一章:玉鋼
一章:玉鋼
とある休日の朝、山中を一人の少年と一人の少女が歩いている。
「よう! 今年も綺麗に咲いてるな。来年も頼むぜ!」
五條穂高は道端に咲いているスミレを前に立ち止まり、嬉しそうに笑顔で語りかける。その言葉にどこかスミレが笑ったように風に揺れる。
「ふふっ、わざわざ花に話しかけるような酔狂な人間はお前くらいだぞ、穂高よ」
穂高の隣を歩く着物姿の小さな少女――八百里が穂高の手を繋ぎながら朗らかに笑う。そんな八百里の様子に穂高はおもむろに立ち止まると、八百里の顔を真っ直ぐに見つめる。突然の穂高の行動に、八百里が何事かと慌てたように問いかける。
「なっ、なんじゃ。藪から棒にじろじろ見おって。わっ、わしの顔に何か付いているのか?」
八百里が不安そうに穂高を見上げると、穂高は満面の笑みで八百里の髪を撫でる。
「ぶっ、無礼者! いつもいつも気安くわしの頭を撫でおって!」
「ははっ、わりいわりい。八百里を見てると妹が小学生の頃を思い出してさ」
「きっ、貴様。このわしを小学生と抜かすか!」
八百里は頬を赤く染めて声を荒げるが、穂高は無言でその頭を撫で続ける。始めは抗議の声をあげていた八百里もいつしか落ち着き、終いにはうつむきながら穂高の服の裾をつかんで動かなくなる。そんな八百里を見て、穂高が心配そうに覗きこんだ。
「八百里? どうした? どこか痛いのか?」
穂高が八百里を見つめると、八百里はうつむきながら小さく呟いた。
「……ない」
「んっ? どうした?」
「こうして穂高に頭を撫でられるのは存外悪く無い、と言ったのじゃ。……気が変わった。わしが許す。存分に撫でるが良い」
八百里はそう言うや、背伸びをして頭を穂高に押し付ける。穂高は一瞬驚いた表情を見せ、次の瞬間勢い良く八百里の体を抱きしめた。
「ああもうっ! 八百里は可愛いなぁ!」
「なっ……何をする? 穂高……?」
八百里は困惑した様子で必死に穂高を引き剥がそうとするが、その小さな体では穂高を押しのけることはかなわない。程なくして八百里は観念したのかうつむきながら呟いた。
「ほっ……穂高よ。お主がわしの魅力に目が眩むのは分かるが……その、あまりにも素直すぎるというか……。お主はもう少し恥じらいを……」
たどたどしく語る八百里を前に、我に返ったのか穂高が慌てて八百里から離れ、バツが悪そうに八百里を見つめて呟く。
「わっ、わりい……。その……八百里があまりにも可愛くて……」
申し訳無さそうに語る穂高を前に、八百里は視線をそらして小さな声で呟いた。
「わっわしも……こうして穂高の温もりを感じられて嬉しく思うぞ……」
恥ずかしかったのか、八百里はそう答えると穂高の胸に顔を埋めてその体を抱きしめる。八百里の小さな手が穂高の背中に回され、穂高もゆっくりと八百里を抱きしめる。二人はその日、何回目になるか分からない抱擁をした。
「お前は海の向こうに行ってからというもの、随分と尻軽になったようじゃな。まさか誰にでもこうしている訳ではあるまいな?」
八百里は穂高の頭の上に肩車の姿勢で座っており、二人は山中を歩いている。
「ははっ、まさか。でも向こうの高校だと挨拶代わりにハグとか普通だったしなぁ……」
「ふむ……ということはわし以外にもあの様な事をしておったと。この尻軽が」
「痛い! してないから! 八百里以外にくっついてないから! 髪の毛引っ張らないで!」
思わず穂高が悲鳴をあげ、そんな穂高の言葉に八百里が少し照れたような表情を浮かべながら小さく呟いた。
「わしだけか……ふふふっ。そうかそうか。わしだけか」
「しかし八百里がヤキモチを焼くなんて、可愛らしいところがあるんだなって……いたい、いたい! ごめん、俺が悪かったから髪を引っ張らないで!」
穂高は叫びながら山中を進む。どれくらい歩いただろうか、突然二人の目の前に小さな祠が現れた。祠を前に穂高が小さく笑う。
「お稲荷さんか。今日はあいにく油揚げは持っていないけど、これで我慢してくれるかな」
穂高はポケットから飴玉を取り出して祠の前に置き、それを見ていた八百里が一瞬寂しそうな表情をみせる。
「この祠、随分と傷んでおるな。人はわしらの言葉に耳をふさぎ、自らの神すらも忘れるか。これもまた大地の意思とはいえ、寂しい物じゃな」
「これはまた……耳が痛いな」
「そうじゃろうな……。特に穂高には、な」
八百里はいたずらっぽく笑うと穂高は小さく苦笑する。
「そういえば稲荷といえば、最近佐助稲荷にも行ってないな。今度顔を出すとするか」
「うむ。狐共が暇を持て余しているじゃろう。わしとしては鎌倉山の桜も見ておきたいが」
「あの山桜か……。よし、なら明日はそっちに行こう。今日はいつもの散歩道でいいか?」
「穂高と一緒であればわしはそれで十分じゃ。では行くとするか」
路傍の花にほほえみ、古びた祠に声をかけ、眼下に海を見下ろしながら二人は山道を進む。向かうは山裾にある小さな神社である。
穂高が住む鎌倉は古都として有名で、その面影として市内に無数の寺社仏閣が存在する。二人が訪れたのは街に数ある神社の中でも穂高の特にお気に入りの神社であった。決して大きいとは言えない境内には所狭しと小さな社が並び、若くない木々が悠々とそびえている。
穂高は境内にあるベンチに八百里を座らせると、自分もその隣に腰を降ろす。春の風が二人を優しく撫で、八百里が気持ちよさそうに穂高に寄りかかる。
「……良いものじゃな。例えこの地に誰もいなくとも、この大地を巡る風は昔から変わらん」
「八百里……」
穂高が八百里を見つめると、八百里はおもむろに立ち上がり、穂高の膝の上に座る。
「……良いのじゃ。人は我らを――守護を忘れ、我ら守護もまた人との繋がりを絶った。もはや我らがこちらにいる理由などないのじゃからな」
