ダ・カーポ
この日、柊花はリビングに置いてあるアップライトピアノを弾いていた。子供の頃にピアノ教室に通っていたので、そのときに習っていた曲なら今でもスラスラと弾くことが出来た。花梨もピアノの音色が好きで、柊花から教わることを楽しみにしていた。
花梨は『エリーゼのために』がお気に入りだった。柊花は序盤ならば楽譜を見ずに弾けるのだが、中盤からはうろ覚えだった。そのため、あたらしく楽譜を購入して、こうして静香の留守を利用して練習している。このピアノは美和が生まれてすぐに中古で購入したのだが、美和には興味がなかったようで調律も1度しか行っていないらしい。鍵盤を押しても音が出ない箇所もあり、修理もされずにリビングで飾り棚と化していた。
静香は「こんなボロでよければ、自由に使って」と言ってくれたのだが、実際に柊花がピアノを弾くと「近所迷惑になるわね」と言い放ち、以前に増してピアノの上に物を置くようになってしまったのだった。美和が「ピアノを弾くと、ボケ防止になるらしいよ」と言ったことも、静香のピアノ嫌いに拍車をかけたようだ。このピアノで花梨と連弾することは柊花の夢でもあったが、それすらもままならないようだ。
しばらくすると、友人と着物の展示会に出掛けているはずの静香から電話があった。
「あんた、身長いくつだっけ?」
唐突な質問に事の真意を確かめると『訪問着を買ってくれる』らしい。しかし、柊花は着物は好きでもなければ、着る機会など見当もつかないほど。丁重にお断りをして、静かに受話器を置いた。
リビングで花梨とおやつを食べていると玄関のドアが開く音がして、静香が大声で柊花を呼びつけた。すると、そこには大荷物を抱えたタクシーの運転士さんがいた。柊花は荷物を受け取ると、頭を下げてお礼を言った。
「やっぱり買ったのよ。あんた、いらないって言ったけど」
和室に運び込むと、静香は嬉しそうに着物の入った箱を開けた。花梨も静香の隣にチョコンと座り、目を輝かせている。
「ほら、ちょっと羽織ってみなさい」
柊花は静香に言われるがまま着物に袖を通した。
「この色は人気らしいのよ。ずっと着られるし……。ほら、花梨の入学式にも」
静香は高価な買い物をして気持ちが高揚しているようだった。和樹が帰宅してからも再度羽織ってお披露目をさせられたが、柊花はニコリともしなかった。
美和も帰宅して、いつものように静香と和樹の三人で食事をしているとき、
「今日の展示会、若旦那のお披露目だったのよ」
静香は興奮冷めやらぬといった状態だったが、和樹と美和は素知らぬ顔で食事を続けた。静香は美容院やフラワーショップなどでイケメンの店員さんに親切にされると、すぐに有頂天になるのだった。
「それで……」
美和は何か言いたげだったが、それ以上言わず口をつぐんだ。
「あんたのお婿さんにどうかと思ってね」
静香は自分のためではなく、美和のために品定めをしたと主張した。しかし大学を卒業して、まだまだ修行の身とゆう若旦那さんが、本当に美和のお相手として相応しいと思っているのだろうか?冗談にもほどがある。
柊花はひとり湯船に浸かると、目を閉じて心を鎮めた。寝る前にキチンとお礼を言おう。しかし、そう考えると同時に、反論したい気持ちが膨れ上がっていた。
柊花が二十歳の頃、父親の会社の経営が思わしくなく生活が苦しい時代があった。それでも、菜月が大学を卒業して銀行に就職していたので、家計を支え、柊花もアルバイトをして協力をしていた。
成人式の直前に父親が「柊花に振袖を買ってあげないとね」と言ってくれたのだが、柊花は「お姉ちゃんの振袖を借りるから大丈夫」と、気丈に答えた。実際、菜月はイヤな顔ひとつせずに快諾し、美容院まで予約をしてくれていた。菜月の振袖はとても素敵で、同級生と並んで撮った写真は大切な1枚となっている。
そんなこともあり、柊花は素直に喜ぶことが出来ずにいたのだった。その後、父親の会社は危機を脱することが出来て、両親は平穏な生活を送っている。しかし、あのときの父親の悲しげな表情が脳裏に焼き付いていた。
和樹が買ってくれたのなら両親も、きっと喜んでくれただろう。それなのに、静香は若旦那さんの気を惹きたいからと着物を一式ポーンと買ったのだ。それならば自分のものを購入すればいい。だけど、そこは『いい姑』を演じたかったのだろう。それがどうしても許せなかった。その手段が、どうしても……。
柊花はいつもより時間をかけて髪を乾かした。そして、大きくため息をついて邪念を払拭すると、リビングでテレビを見ていた静香に、改めて着物のお礼を言った。すると、
「あんたにあげたんだから、あとは好きにしなさい。いらなけりゃ、売ればいいのよ」
柊花はお礼を言ったことを少し後悔した―。