間にか俺がそんな痛い奴設定なんだよ。それに俺はアニメなんて興味ねーよ」

「とか言って、お前本当はロリコンだってバレてるんだよ。いい加減認めろって」

「ええっ? 穂高くんってロリコンだったの? 付き合い長いけどそれは知らなかったなぁ。道理で私には何も反応しない訳だ。あーあ、二次元に負けちゃったかぁ……」

「まてまてまて! 俺が何でロリコンになってるんだよ?」

「何でって、お前、前にノートの切れ端に着物姿の幼女の絵を書いてたじゃねえか? 穂高って結構絵うまいのな、驚いたぜ。幼女だけど」

「ええー? 私それ初耳ー。見せて見せてー」

 身を乗り出す棗を押しのけながら穂高が何かに気がついたように教壇を指さす。

「ほら、お前呼ばれてんぞ!」

布留川ふるかわ~、布留川棗はいたら返事しろ~?」

「やばっ、私だ。はいはいー」

 棗が元気よく手を上げて返事をし、穂高は小さくため息をつく。

「妄想の二次元嫁……か。二次元どころが異世界の住人だぜ……」

 忙しない穂高の午前中は過ぎていく。


**


「ふう……昼飯前の体育はキツイな……。腹が減ってもう動けねえ……」

「おう、穂高。今日は天気が良いから昼飯は外で食うか?」

「おっ? いいねぇ。グラウンドの裏にハンモックを吊ってあるから、あそこにするか」

「あっ、みんな外にご飯食べに行くの? 私も行くー」

 穂高が菱と話をしていると、棗が笑顔で片手を大きくあげる。

「棗さぁ、お前いつも俺らと一緒にいるじゃん? 女子に混じらなくていいのかよ?」

「細かいこと言うなよ。俺は布留川さんがいるなら大歓迎だぜ?」

「そうだよー、穂高くんは細かいこと気にしちゃ駄目だよ」

 棗はそう言うと、勢い良く穂高の背中を叩く。背中を押された穂高はよろめきながら窓に向かって倒れこみ、慌てて窓枠に手をついて事なきを得る。安堵のため息もほどほどに、穂高が棗に抗議の声を上げるべく振り返えろうとしたその瞬間、視界の端に何か動くものを捉えた。

「息吹? ……何やってんの? こんな所で?」

 穂高が窓から身を乗り出して見たものは、ベランダの隅に隠れるようにしゃがんでいる息吹の姿であった。息吹は穂高を見つめると、慌てた様子で後ずさり、勢い良く首を左右に振る。

「ほほほっ、穂高じゃないですか。こんなところでどうしたのですか? 授業じゃなかったのですか?」

「ん? 授業って……体育の授業がちょっと早めに終わったんだよ。……というか、朝から姿が見えないと思ったら、どうしてこんな所にいるんだよ? 言えば学校くらい連れて行ってやるっていつも言ってるだろ?」

「いいっ、いいのです! 息吹は偶然ここを通りかかって、ベランダで休憩していただけで、そこにたまたま穂高が来ただけなのです。ではさらばなのです!」

「おっ、おい! 息吹!」

 穂高が思わず手を伸ばすが、息吹の姿は景色に溶けて消えていく。一方の穂高はまるで理解ができないといった様子で茫然と立ち尽くしていたが、背中に視線を感じて慌てて振り返る。

 そこには怪訝な表情で穂高を見つめながら話し合う二人のクラスメートの姿があった。

「聞きましたか、布留川さん? 『息吹』ちゃんですって」

「ええ、聞きましたわ、菱さん。『学校くらいいつでも連れて行ってやる!』ですって。まるでお父さんですわね」

「あの歳でお父さん気取り。しかもエアー親子、エアーお父さん。穂高さんはもう駄目かもわかりませんね」

「ええ……本当に。惜しい人を無くしましたわ……」

 よよよと崩れ落ちる二人を前に、穂高が慌てて取りつくろう。

「ちっ、違うんだよ。今のは……ほら、お芝居の練習? みたいな?」

「演劇部でもない穂高さんがお芝居ですって、布留川さん……」

「私もうこれ以上は痛々しくて見ていられませんわ……」

「だっ、だから……。あの……しょっ、小説。そう、俺今小説書いてんだよ! その設定を考えてたの! 美人ヒロインの息吹さん!」

 その言葉に嘘泣きをしていた菱が急に立ち上がり、穂高の前に無言で歩み寄る。その体からは有無を言わさぬ威圧感が漂っており、思わず穂高が後ずさる。

「なっ……なんだよ?」

 菱はおもむろに穂高の肩に手を置き、射抜くかのような視線で穂高を見つめると、はっきりとした口調で告げる。

「その息吹ちゃんの絵を書いて、俺にくれ! もちろんお前の事だ。着物の和装美人なんだよな? 俺は信じてたぜ、お前がロリコンじゃないって! ついにお前もお姉さん系の色気を理解したんだな。俺は嬉しいぜ! 俺の教育のたまものだな!」