穂高からは八百里の表情は見えない。八百里は続ける。
「誰もがいなくなり、気がつけばわしだけが残っておった。そしてあの子が生まれた」
「息吹のことか」
穂高の言葉に八百里は首を縦に振る。
「うむ……。あの子はまさに奇跡。それにこうして穂高とも会えた。それもまた奇跡じゃ。ならばこれ以上望めばそれは強欲というものよ」
「そっか……」
八百里がゆっくりと瞳を細めて空を見上げ、穂高も八百里を抱きしめたまま空を見上げる。
「さて、行くかの……と、どうやら穂高に客の様じゃな」
「俺に?」
八百里が穂高に向かって振り返る。穂高が八百里の言葉に首をかしげていると、突然境内に一陣の風が吹き抜ける。
「おっ? お稲荷さんのお使いじゃないか。今日はどうした?」
風が去った後には、いつの間にか穂高たちの目の前に小さなリスがたたずんでおり、その口には煮干しを咥えている。しばしの間、穂高とリスが見つめ合い、突然穂高が笑い出す。穂高の膝の上に座っていた八百里も笑いをこらえている様子で、小さく肩を震わせていた。
「……それはご愁傷様としか言えないなぁ。しかし狸にねぇ……。分かった。なら今日はそっちに寄らせてもらおうかな。話はそこで詳しく聞く、そう伝えておいてくれ」
穂高がリスに向かって語りかけ、一方のリスはまるで穂高の言葉を理解しているかのように小さくうなずき、どこかに向かって駆け出していった。その後ろ姿を眺めていた八百里が堰を切ったように笑い出す。
「くくくっ……聞いたか穂高。仮にも神の使いとあろう者が、その依代を狸に咥えられて行き方知れずなど聞いたことがないわ。しかも狐が狸にじゃぞ? これは朝から笑わせてくれる」
穂高は腹を抱えて笑う八百里の頭を撫でながら、小さく口元をほころばせる。
「まぁ……とりあえず行くか? 神様のお使いを待たせる訳にはいかねえしな」
穂高はそう言うと八百里を膝から下ろしてゆっくりと立ち上がる。その瞬間、風も無いのに周囲の木々がざわめき、それを見た八百里が嬉しそうにほほえんだ。
「……すまんが、穂高が行くならばわしも行かねばならん。また来る」
「いいのか? 俺だけで行っても構わないけど?」
穂高が心配そうに首をかしげるが、一方の八百里は穂高の服の裾をつかんで小さく呟いた。
「言ったはずじゃ……これからはいつも一緒だとな……」
「くっ……なんで八百里はこんなに可愛いんだ! 反則だぜ! 畜生!」
「あう……」
その言葉に穂高が八百里に抱きつき大きな声で叫び、八百里は恥ずかしいのか頬を朱く染める。二人はしばし見つめ合い、二人はゆっくりと瞳を閉じる。優しい空気が二人を包み込み、風が祝福するかのように二人の頬を優しく撫でる。その瞬間――どこからか声が響いた。
「おかあさーん。見て見て! あのお兄ちゃん、一人で変なポーズしてるよ? 何も無いのに可愛いとか叫んでるし!」
そこには参拝者と思しき親子が歩いており、母親に手を引かれた少女が穂高を指さして何やら首を傾げている。
少女の瞳には、まるで(・)何も(・)な(・)い(・)空間を抱きしめているかのような姿で佇んでいる穂高の姿が映っていた。その言葉を受けて少女の母親が穂高を怪訝な表情で見つめながら少女に語りかける。
「こら! 見ちゃいけません! ああいう若い子が一番危ないんだから! 早く行くわよ!」
母親は少女の手を引きながら足早にその場を去っていく。穂高はその場で呆然と立ち尽くし、隣では八百里が腹を抱えて笑っていた。
「くくくっ……わしの姿が人に見えんことを失念しておったな。周りの人から見れば、先ほどの穂高はさぞ不気味に見えたじゃろうな」
「……完全に忘れてたぜ。でもやべえな……あれじゃ俺、ただの危ない奴じゃんか! 知り合いにでも見られたら人生終わる気がするぜ……」
「案ずるな、穂高よ。そうなったとしても、わしはお主の側におるよ」
「八百里……」
穂高は瞳を潤ませながら八百里の手を取り、一方の八百里も穂高を真っ直ぐに見つめ返して微笑んでみせる。その瞬間、周囲にどこかで聞いた声が響いた。
「おかあさーん。あの人またやってるよー?」
「こら! 危ないから見ちゃいけません! 行きましょ!」
穂高はその場からかけ出した。
山中を歩いてしばらく経った頃、二人の前に古びた階段が現れる。階段は稲荷神社へと続いており、一歩、また一歩と階段を降りるにつれて張りつめた空気が漂い始める。苔むした斜面には小さな狐の置物が所狭しと並び、穂高はそれらに手を振りながら階段を降りる。
「ここも相変わらずだなぁ。さて……と。どいつがいなくなったんだ?」
穂高が階段を降りたその瞬間、周囲から忽然と音が消えた。風はいつの間にか止み、先ほどまで揺れていた木々は沈黙する。その様子に穂高は小さくうなずくと、近くにあった狐の置物に手を触れてゆっくりと瞳を閉じる。
「なるほど。橙色の狸に隣にいた奴が連れて行かれたのか……って、橙色の狸ってなんだ?」
首をかしげる穂高をよそに、八百里はどこか懐かしむような表情で周囲を眺めていた。
「久しいな、佐助の狐よ。話は聞かせてもらったぞ。何やら愉快な事になっている様じゃが、あまりわしの穂高を小間使いよろしく使ってくれるな」
「いいんだよ。それに俺はそういう立場だからな。これも修行と思えばどうってこと無いさ」
穂高は八百里の頭を撫でながらほほえんでみせる。八百里はまだ何か言いたそうに穂高を見つめるが、穂高は首を横に振る。その瞬間、周囲に音が戻り、張り詰めた気配が霧散する。
「言いたいことだけ言って消えおって……。しかし、橙色の狸とは……例の面妖な狸に相違あるまい。ちょうどわしも一度見てみたいと思っていたところじゃ。探してみるのも一興か」
