運命
「今、姉さんから電話があったのよ」
柊花は、また静香から自慢話を聞かされるかと思うと内心うんざりした。静香の、そのドヤ顔が、すべてを語っている。花梨は図書館で借りて来た絵本をリビングテーブルに広げ「どれから読もうかな~」と思案していた。
「姉さんとこの、ほら紗奈 (さな)ちゃん。美穂ちゃんとこの。今度バレエの発表会があって、ソロで踊るらしいのよ。有名人になるかもね」
「凄いですね。……花梨、先に手を洗いなさい」
柊花の気のない返事に静香は激高した。
「花梨も何か習わせたら? でも、あの目じゃ……ねぇ。可哀そうに」
花梨には軽度の斜視がある。視力に問題はないが、疲れているきなどに、視点がズレることがある。定期的に眼科を受診しつつ、自然治癒を願っているところだった。
「いつもどこ見てんだか」
その一言で、柊花はカッとなった。花梨がその場にいないからと、言っていいことではない。柊花はバッグと花梨の上着を掴むと、帰宅したその足で家を飛び出した―。
「ママ?」
柊花はずっと黙ったままだった。口を開くと涙が溢れそうになるからだ。バスに乗って駅前広場まで来たけれど、行く当てもなかった。
「ママ……?」
「アイスクリーム、食べようか?」
「やった~!」
花梨の無邪気な笑顔に、柊花は少しだけ癒された。駅ビルのカフェで花梨の好きなストロベリーパフェと、柊花はカフェオレを注文した。いつもはブラックコーヒーを好んで注文するのだが、今はゆっくりと甘いものを飲んで気持ちを落ち着かせようと考えた。パフェが運ばれてくると、花梨は嬉しそうにトッピングのイチゴを手で掴んで食べた。そして上手にスプーンを使って、綺麗にパフェを平らげた。
柊花はカフェを後にすると、今度は駅の改札口へ向かった。夕暮れの帰宅ラッシュ。横浜の実家に帰ろうかとも思ったが、人の波に圧倒されて安易な考えも吹き飛んでしまった。
「行先も決めないでウロウロしてたんじゃ、みっともないわね」
あの家に帰るほかないと思った。そのとき、柊花の携帯電話が鳴った。確認すると『お義母さん』と表示され、柊花の怒りは再燃した。家を飛び出したことを謝らせたいのだと察したからだ。気持ちの整理がついていない今、柊花は無視をすることで平常心を保とうとした。しかし、柊花の心は疲れ切っていた。バス停に戻る足を止め、携帯電話をバッグにしまった……そのとき、花梨の姿がないことに気が付いた。
「花梨?」
周囲を見渡しても、花梨を見つけることが出来なかった―。
「パパ~!」
そう呼ばれ、男は半信半疑で振り返った。やはり、足元には見知らぬ女の子の姿があった。その女の子は人違いに気が付くと、途端に顔を曇らせた。
「パパと同じ袋だったから……」
それだけ言うと、キョロキョロと辺りを見渡した。
「パパと、来たの?」
男はしゃがんで女の子と視線を合わせた。
「ううん、ママと。これ、パパとおなじだったから」
花梨は男が手にしている和樹の会社の紙袋を指差した。
「これ? パパはこの会社で働いているのかな?」
「うん……」
柊花は花梨を探して商店街にやってきた。花梨の好きな本屋やおもちゃ屋を覗いたが、一向に見つからなかった。あのとき、静香から電話さえなければ……。自分の落ち度とはわかっていたが、静香を恨まずにはいられなかった。
そのとき、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。花梨の好きな『エリーゼのために』だ。
「ママだ! きっとママだよ」
花梨は柊花が演奏していると思い込んでしまったが、実際は楽器店のショーウィンドウに置いてあるデジタルピアノの自動演奏だった。
「ママじゃない!」
花梨はショーウィンドウに張り付いて、無人のピアノを見つめていた。男ははもう一度花梨の隣にしゃがみ込むと、
「連絡してみるよ。名前、言えるかな?」
と、優しく問いかけた。そのとき花梨を呼ぶ声が聞こえ、振り返ると柊花の姿があった。
「ママ!」
花梨は緊張の糸が切れたのか、柊花に抱きつき大泣きした―。
「一之瀬……さん?」
それは、以前柊花が勤めていた総合病院の内科医・麻生利久 (あそうりく)の姿だった。