「おっ……おう?」

「へぇ……私はその『教育』の内容が気になるわね。ねぇ、穂高くん。それはDVD教材かしら? それとも写真集? それとも漫画?」

 棗が笑顔で穂高に歩み寄り、その身からにじみ出る有無を言わさぬ圧力に気圧された穂高が勢い良く首を横に振る。

「ちっ……ちげえよ! 俺の部屋にTVは無いし、そもそもそんなものに興味はねえ!」

「おいおい……俺の珠玉のコレクションを借りといてそれはないだろ?」

「ばっ……馬鹿野郎! 菱! お前それを今ここで言うか? 空気を読めよ!」

 慌てる穂高を横目に、棗は小さく瞳を細めた。

「……息吹ちゃん、ね」


 三人は校舎の脇にある小さな階段で昼食を広げていた。各々が弁当箱を取り出すと、棗と菱の視線が穂高の弁当に集中する。

「相変わらず穂高の弁当ってすごいよな。手が込んでるっていうか……」

「ほんとだよね。穂高くんのおばあさまって料理が上手だし、品が良いし、さすが神社の人って感じだよねー」

「まあな。ばあちゃんの飯はうまいぜ。それ今日は俺の好きな筑前煮ときたもんだ。さすがばあちゃん分かってるぜ!」

 その言葉に棗が一瞬瞳を細め、遠慮がちに穂高に問いかける。

「そういえば穂高くんのご両親と妹さんっていつこっちに戻ってくるの? まだヨーロッパなんでしょ?」

「さあな。戻る気があるのかすらわかんねーよ」

「そっか、お前って神社の跡を継ぐために戻ってきたんだっけか。それで苗字も変わるってのも不思議なもんだな」

「ああ、それについてはもう慣れたよ。家族の中で俺だけ爺ちゃんの苗字だしな。まぁ、昔の珍妙な苗字よりかは今の爺ちゃんの苗字の方が気に入ってるけどさ」

 穂高はそう言うと空を見上げて笑みをこぼし、棗たちも小さくほほえんだ。

「そろそろ前置きは終わりにして、飯を食おうぜ!」

「賛成ー!」

 三人はそのまま和気藹々と弁当を食べ始める。その光景はどこにでもある高校生の日常そのものであった。そこに内在する一部の非日常を除いて、ではあるが。

「ぐ……」

 弁当を口に入れた瞬間、穂高の箸の動きが止まる。それに気がついたのか棗たちが不思議そうに首をかしげる。

「どうしたの穂高くん?」

「おいおい。いくら大好物だからって焦って食い過ぎだろ? 喉につっかえたか?」

「いや……なんでもない」

 穂高の答えに二人は顔を見合わせて不思議そうに首をかしげ、一方の穂高は弁当を前に小さく震えていた。声にこそ出さないが、息吹が何故あそこに居たのか、そして何故自分を見て焦ったのか、全ての疑問が今この瞬間、穂高の中で一本の線となって繋がった。

「でさ……布留川さん的にはどう思うよ?」

「ええ……私は……」

 二人の会話はもはや穂高には届かない。穂高は――怒りに震えていた。

 穂高は神社の跡取りということとは関係無しに和食を好む。それは魚であり、煮物である。特に祖母が作る筑前煮は幼少の頃より大好物であり、穂高はそんな祖母の筑前煮を何よりも楽しみにしていた。

 そんな愛すべき筑前煮が息吹の手によって消えてしまったのだ。否、筑前煮は弁当箱の中に鎮座している。では何が問題なのか。

 守護とは重なりあう三つの世界の一つ、境界の世界である狭間の住人である。狭間とは概念の世界であり、そこに物質は存在せず、その全ては魂や想いによって構成されている。

 狭間の住人は実体を持たない。すなわち現世の食べ物を食べたとしても実際にそれが彼らの胃の中に消えるわけではない。彼らは食べ物の『概念』を食べるのである。

 『甘い』砂糖ならその『甘い』という概念を。そして概念を失った食べ物は、たちまちにして無味乾燥な味のない食感だけの物体に成り下がる。そして穂高の食べた筑前煮は『全く味がしなかった』。それが示すことは一つ。