「橙色の狸……野生化したアライグマだろうなぁ。最近増えてるって聞くし。まぁせっかくここまで来たんだ、ちょっと寄り道してから海に行くか」
穂高がそう言うと八百里は小さくうなずき、二人は手を取りあって歩き出す。道中、穂高が何かを見つけて立ち止まり、八百里も何事かと覗き込む。二人の目の前には小さなセリが土を割って生えており、それを見た穂高が懐かしそうに呟いた。
「Doldenblütlerかぁ。向こうは一面花畑だったけど、こっちだと群生してないのかな?」
「うむ? 海の向こうではその様な珍妙な名がついておるのか」
思わず八百里が首をかしげ、穂高が小さく首を縦に振る。
「ああ、向こうで住んでいた所の近くにセリの花畑があってさ、毎年夏になると一斉に花が咲くんだ。それがとても奇麗だったなぁって思い出してさ」
「ふむ……それは興味深い。向こうの花はこちらとは違うのか?」
「全然違うな。春は文字通りお花畑になるんだ。見渡す限りの全てが様々な花で埋め尽くされるんだ。圧巻だぜ。あと、紅葉もとても綺麗だな。彩りまさにそこに極まれりって感じでさ。その代わり、冬は滅多に青空が出なくてずっと曇ってる。気が滅入って仕方なかったよ」
「見渡す限りの花畑とはなかなか素敵じゃのう。だが冬なのに陽が出ないとはいただけん」
「それは俺も同感だ。まぁ八百里はこっちの方が合ってると思うぜ」
「そうか。だが一度くらい、お前が愛でた景色とやらをわしも見てみたいものよ」
「ああ、いつか行けたらいいな。息吹も呼んでさ」
穂高が八百里に向かって振り向いた。
その瞬間、世界が大きく『ずれた』。
周囲の景色が一瞬にして色を失い、まるで全てが墨で描いた絵のように、灰色の濃淡しかない世界に移り変わる。みずみずしく覆い茂っていた木々は灰色に染まり、色鮮やかな花たちもその色彩を失っていく。
景色は輪郭を失い、光がまるで海の中にいるかのように揺らめいている。全てが灰色に揺らめく世界の中で、穂高は大きくため息をつく。
「また狭間に引きずられちまったか。でも景色に色が無いってことは、近くに『淀み』でもあるのか?」
穂高の言葉に八百里が瞳を細めて周囲を見渡し、おもむろに近くにあった大きな木の根元を指差した。そこには小さな黒い石が転がっており、八百里はそれを見つめながら呟く。
「恐らくあれじゃな……。淀みを孕んでおる。穂高は下がっておれ」
八百里の言葉に穂高がうなずき、八百里はゆっくりと石に向かう。石からは黒い煙が止めどなく溢れだし、周囲にうっすらと広がっていく。黒い煙が近くにある植物に触れた瞬間、草木はみるみる萎れだす。
多くの草木が何かを必死に訴え、叫ぶ声が穂高の耳に木霊する。その光景に穂高が思わず顔をしかめて呟いた。
「あれは『瘴気』か……。いつ見てもえげつないな。八百里、早く頼む。あのままじゃ……」
「うむ。瘴気に相違あるまい。では疾く『流す』とするか」
戸惑う穂高をよそに、八百里がうなずき右手を小さくふった。その瞬間、八百里を中心に大地から巨大な光の柱が立ち上る。光柱は天を衝く程に高く、徐々にその大きさを増しながら周囲一体をゆっくりと包み込む。穂高と八百里の周囲はあまねく金色に染まり、その光に触れた瞬間、周囲に漂っていた黒く冷たい気配は一瞬にして霧散した。
程なくして光は消え、先ほどの黒い煙を発していた石は灰色になって割れていた。その光景に穂高が小さく安堵のため息をつく。
「相変わらずすげえな……。でも周りもまとめて全部『流す』必要なんてあったのか?」
「何、小さな淀みが幾つか『視えた』ので、一応な」
「へぇ、さすが八百里だな」
得意気に胸を張る八百里を前に、穂高は小さくほほえむとその頭を撫でる。
「穂高よ、お主……まさかわしをまた子供扱いしているのではなかろうな?」
八百里が穂高に向かって振り向いた瞬間、灰色だった世界に色が戻る。世界は極彩色に彩られ、光は捻れて水の中のように揺れている。絶え間なく変わり続けるその色調に穂高が思わず瞳を細めて呟いた。
「相変わらずすごい色合いだよな、この狭間の世界って。ぐにゃぐにゃして酔いそうだし」
「狭間は魂と想いの世界。そこに決まった色、形は存在せぬ。だがこの色は穂高たちのいる現世を生きる命の色でもある。それはともかく……」
八百里は穂高を見つめるや、その体を抱きしめる。
「わずかとはいえ『瘴気』が漏れておった。大事ないか? 穂高よ」
「ははっ、相変わらず八百里は過保護だな。俺は八百里のお陰でピンピンしてるぜ」
穂高は小さくほほえむが、八百里は穂高に抱きついたまましばらく離れなかった。
「でも俺って八百里と一緒の力を持っているんだろ?」
穂高が八百里を肩車しながら問いかける。
「うむ。穂高もわしと同じく『門』の力を持っておる。門とは重なりあう三つの世界、すなわち現世と狭間、そして隠世の間を行き来するための道。穂高がこうして狭間に入れるのも、『わしら』と話せるのもひとえにその身に門の力が宿っているからに他ならぬ」
「それは何度も聞いたから理解しているつもりなんだけどさ、なら俺も瘴気を流せてもいいんじゃないかなと思ってさ」
「瘴気は摂理の中で生み出された淀み。ならばそれは摂理を司るわしら守護の役目じゃ。人である穂高は関わってはならぬ。なに、案ずるな。わしが穂高の全てを守ってみせようぞ」
「ははっ。八百里にそう言ってもらえると心強いな。まぁ俺は俺で出来る範囲で頑張るさ」
「ふふ……せいぜい励むがよい」
穂高の言葉に八百里は抱きついたまま嬉しそうにほほえむと、ゆっくりと離れる。
「よし、ではそろそろ『現世』に戻るとするかの」
八百里はそう言うと、ゆっくりと瞳を閉じる。その瞬間、周囲の景色が大きく歪む。景色は輪郭を取り戻し、揺らめいていた光は一瞬にして消え去り、そこには先程まで穂高たちが見ていた山中の景色が広がっていた。
