価値観
「私はもう帰るんですけど、これ……良かったら使ってください」
彼女は美術館の入場券を手にしていた。聞けば、一緒に来る予定だった彼氏が急に仕事になったのだとか。
「あ、それなら」
柊花はバッグから財布を取り出そうとすると、その若い女性は
「いえ、お金はいりません。本当に……」
そう言って首を横に降った。
「チケットを無駄にする方がもったいないし」
彼女のご厚意に甘えることにした柊花は、チケットを受け取ると、
「それじゃ、お言葉に甘えて。本当にありがとうございます」
柊花は深々と頭を下げた。すると、
「こちらこそ突然にすみません! でも、よかった。どの人に声をかけようか悩んでいたんです~」
と、人懐っこい笑顔を見せた―。
最終日とあって館内はとても混雑していた。人混みが苦手な柊花は遠慮がちに、後方からそっと眺めた。華やかな世界。展示物の多くは想像を超える煌びやかな物ばかりだった。
柊花が家に戻ると、すでに明美の姿はなかった。部屋で着替えを済ませキッチンへ行くと、シンクには米粒がこびりついたままの寿司桶が放置されていた。そして、リビングテーブルにはレモンケーキとマカロンの包み紙が散乱していた。
「姉さんが、あんたによろしくって」
静香はテレビを見ながら、あられを食べていた。甘いものを食べたから、塩気のあるものを欲したのだろう。柊花は包み紙を集めながら『花梨の喜ぶ顔が見たかったけど仕方のないこと』と、自分に言い聞かせた。
「冷蔵庫にお土産が入ってるから。お礼、ちゃんと言いなさいよ!」
いつもの口調だったが、柊花は未だ馴染めず眉をひそめた。そのとき、ちょうど明美から電話がかかってきた。柊花は礼儀正しく挨拶をし、お礼を言おうとした……そのとき、静香が受話器を奪い取ってしまった。さすがの柊花も、静香の横柄な態度に嫌気をさしていた……。
『もうすぐ着くから』と菜月から連絡があったので、柊花は先に戻っていた和樹と一緒に玄関へ出ると、すぐにクルマが到着した。花梨は疲れ切ったのだろう、後部座席で爆睡している。隣にいる従姉の結衣 (ゆい)も、静かに寝息をたてている。和樹がクルマに乗り込み花梨を抱き上げたが、一向に目を覚まさずにいた。柊花は菜月から花梨のリュックサックを受け取り、そして義兄の隆一 (りゅういち)にもお礼を言って、菜月家族を見送った。
柊花はキッチンと洗面台を行き来して、片付けに勤しんでいた。すると、静香のケータイが鳴った。その着信音から、電話の相手は美和だとわかっていた。二言三言会話をして電話を切ると、
「あの子、夕飯は外で済ませるって。私も、あんまり欲しくないのよね」
と言った。柊花は『そりゃそうでしょ……』と思ったが、もちろん口に出して言える訳もなかった。
「それなら、俺らも外で食べようか?」
和樹の提案は嬉しく思ったが、花梨が目を覚ましたときに両親が不在なのは心が痛む。それに、柊花も1日外出していたので、家でのんびりと過ごしたかった。
「私、何か作るわ」
柊花は冷蔵庫を開けて適当に食材を取り出した。お腹が空いていたので早急に野菜を刻み、しお焼きそばを作った。そして、頂き物のお吸い物があったので熱湯を注げば出来上がり。
「今日は何してたの?」
和樹がのんびりと聞いてきた。柊花が美術館での出来事を話すと、
「そんな物好きがいるの」
静香は、その女性を鼻で笑って小馬鹿にした。そして、お漬物をつまみ食いすると、再度ソファーに寝そべった。
「すごいな、その子」
和樹はフォローのつもりか、咄嗟にそう言った。柊花は和樹にきつく当たりそうになったが、ちょうどそのとき、目を覚ました花梨が2階から降りて来た。
「ママ!」
花梨は柊花に抱きつくと、寝ぼけた様子で「結衣ちゃんは?」と言った。その言葉で、結衣と過ごした時間が楽しかったことは、容易に想像出来た。帰ったことを告げると、ションボリとしてしまった。
「ご馳走様。よし! パパと風呂に入るか」
和樹は花梨を抱っこすると、脱衣所へ向かった。
「まだ、お湯を貯めてないのよ!」
柊花は慌ててふたりの後を追った。
「大丈夫。貯めながら入るよ」
柊花は『逃げたな』と視線を送って和樹を睨んだ。そして大きくため息をついた。すると和樹は、
「幸せが逃げるぞ~」
と、笑った。柊花は『誰のせいで』と思ったが、自分が神経質なのか?と逆に疑問に思ってしまった。
ダイニングに戻ると、静香がキッチンでゴソゴソと物色をしていた。
「やっぱりお腹が空いたのよね。それ、もう無いの?」
「すみません……。何か作りましょうか?」
「いいわよ。それならカップ麺食べるから」
静香は電気ケトルでお湯を沸かしながら、
「いいわね~。それ、牛肉使ったんでしょ?」
と言った―。