「あいつ……俺の弁当を勝手に食いやがったな。許せねぇ……、筑前煮だけは許せねぇ。許せねえよ、息吹ちゃんよぉ……」

「ひっ!」

 弁当箱を強く握りしめ、鬼のような表情でたたずむ穂高を前に、棗たちは小さな悲鳴をあげる。穂高の瞳の端に小さく光るものがあったことに二人は気が付かない。


「息吹ぃ! お前、俺の昼飯食っただろう! 出てこい!」

 学校から帰宅するや、穂高は鬼のような形相で庭に植わっている藤の木に向かって叫ぶ。しかし返事は一向に無く、周囲に穂高の声が木霊するばかりであった。

「聞こえてるのは分かってんだ。このまま出てこないなら八百里に相談するしかねえなぁ。八百里は怒るかなぁ……怒るだろうなぁ……。怖いよなぁ……」

 穂高がわざとらしく、まるで小学生のような文言を呟くと、一瞬周囲に強い風が吹き、息吹がゆっくりと穂高の前に現れる。

「あわわわ。いっ、いきなり何の用ですか、ほだか。私はやおりさまに怒られるようなことなんて何もしていないのです」

「こっちを見て話せ、ばかやろう」

 息吹は動揺を隠せない様子で、穂高と目を合わせようとしない。言葉よりもその息吹の態度が穂高の言葉を肯定していることに他ならないのだが、息吹はそれに気が付かない。涙目になる息吹を前に、穂高が深いため息をつく。

「……あのなぁ、息吹。そんなに飯が欲しけりゃくれてやる。だけどな、人に黙って勝手に食うってのは頂けねえな。ばあちゃんだって俺のためにと思って飯を作ってくれてんだ。お前が勝手に食っちまったらばあちゃんの想いはどうなる? 飯を楽しみにしていた俺の気持ちはどうなると思う?」