「しかし不思議なもんだよなぁ……俺は神様の声は聞こえないのに、八百里とかの声はちゃんと聞こえるんだよな。お稲荷さんにしても聞こえるのはお狐さまの声だけで、稲荷大明神様の声は聞こえないし。神職の跡取りとしてはどうなの、って感じだぜ」
穂高が木々の隙間から見える青空を見上げながら呟いた。
「お主らの言う神は人の為の神であろう? そしてわしはこの大地の為の守護じゃ。仔細は違えどその本質は同じ所で繋がっておる。いずれ穂高にもその声が聞える日が来るやもしれんし、来ないやもしれん」
「ははっ……どっちだよ、全く。でも俺はこのままでいいかなと思っているんだ。声なんて聞こえなくても神様はいる、そう信じることが大事なんじゃないかなって。あっ、でも八百里とこうして話せなくなるのは嫌だぞ?」
「ふふっ、嬉しい事を言ってくれるな。安心するがいい。わしはいつでも穂高の横におるよ」
満面の笑みで穂高に向かってほほえむ八百里を前に、穂高は思わずその笑顔に見とれていた。我に返ったのか穂高は慌てて横を向き、そんな穂高の様子が気になったのか、八百里が首をかしげながら問いかける。
「どうしたのじゃ? 目に埃でも入ったか?」
八百里が背伸びをしながら穂高の頬を撫でようとするが届かない。ピョンピョンと穂高のかたわらで跳ねる八百里を横目に穂高が小さな声で呟いた。
「思春期の男子高校生なめんな……。かわいすぎんだろ……」
「さて、海に行くとしても、ここまで来て真っ直ぐに由比ヶ浜の海岸に向かったのでは芸がない。ならばここは商店街でも見ながら行くのも悪くなかろう?」
「おっ、分かってるねぇ。じゃあ行きがてら、井の羽卯かまぼこでも買って行くか? 八百里、あそこのかまぼこ好きだったろ?」
穂高がそう語った瞬間、八百里が勢い良く穂高に向かって振り向いた。その口元はにやけて緩んでおり、瞳を輝かせながら嬉しそうに穂高の手を引っ張りながら語る。
「良いのか!? 井の羽卯かまぼこじゃぞ!? 今更嘘と言うのは無しじゃぞ?」
「ああ。好きなだけとは言えないけど、それでもいいか?」
「また井の羽卯かまぼこが食えるとは……楽しみじゃのう……」
「おっ、おい? 八百里? その……今手持ちがあまりないからたくさんは駄目だぞ?」
「うれしいのう……うれしいのう……」
幸せそうな表情で身をよじらせている八百里には穂高の声は届かない。穂高は小さく苦笑すると、先を歩く八百里の背中を追った。
「でも意外だったよな。八百里が井の羽卯かまぼこをここまで気に入るとは。かまぼこって魚が原料だから、てっきり八百里は嫌いだと思ってたよ」
「本来狭間の住人であるわしらには食事など必要ないが、なかなかどうして、現世の食い物とやらも侮れん。穂高に染められてしもうたわ。これは責任をとってもらわねばならんな」
八百里がかまぼこをくわえながら嬉しそうに穂高を見上げて語る。そんな八百里を眺めながら穂高も嬉しそうに瞳を細め、八百里の頭を撫でる。
「そういえば……守護っていうか、狭間の住人はこっちのものに触れることができないんだろ? 八百里だけ門の力を持っているから世界を跨いで、俺たちの世界に触れることができる、だったっけ? 聞けば聞くほど八百里だけ特別なんだな。息吹が羨ましがってたぜ?」
「何を言うか。穂高もわしと同じと言うておろうに」
「イマイチそれが良く分からないんだよなぁ。確かに俺は八百里を視ることもできるし触れることもできる。それにあの酔いそうな世界――狭間に入る事ができるけどさ、でも昔の人はみんな俺みたいだったんだろ?」
穂高の言葉に八百里が小さく首を横に振る。
「狭間は思念と魂の世界。さすがに人の身で狭間に入れる者は……おらんかったわ。だが人はわしらを視えずとも感じることができた」
「へぇ……そりゃすごいな。その頃はまだ他の守護の人たちもいたんだろ?」
穂高の言葉に八百里が瞳を細めて楽しそうに続ける。
「そうじゃのう……皆優しく、良い者ばかりであったよ。人がまだわしらの声を聞く事ができた頃、わしらと人はよく杯を交わしたものじゃ。風の声を聞き、木々と共に歌う。懐かしい日々じゃ。人がわし等を忘れてからは、皆この地を去ってしまったがな」
「八百里……」
どこか寂しそうに空を見上げる八百里を見て、穂高がゆっくりとその体を抱きしめる。
「八百里は一人じゃなんかないぜ。俺がこうしてここにいる。息吹だってそうだ。俺たちはずっと八百里と一緒だ!」
八百里は穂高の腕に自身の小さな手を添えて嬉しそうに呟いた。
「……ふふっ、心配してくれるか、穂高よ。じゃが安心いたせ。わしは万象の守護、八百里じゃぞ? この地に生きる命全てがわしの子であり、友なのじゃ。寂しいなどとは思わんよ」
八百里の言葉に穂高が一瞬複雑な表情を浮かべ、一方の八百里は穂高に身を預けながらゆっくりと瞳を閉じる。静寂が二人を包み込み、心地良い春の風が二人の頬を撫でていく。幸福の余韻に包まれた二人は周囲のざわめきに気が付かない。
「ねえ、あれって神社の……ほら、五條さんのところの穂高ちゃんじゃない?」
「いきなりどうしちゃったのかしらね。エアーハグってやつかしら? 最近の若い子ってよく分からないわね……」
「ねぇ、お母さん。あのお兄ちゃんがまたいるよ! いきなり叫んでどうしたのかな?」
「しっ、見ちゃいけません! 関わったら危ないから行きましょ!」
その言葉に穂高たちの意識が一瞬にして現実に戻る。
「……またやっちまった」
「……すまんのう」
「ちょっ、あの男の子気持ち悪い。一人でぶつぶつ言ってる……」
「うそっ、ホントだ。せっかく顔は良いのに勿体無いよね。残念系?」
