終章
終章
「布留川、あれから体の調子はどうだ? その……どこか痛くないか?」
「あっ、菱君? うん、大丈夫だよ。お医者さんに診てもらったけどどこにもおかしなところはないってさ」
手を振りながら笑みを浮かべる棗を前に、クラスメイトである菱は小さく安堵のため息を付く。
「穂高と布留川が二人仲良く別々の場所で倒れたってクラス中で大騒ぎになってるぜ」
「あはは……。どうせなら穂高くんと手でもつないで倒れていたらロマンチックだったのにね」
「そうだな。砂浜で走り込みをしすぎてオーバーワークだったんだろ? ひどい脱水症状だって聞いたぞ? お前体重を気にするようなキャラじゃないだろ?」
「まぁ、ね。とにかく走りたい気分だったんだから仕方ないでしょ」
「そりゃそうだが、穂高があんな事になっちまったから、お前はどうなんだってみんな騒いでる」
菱の言葉に棗の体が小さく震える。
「……穂高くん、同じ病院に入院していたけどまだ意識戻らないんだって」
絞り出すように出された棗の言葉に菱が慌てて首を横にふる。
「でっ、でも! 穂高が倒れた原因は分からないけど、衰弱がひどかっただけで病気とかじゃないって話なんだろ? 理由はわかんねえけど疲れて寝てただけなら布留川と同じでそのうち起きるだろ? ただ寝てるだけだって」
「そうだね……。穂高くんって子供の頃から朝は弱かったのに、いつの間にかちゃんと起きられる子になってて、またお寝坊さんに戻っちゃったのかもね」
棗の視線が窓の外にうつる。
「……あいつは起きる。絶対に。だから布留川もそろそろ学校に来いよ。みんなお前らのことを心配してる」
「わざわざ家に来てくれてありがとうね。そろそろ大丈夫だから学校にも行けると思う」
「そっか。じゃあ待ってるからな。俺はこれから穂高のところにも行かなきゃなんでそろそろ行くわ」
「うん。穂高くんによろしくね」
菱が帰ったあと、家族のいない居間で棗が突然顔を伏せた。
「私は……私は楔を、穂高くんの命を……! やっぱりあの場ですぐにお医者さんを呼べばよかったんだ! 全部私の……私のせいだ!」
勢いよく机に手を叩きつける。溢れ出した感情は止まらない。
「こんなのって、こんなのってないよ! なんで穂高くんだったの? なんで、こんなことって!」
嗚咽が混じり、目尻には涙が浮かぶ。行き場のない感情が拳に乗り、再び机に大きく叩きつけようとしたその瞬間、棗の頬を一陣の風が撫でた。
棗はその香りに覚えがあった。それがどこかは思い出せない。しかし確実に棗はその香りを知っている。
「これは……あの時の!」
棗の脳裏に浮かぶのは倒れる瞬間に現れた少女の姿。棗を砂浜へと誘った花吹雪の香り。ずっと感じていた違和感が棗の思考を加速させる。
「穂高くんはすべての命をつぎ込んであの楔を作ったと言っていた。だからもう助からないって。でも穂高くんは生きている。体力が極端に落ちていただけで今は問題ないって……。一体何が……」
棗の言葉に呼応するかのように、菱へと用意した茶請けの羊羹に刺さっていた楊枝が倒れる。
いくら茶菓子好きの棗といえど、さすがに客人へ出された茶請けの残りを食べる趣味はない。しかし菱は急いでいたのか出された羊羹には全く手をつけていなかった。それはほんの気まぐれだった。棗はその羊羹を口へと運び、思わず瞳を見開いた。
「味が……しない。どうして? これいつも食べてる龍屋の羊羹だし……」
慌てて自分の食べかけの羊羹を頬張り、いつもの味に安堵のため息を付く。
「こっちはちゃんと味がする。私の味覚がおかしくなったわけじゃない……この羊羹だけ味が消えてる……」
自分の言葉に穂高の言葉が唐突に思い出される。
「八百里さんたちに食べ物を食べられると味がしなくなるって……」
棗は慌てて立ち上がり、周囲を見回して大声で叫ぶ。
「ねえ! いるんでしょ! 楔はちゃんと届いたの!? 穂高くんは、穂高くんは助かるの!? いるなら返事をしてよ! 穂高くんは、穂高くんはあなたのために!」
その言葉に応えるものはいない。静かな室内に棗の声が木霊する。それでも棗はある種の確信を抱きながら言葉を続ける。
「あなたはそこにいる。そして穂高くんは死んでない。なら助けられる! 助けてみせる! 私が穂高くんを助けてみせる」
もはや瞳に後悔はなく、純然たる決意が煌々と燃えている。棗は急いで着替えをすると勢いよく家を飛び出した。
遥か神代の時代、人は滝壺の泡の声を聞いていたという。
この世界に存在する森羅万象すべてに魂が宿り、人は彼らの声を聞いていた。
音はなくとも良く響き、風はなくとも良く薫る。
『世界』はこんなにも近く、彼らの声に耳を傾ければそれはきっと聴こえる。これはそんな人と人の傍らに在り続ける存在たちの物語。
となりの花鳥風月 ―了―