「うう……そんな事考えたことが無かったのです。でも確かにほだかの言うように、いぶきは良くないことをしてしまったかもなのです……」

 穂高の言葉を理解したのか、息吹は申し訳なさそうにうつむいている。そんな息吹の様子に毒気を抜かれたのか、穂高は息吹の頭を乱暴に撫でる。

「分かったらもう黙って俺の飯を食うなよ? 特に筑前煮はな。食いたかったらちゃんと俺に言うこと。それが守れるならちゃんと飯は分けてやる」

「もう……怒ってないのですか、ほだか?」

 息吹がおそるおそる顔をあげると、穂高は満面の笑みで首を横に振る。

「いや、今も怒り心頭で、これから息吹ちゃんをどうお仕置きするか考えてるところだぜ?」

「こ……怖いのです! ごめんなさいなのです。もう勝手にご飯は食べないので許して欲しいのです!」

 子犬のように怯える息吹を前に穂高は大きくため息をつき、再び息吹の頭を乱暴に撫でる。

「……ちゃんと反省したか? もうするんじゃねえぞ? じゃあ、この話はこれでお終いだ」

「……もう怒らないですか?」

「ああ、男に二言はねえ。その代わり息吹もちゃんと反省しろよ?」

「ホントですか? ほだかは優しいのです! いぶきは嬉しいのです!」

 穂高の言葉に息吹が嬉しそうに顔を上げ、瞳を輝かせて穂高に勢い良く抱きついた。その様はまるで主人に懐く犬であり、穂高は思わず後ずさる。

「おっ……おう」

「ほだかは相変わらず優しいのです。いぶきはこの喜びをやおりさまに伝えてくるのです!」

 息吹はほがらかに笑うと、そのまま風と共に景色に溶けて消えていった。その場に残された穂高が茫然と立ち尽くし、小さく呟いた。

「大型犬かよ……」

 穂高が頭をかきながら家に戻ろうとした瞬間、後ろから声がかけられる。

「息吹は無邪気じゃからのう。邪気が無い故に咎を知らず。穂高にはいつも迷惑をかけるな」

「……八百里か。いつから見てたんだ? というか、見ていたのなら八百里からも一言頼むよ。あいつは八百里の言葉ならなんでも聞くだろ?」

 穂高の言葉に八百里は楽しそうに首を横に振る。

「息吹は……我らが人と袂を分かって以来、決して交わることのなかった狭間と現世の境界に立つまさに奇跡そのものじゃ。天衣無縫の理を縛ることなどわしにはできぬ」

「奇跡の子……ねえ。息吹って守護たちがこの地から消えた後に生まれたんだっけ? そういえば守護って何から生まれるんだ?」

 穂高が八百里と共に廊下を歩きながら問いかける。その手にはいつの間にか湯のみが二つ握られていた。

「人が神を求めたように、この大地の意思が求め、我らが――わしらが生まれた。息吹が生まれたということは、この大地が息吹を求めたことに他ならぬ」

「この大地があいつを求めた、か……。でもあいつの力って……」

 穂高が自室の扉を足で開くと、座布団の上に腰を掛け、湯のみを八百里に手渡す。

「……そういうことじゃ。大地が死につつある。故に息吹が生まれた、否、息吹の力が求められた。本来持ち得ぬその力と共にな」

「それは……ちょっと悲しい話だな。でもそれって俺らのせい、なんだよな?」

 八百里は湯のみを傾けながら小さく首を横に振る。

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。なぜなら人もまた大地の子だからじゃ。人の意思は大地の意思。人が大地を滅ぼすというのであれば、大地はそれを受け入れるじゃろうて」

「そんなことねえよ。人はそこまで愚かじゃない。俺は……俺はそう信じてる……」

 真っ直ぐに八百里を見つめて語る穂高を前に、八百里は小さくほほえみ、おもむろに穂高の膝の上に移動する。

「そうじゃな……他でもない穂高がそう言ってくれる。ただそれだけでわしは満たされた心持ちになれるのじゃ。穂高はかつて失われたわしらの絆。分かれた二つの世界の架け橋。お主の力はそういうものじゃ。ゆめゆめ忘れてくれるなよ」

「架け橋か……悪くない響きだな。俺と八百里で一つの橋ってな」

 穂高が八百里をゆっくりと抱きしめ、八百里はその小さい手を穂高の腕にそえる。二人はゆっくりと瞳を閉じ、時折窓から吹き込む風が二人の火照った頬を優しく撫でる。夕暮れ時の傾いた日差しが二人を照らし、茜色の空が一日の終りを告げる。

 優しい時間が二人を包み、穂高が八百里に向かって口を開こうとしたその瞬間、窓の外から青い物体が凄まじい勢いで部屋に飛び込み、穂高の膝の上で幸せそうに瞳を閉じている八百里に直撃した。

「きゃんっ!」

 八百里は短い悲鳴と共に大きく吹き飛ばされ、そのまま部屋の外に転がり出る。しかしその勢いはまだ止まらない。小さな八百里の体はまるで毬のようにころころと廊下を転がり、そのまま階段の下へと落ちていった。その光景に穂高が慌てて叫ぶ。

「八百里ぃぃぃ!!!」

 慌てて穂高が追うと、階段の下で大の字になって寝転んでいる八百里の姿と、その上に覆いかぶさるようにしがみついている息吹の姿があった。

「息吹っ、お前何度も言ってるが……」

「やおりさま! 今日はほだかのお弁当を食べたのです! とても美味しかったのです!」

 穂高が抗議の声をあげるが息吹には届かない。息吹は八百里を押し倒したままの姿勢で、嬉しそうに八百里に抱きついており、一方の八百里はそんな息吹を見て優しくほほえんだ。

「ほう? それは良かったのう。穂高の祖母君の料理はうまかろう?」

「はい! とても美味しかったのです! 勝手に食べてほだかに怒られてしまったけど、ちゃんと言えば食べていいと言ってくれたのです! ほだかは優しくて大好きなのです!」

「ふふっ……そうかそうか」

 八百里は寝転んだまま息吹の髪を撫で、息吹は嬉しそうに目を細めていた。

「……ところで、やおりさまはどうしてこんな所で寝ているのですか? 寝るならほだかの膝の上の方が気持ちいいのです」

「おい、待て。その質問はおかしい。お前が突っ込んで八百里を……」

「そうじゃな……今度からそうするとしよう。息吹は賢い子じゃ」

「えへへ……いぶきは賢い子なのです!」

 八百里はほほえみながら息吹の頭を撫で、その光景に穂高は小さくため息をついた。


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