通りすがりの女子高生たちが穂高を指差して何やら小声で話している。思わず八百里が心配そうに穂高を見上げるが、穂高は黙って首を横に振るばかりであった。
「……いいんだ、俺が好きでやったことだ。いいんだ……」
「穂高……」
「おかあさん、あの人またぶつぶつ言い出したよー?」
「しっ、目を合わせたらダメよ! 襲われる前に逃げるわよ!」
狭間の住人である八百里の姿は人の瞳には映らない。仮に視えたとしても、八百里の姿はどう見ても年端の行かない少女である。そんな少女に往来の真ん中で抱きついたとあれば今よりも更に不名誉なことになっていたのだが、穂高はそれに気がつかない。
「……泣きてぇ」
そんな穂高を遠くから一人の少女が不思議そうに見つめていた。
「あれは……穂高くん? あんなところで何をやってるのかしら……?」
「たまに忘れちまうんだよな……八百里が他の人から視えないってこと」
穂高は逃げるように近くの神社に駆け込み、乱れた呼吸を整えるべく境内の椅子に座って休んでいた。八百里はそんな穂高を心配そうに見つめると、うつむきがちに呟いた。
「……すまんのう。わしが変な気を遣わせてしまったせいで、穂高に迷惑をかけてしもうた」
八百里の言葉に力はなく、穂高はそんな八百里の気遣いを感じてかほほえんでみせる。
「いいってことさ。誰にも視えなくても俺はちゃんと八百里を感じられる。俺の世界に八百里はちゃんといる。それだけは曲げねえ」
「ふふっ……そう言われると悪い気はしないのう……」
八百里はまんざらでもないといった様子で、ゆっくりとその身を穂高に預ける。穂高は寄りかかる八百里を抱きかかえるとゆっくりと持ち上げ、そのまま自分の膝の間に座らせた。
「……のう、穂高よ」
「どうした、八百里?」
穂高の腕の中で八百里が空を見つめながら呟いた。
「お主は人じゃ。そしてわしは人ではない」
「そうだな、いきなりどうした?」
八百里は穂高の腕に抱かれたまま空を見上げており、その表情は穂高からは見えない。
「わしらの間に流れる時の速さが違うのじゃ。わしからすれば人の一生など瞬きをする刹那の内に流れ去る泡沫の夢に等しい」
「そうだな……。八百里がいつからここにいるかは知らないけど、それでもものすごく昔からここにいるってことくらいは分かる。そんな八百里からすれば俺の一生なんて一瞬に等しいってのも分かる」
「……だからじゃ。短い時しか生きられぬが故に、その生が尊いのじゃ。わしは命や時間の意味を持たぬ。だからこそ穂高、わしにはお主の存在がたまらなく眩しい。お主の笑顔、お主と共に過ごす時間、その全てが愛おしい」
「八百里……」
穂高は八百里を抱きしめる腕に力を籠め、八百里も嬉しそうにゆっくりと瞳を細めた。
「穂高の命が続くその刹那の間、わしの時をくれてやろう。もはやその意味すらなくなったわしの時間じゃが、穂高と共に過ごせるのであれば、あるいはその意味を取り戻すやもしれん」
八百里は穂高に向かってほほえむと、穂高も嬉しそうに首を縦に振る。
「ああ、俺が死ぬまで付き合ってもらうぜ! これからもよろしくな、八百里」
「ふふ……こちらこそ、よろしく頼むぞ。穂高」
二人は力強く抱き合い、その様子を穂高の祖父の友人であるこの神社の神主が遠くから困惑した様子で眺めていたことは余談である。
*
「さて、そろそろ海に行くか。ってか、恥ずかしいところを見られちまったな。後で爺ちゃんになんて言われるか……」
「ふふふ。そう照れるな、穂高よ。愛しい人と共に在る。何を恥じることがあろうか」
真っ直ぐに語る八百里を前に、穂高は小さく息を呑むと焦った様子で語りだす。
「俺はまだガキだから、そういうのが恥ずかしいんだっつーの。察してくれよ……」
穂高の言葉に八百里がいたずらっぽくほほえむと、そのまま穂高の手を取り歩き出す。
「ならば大人になった穂高がなんというか楽しみじゃな」
「おっ? 言ったな。大人の俺の魅力に酔いしれるがいいさ。せいぜい覚悟しておけよ」
「ふふっ……それは楽しみじゃな」
二人は手を繋ぎながら海を目指す。鎌倉は四方を山に囲まれているが故に、昔は市街から外に出るには切り通しと呼ばれる山を切り抜いて作った道を通らねばならなかった。二人はその切り通しの名残の一つ、『極楽寺の切り通し』と呼ばれている坂にさしかかっていた。すると穂高が突然小さく声を漏らす。
「おいおい……こんな狭い道でも工事をしてるのかよ……」
切り通しの狭い道の片側を工事の為の重機が占領しており、そのせいで道は車で渋滞し、それを縫うように観光客と思しき大量の歩行者が道路を歩いていた。
「ったく……工事なら夜中とか、せめて観光客がいない時期にして欲しいぜ……」
「仕方あるまい。人には人の事情があるのだろう。しかしせっかく極楽寺まで来たのじゃ。海に抜けるなら紫陽花の様子見がてら、成就院を抜けるのも悪くなかろう」
八百里はそういうや穂高の服の裾を二度ほど引っ張った。それが合図だったのか、穂高が八百里の前にしゃがみこむ。八百里はそのまま穂高の背中をよじ登り肩車の姿勢になる。傍から見れば穂高が靴を直しているようにしか見えないが、これは肩車をこよなく愛する八百里のための二人の合図であった。
「うむ、やはりここが一番落ち着くのう……」
「ははっ、気に入ってもらえて何よりだ。成就院は目の前だからすぐに着いちまうけどな」
穂高はゆっくりと立ち上がると八百里の両足を掴んで歩き出す。一方の八百里は嬉しそうに穂高の頭に手を置き、周囲を見回していた。すると穂高が何かを思い出したように語り出す。
「そういえばさ、八百里ってその気になれば一瞬でどこにでも行けたり、飛べたりするんだろ? なんで毎回俺の肩車なんだ?」
穂高の言葉に八百里が瞳を細めて、いたずらっぽく穂高の耳元でささやく。
「……それをわしに言わせる気か? お主はなんだかんだ言いながらませておるのう」
「ちっ、ちげえよ! ただ、不思議だなぁと思ってさ」
八百里は慌てる穂高の様子に口元をほころばせ、優しく穂高の頬を撫でる。
「わしは穂高と一緒にいたいのじゃ。共に風の声を聞き、大地を感じる。さすればこの刹那の戯れも、かけがえの無い永遠となってわしの身に刻まれるのじゃ。我が愛しい人よ」
「おっ、……おう……」
八百里の言葉に穂高の頬は紅く染まり、それが八百里に見られるのが恥ずかしいのかうつむきながら足早に歩いていく。その頭の上で八百里が心地よさそうに瞳を細めていた。
鎌倉は古都として有名であるが、それを有名たらしめているものの一つに市街に数多く存在する寺社仏閣があげられる。二人が訪れた成就院は色とりどりの紫陽花で有名な寺院である。
成就院へと至る階段にはその両脇を埋め尽くすように紫陽花が植えられており、これから来る梅雨を待ちきれないかのように新芽がひしめき合っていた。
「おっ、紫陽花たちは今年も元気だな! お前ら梅雨まであとちょっとの辛抱だぜ」
「ふふ……皆、梅雨はまだかまだかとうずいておる。この様子なら今年も楽しめそうじゃな」
八百里は紫陽花を前に優しい笑みを浮かべ、ゆっくりと瞳を閉じる。そんな八百里を前に穂高が不思議そうに首をかしげる。
「どうした? 八百里?」
「……なに、昔はよく紫陽花の花が咲く頃に宴を開いていたことを思い出してな。人と共に皆で紫陽花をよく愛でたものじゃ。今となっては懐かしい日々じゃがな」
八百里の声には喜びと少しばかりの寂しさが浮かび、穂高はそんな八百里の気持ちを察してかおもむろに八百里の手を取って笑う。
「じゃあさ、今度やろうぜ。俺と一緒に、宴会をさ」
「ふふっ……穂高に気を遣われるとはのう……。だが、その言葉に包まれた優しい気持ち、確かにわしに届いたぞ」
八百里は穂高の腰にしがみつくとそのまま顔をうずめ、一方の穂高はほほえみながら優しく八百里の髪を撫でる。八百里は穂高の手の温もりを感じながらゆっくりと瞳を閉じる。二人の間に優しい時間が流れていった。
「ママー。またあのお兄さんがいるよ? ニヤニヤしながら手を動かしてるよー?」
「しっ! 見ちゃいけません! ああなったらもう人として末期だから関わっちゃ駄目よ!」
突如、横を通りかかった少女が穂高に向かって指をさし、母親が慌ててその少女を引き連れてその場を後にする。穂高は八百里に夢中になっており、周囲の様子に気を配る余裕がなかった。故に自身の周囲にいつのまにか多くの観光客が集まっていたことに穂高は気が付かない。
観光客の中に混じってただ一人、瞳を閉じ、口元には笑みを浮かべて腰のあたりの何もない空間を撫で続けるその姿は異様そのものである。穂高が人の気配に気がついて恐る恐る瞳を開けてみれば、そこには多くの年配の観光客が穂高を取り囲むように遠巻きに眺めていた。
「泣きてぇ……。あれじゃ俺、完全に危ない奴じゃんか……」
「く……くははははっ! お主という奴は……。確かに端から見れば滑稽、というよりも薄気味悪いじゃろうな……。すまんのう……くふふっ」
その場から逃げ出した穂高は頭を抱え、一方の八百里は耐え切れなかったのか穂高に抱きついたまま肩を揺らしている。そんな八百里を見て穂高は深いため息をつくばかりであった。
成就院は紫陽花で有名な寺院であるが、山頂に位置する境内を挟んで反対側にある、海へと続く長い階段も風光明媚の地として人気を博していた。かくいう穂高も海を一望することができるこの階段を気に入っており、二人は海を眺めながらゆっくりと階段を降りる。
眼下には由比ヶ浜の湾が広がり、遠くから見る海は穏やかな風と波に包まれていた。海面には多くのヨットが並び、砂浜には人々がそれぞれ思い思いの時間を過ごしている。
「しかし見れば見るほど砂浜が減ったのう」
「俺が子供の頃に比べてもだいぶ砂浜が無くなったからなぁ……。昔を知っている八百里からすれば劇的な変化なんだろうな」
「そうじゃな。変わらぬものもあれば変わるものもある。万象の摂理とはその様なものじゃ」
「摂理ねぇ。イマイチ俺には分からないけど、八百里がそう言うならそうなんだろうな」
穂高が空を見上げて呟くと、八百里は楽しそうに穂高を見つめて語る。
「わしら守護は大地の摂理そのものじゃ。わしと同じ力を持つ穂高もまたその摂理の一部。穂高の力はまだ目覚めてはおらんようだが、その時がくれば自ずと理解するはずじゃ。もっともその時など来ない方が良いがな」
複雑な表情で笑う八百里をよそに穂高は肩をすくめておどけてみせる。
「まぁ、そう言われても正直実感が湧かないし、俺としてはどっちでもいいけどさ。それに……あまり難しい話は苦手だぜ」
「その通りじゃ。穂高にはわしがいる。そしてわしには穂高がおる。それ以上、何も望むべくもあるまいよ」
「八百里……」
八百里はそう言うと瞳を閉じて穂高に寄りかかり、穂高はそんな八百里の小さな体を優しく抱きしめる。
「ママー、またさっきのお兄ちゃんがいるよ? ニヤニヤしながら変なポーズをしてるー」
「しっ! 見ちゃいけません。気がつかれないうちに逃げましょ!」
「……ちくしょう」
穂高は泣かなかった。
「しかし今日は晴れていて本当に気持ちがいいな」
「うむ。まさに蒼穹じゃの。このような穏やかな日は山桜の上で寝ていたいものじゃ」
穂高と八百里は共に並んで砂浜を歩いていた。春の陽光を受けて砂浜は暖かく、繰り返す波の音が二人の耳に心地よく響く。
目の前では釣り人が魚を釣り上げ、空にはそれを狙う鳶が待ち構えている。その傍らではカップルが弁当を食べようとして、その後ろから飛来した鳶に弁当の中身かすめ取られて慌てふためいていた。
「あーあ、取られちゃったか。ご愁傷様ってか」
穂高は苦笑しつつ、お弁当を奪われた運のないカップルに同情した。その傍らでは八百里が砂浜に打ち上げられた漂着物を珍しそうに眺めていた。
「何だそりゃ? 見たところ……流木か何かか?」
「っ! 待て! 穂高、それは……」
穂高は首を傾げながらその破片を拾い上げた瞬間、周囲の景色が瞬く間に切り替わる。目の前に広がっていた海は消え去り、そこにはいつの間にか大きな湖が広がっていた。そこに砂浜はなく、周囲には鬱蒼と木々が覆い茂っている。
「なん……だ? それにここは?」
穂高が思わず呟き周囲を見渡すと、湖の真ん中に小さな島があり、そこに巨大な一本の木が生えているのが見えた。次の瞬間、周囲の景色が再びめまぐるしく切り変わっていく。いつの間にか穂高の立っていた地面は消え去り、その足元には湖が広がっていた。
「うわっ!」
突然穂高が思わず叫んで小さく飛び上がるが、着地すべき地面は既にない。穂高の体はそのままゆっくりと水の中に沈んでいった。沈んでいく穂高の目の前を見たことのない巨大な魚が横切り、思わず穂高が目を見開く。
再び景色が移り変わる。湖はいつしか消えてなくなり、周囲に広がる森は切り開かれ、田畑が広がっているが、眼前に生えている一本の大木がこの景色が先ほど見ていた場所と同じであることを示していた。
「あれは……人……か。しかしあの格好……いつの時代だ?」
穂高がそう呟くと、次の瞬間、穂高は再び水の中にいた。穂高はいきなり自分が海中を勢い良く動いている感覚に襲われ、何事かと周囲を見れば自分の横には木片を加えたまま泳ぐ大きな魚の姿があった。
「なるほどね……。これはお前の『記憶』か。ということはまた引っ張られちまったか」
穂高は小さく笑い、楽しそうに叫ぶ。
「なかなか楽しかったぜ! だけど今は八百里を待たせてるんだ。また後で見せてくれよ!」
穂高が叫んだ瞬間、周囲の景色が突然大きく歪み、世界は光に包まれた。その眩しさに穂高は思わず瞳を細め、光の渦に身を委ねた。
「穂高! 聴こえておるか? いい加減戻ってきたらどうじゃ」
「八百里……か? ということは、戻ってきた、か」
気がつけば穂高は黒い破片を持ったまま立ち尽くしており、目の前には自分を心配そうに見つめている八百里の姿があった。
「だから待てと言ったろうに……いきなり『引っ張られ』おって。それで、何か面白いものでも視えたか?」
「ああ……多分、ものすごく昔の記憶だと思う。まだ周りに人がいなくてさ、湖の中には変な魚が泳いでた。すごかったぜ……」
穂高はそういうと、手にした破片を八百里に向かって差し出した。八百里は一瞬瞳を細めると、小さくうなずきながら口元をほころばせる。
「ふむ……成る程のう……。石になっておるが、これは確かに木片じゃな。それも相当古い」
「だろ? ひょっとしてあの変な魚って恐竜だったのかもしれないぜ! すげえ!」
八百里は無邪気に喜ぶ穂高を一瞥するとほほえみながら首を縦に振る。
「穂高もそのうち音も聞こえるようになるやもしれん。『門』の力とはそういうものじゃ」
「マジか! 夢が広がるなぁ……」
「正確には物に宿る記憶に触れることと、万象の声を聞くこととは別なのじゃがな。狭間は想いと魂の世界。草木の想いは狭間で声となり、穂高はそれを聞いているにすぎん。物の記憶は現世に刻まれた想いの残滓じゃ。似ているようで違う……と言っても穂高には分からんか」
八百里の言葉にまるで理解できないといった表情の穂高を前に、八百里は小さく笑う。
「……もっとも穂高は今のままでも十分門としての力を備えておる。今はそれで十分じゃろう。それ以上門の力に目覚める必要はないが、夢を胸に日々精進することが肝要じゃな」
「そうだな。俺はこうして八百里に触れることができる。八百里さえいてくれれば、俺にはこれで十分だ。多くは望まないさ」
「穂高……」
力強く語る穂高を前に、八百里が小さく口元を綻ばせる。穂高の瞳には優しい光が灯り、八百里も心なしか瞳が潤んでいるようにも見える。二人はしばし無言で見つめ合い、八百里がおもむろに両手を伸ばして穂高の頬に触れる。
「八百里……」
穂高はゆっくりと瞳を細めて優しくほほえみ、八百里に向かって手を伸ばす。二人の周囲を静寂が包み、寄せては引いていく波の音だけが響く。穂高と八百里がお互いを求めて手を広げた瞬間、周囲に静寂を打ち破るように声が響く。
「ママー、こっちこっち!」
「こら! 砂浜は危ないから走っちゃいけません!」
「だってー、ふかふかで楽しいよー?」
穂高と八百里は目を合わせたまま固まり、穂高が硬直したまま小さく呟いた。
「八百里……」
「……うむ」
二人は抱き合う直前の手を広げたままの姿勢で固まっており、それを見た少女が穂高を指さして呟いた。
「あっ! さっき紫陽花のところにいたお兄ちゃんだー。また変なポーズしてるー!」
「何で毎回……ひょっとして私達つけられているのかも。大変! 警察に連絡しなきゃ!」
「……」
穂高は泣かなかった。
**
穂高たちはそのまま海沿いを歩き、目的の地――稲村ヶ崎の海岸にいた。由比ヶ浜では白い海岸が広がっていたのに対し、稲村ヶ崎では黒い砂浜が広がっている。
「これこれ。ここでしか砂鉄は採れないんだよね」
穂高は嬉しそうにポケットから小さくたたんだ麻袋を取り出し、おもむろに砂を集めだす。
「これくらいで十分だろ……って、あれ? 動かないぞ? あれ?」
穂高は麻袋を持ち上げようと試みるが、袋は一向に動く気配はない。何度かの試みの後、ついに諦めたのか穂高は砂の入った朝袋を砂浜に放り出しその場に座り込む。
「だから言ったのじゃ……砂は水を含むととても重くなると。欲を出しおって」
その光景に案の定と言わんばかりの表情で八百里が小さくため息をつく。
「くっ……砂ってこんなに重かったのか……。だが負けるかよ……」
穂高は再度麻袋を持ち上げようとするが、麻袋は微動だにしない。それでも穂高は諦めずに何とか袋を担ごうとするがその全ては徒労に終わる。
「相も変わらず負けず嫌いよのう……穂高は。じゃがその心意気は嫌いではないぞ」
「そう思ってるならちょっと手伝ってくれ! マジで重い!」
「嫌じゃ」
八百里は穂高の頼みに首を横に振り即答する。
「頼む! 井の羽卯かまぼこ四つでどうだ!?」
穂高のその言葉に八百里は一瞬何かを考える素振りを見せ、慌てて首を横に振る。
「もっ、物で懐柔しようなど、お主も小賢しい真似を覚えたものじゃな。全く嘆かわしいぞ。それでも男子か」
「六個でどうだ?」
「くっ……」
穂高の言葉に八百里が一瞬眉を動かして黙る。その表情に余裕はなく、何かに耐えるかのように瞳を閉じて必死に拳を握っていた。
「くっ、なかなか粘るな……。なら八個でどうだ? それに今なら豊島屋の雲雀落雁も付けてやる! どうだ!?」
「ふっ……ふん。浅はかじゃな、穂高。この万象の門たる八百里を食い物で釣ろうなど、まさに短慮。じゃがわしは他でもない穂高の力になることはやぶさかではない。よって少しだけ手を貸してやろう。かまぼこを十と落雁を捧げるがいい」
八百里はそう言うと、ゆっくりと右手を天に向かって掲げる。それに呼応するかのように八百里の足元に淡い光が放射状に広がり、光はゆっくりと穂高を包んでいく。次の瞬間、凄まじい突風が穂高を襲う。
「うわ!」
穂高が思わず瞳を閉じると、突風はそのまま空に向かって消えていった。
「八百里……? 今のは……?」
「約束を忘れるでないぞ、穂高。ほれ」
八百里は胸を張って満足そうに告げると、穂高の服の裾を引っ張る。穂高は何が起きたのか理解できないまま、ゆっくりと八百里の前に膝を着く。八百里は嬉しそうに穂高の背中に飛びつくとそのまま背中を登り、肩車の姿勢を取る。
「いや……だから……砂を運ぶのを……」
「いいから、行くぞ。かまぼこは明日でも良いぞ」
八百里の言葉に首を傾げながら穂高はゆっくりと立ち上がり、砂袋を恐る恐る引っ張りあげる。その瞬間、穂高は思わず大きく叫んだ。
「かっ……軽い! どっ、どうなってんだ、これ!?」
「砂の重さという概念を狭間に流した。なに、家についたら戻してやるから安心せい」
「すげえ……すげえよ! 八百里!」
「ふふん……わしにかかれば造作も無いことよ」
興奮する穂高をよそに、八百里は満足そうに笑みを浮かべていた。
「ところで、結局その砂は一体何に必要だったのじゃ?」
八百里の言葉に穂高は麻袋の口を閉じながら嬉しそうに口元をほころばせた。
「砂鉄から鋼を――玉鋼を作るんだよ」
「玉鋼じゃと? まさか刀剣の類を打ちたいという訳ではあるまい?」
「残念、そのまさかだよ、八百里。俺はさ、ヨーロッパにいる時からいつか日本に戻ったら、自分の手で刃物を打とうって決めてたんだ。でも素人がいきなり刀なんて打てる訳ないだろ? だからせめて日頃使える小さな刃物を作ってみようと思ったんだ」
「なるほど……そうじゃったか。しかし自分で刃物を打ちたいとは、相変わらずというか……なんとも穂高らしいのう」
「ははっ、そうか? 俺はこんな自分が結構気に入っているんだけどなぁ。自分の物を自分で作れるなんて最高じゃんか」
穂高の言葉に八百里も小さくほほえみ、二人はそのまま砂浜の先に消えていった。
「さて……八百里のお陰でこんなに沢山砂が採れた訳だが、重さを戻してくれるか?」
穂高は麻袋をビニールシートの上に置くと、袋を触りながら八百里に問いかける。
「承知した」
穂高の頭の上で八百里が小さくうなずくと、右手を大きく空に向かって掲げた。その瞬間、周囲に光が溢れ、光は明滅を繰り返しながら徐々に弱まり、次第に麻袋に向かって収束し始める。光が消えた後、穂高は恐る恐る麻袋を持ち、驚いた表情で瞳を見開いた。
「……すげえ。重さが戻ってる。なんていうか、デタラメだよな……相変わらず」
「何を言うか、穂高よ。これもまた門の力。その本質を理解すればお主にもできる芸当じゃ」
「そうは言ってもなぁ……やっぱり俺には分かんねえよ。俺に力があるって言われても、どうやったら八百里みたいに力を使えばいいのかすら皆目検討もつかねえ」
「ふふっ……穂高には無用の力じゃ。仮に穂高がわしと同じ力を持ってしまえば、こうしてわしは穂高の手伝いをする必要もなくなってしまうからのう。それは……ちと寂しい」
「……そうだな。俺は八百里と同じになれると思うほど驕っちゃいないし、それにこうして八百里と一緒に何かをするのがとても楽しい。だから俺はお前を頼る。きっとこれからも」
穂高はほがらかに笑うと、膝の上に座る八百里の体を後ろから抱きしめる。その背に穂高の温もりを感じた八百里は、自分の腰に回された手に自身の手を添えてゆっくりと瞳を閉じる。
「そうじゃな……わしらは共に在る。何よりも幸せなことじゃ」
「ああ……」
「のう穂高よ?」
「何だ……?」
穂高も瞳を閉じながら、八百里の温もりを感じて口元をほころばせている。そんな穂高をよそに八百里は複雑な表情を浮かべると、言いにくそうにためらいながら穂高に語る。
「……穂高の祖母君が遠くからこちらを眺めて複雑そうな表情をしておるのじゃが……あれはいいのか?」
その言葉に穂高が咄嗟に振り向くとそこには既に人の姿はなく、穂高は慌てて大きく叫ぶ。
「まっ、待ってくれ、ばあちゃん! これは違うんだ! 俺は別にエアーハグが趣味なんかじゃなくて……」
後日、穂高の祖母が不自然なほど優しくなったのは余談である。