誘惑
夕食を済ませると順番に入浴。静香と美和はテレビを見ながらおしゃべりに夢中になっている。花梨はリビングの隅でお人形の服を着替えさせたり髪をブラシで梳いたりして、おとなしく遊んでくれている。柊花は和樹と花梨とゆっくり話しをしたいところだが後片付けをしながら姑の様子を窺い、お風呂に入る気配を察すると、浴室に急いで高温指し湯のボタンを押す。花梨のためにお湯の温度を低く設定しているからだ。
静香はいつも夫の利夫と入浴していた。そのせいで柊花も和樹と一緒に入浴することを無理強いされていた。そんなことまで干渉されるのかと、同居生活を窮屈に感じるようになっていたが、妊娠が分かった頃から別々に入浴するようになった。和樹が「お風呂くらい、ひとりでのんびり入れよ」と言ってくれたおかげだ―。
そのわりに、静香はカラスの行水の如くサッと済ませる。しかし、お湯がぬるいと機嫌が悪くなるのだ。静香が入浴を済ませると和樹の順番。静香はお風呂上りにスポーツドリンクを飲むことが日課になっていた。そしてフェイスパック。しかし柊花は、なにもリビングでやることもないだろうに……と、冷めた目で見ていた。
柊花は花梨と2階へ上がり、明日の準備などを済ませ花梨を寝かせつける。そして和樹と交代して柊花も入浴を済ませる。美和は深夜までテレビを見たり携帯電話をいじったりと、いつもは気ままに夜を過ごしているのだが、この日は違っていた。
「柊花ちゃん、ちょっと」
美和が自室から顔を出して手招きをしている。柊花はなぜ呼ばれたのか不思議に思いながら部屋へ入ると、美和がパソコンを指さし
「ね、どうやるか教えてよ」
と、不敵な笑みを浮かべた。柊花は忘れていたが、美和の頭にはしっかりと残っていたようだ。
「えっと、それじゃ…」
美和はSNSにも疎いが、パソコンの操作にも不慣れだった。職場でもパソコン入力などは後輩にやらせているらしい。購入した音楽プレーヤーも、使いこなせずにいた。
「まず、プロフィールを入力して」
柊花がそう言うと、
「えっ! そんなことしないといけないの?」
美和が目を丸くした。そして
「けっこう、面倒くさいのね」
ブツブツと文句を言いながらプロフィール入力をしている。柊花は美和の机の上に乱雑と置いてあったファッション雑誌をパラパラとめくり暇を潰した。しばらくしてディスプレーを覗いて驚愕した。
「不特定の人に開示するなら、そこまで個人情報を入力しちゃダメよ。 ここは、東京都だけで……」
まるでエントリーシートのように、しっかりと入力されていたのだ。柊花は慌てて注意を促し、そして一通りの説明を終え、
「あとは、気になるルームがあれば”入室”をクリックね」
すると、美和は
「わかった、わかった」
と意気揚々に、柊花を部屋から追い出した。
柊花が部屋に戻ると、ベッドに寝転がり花梨の絵本を読んでいた和樹が
「これ、懐かしいな」
と言った。
「それ、私も好きだったよ」
絵本を受け取った柊花はサイドテーブルにそっと置くと、和樹のベッドに潜り込んだ。
「―美和、なんだって?」
柊花は一瞬ドキッとした。本当のことを打ち明けようかと思ったが、
「なんでもないのよ」
と答え、静かに目を閉じた。柊花は、この穏やかに流れる時間を、くだらない話で台無しにしたくなかった……。
―柊花は夢を見ていた。病院の玄関で、特進の患者様(院長の友人で、特別待遇の患者)を副院長と見送りをしていた。この日は肌寒く悪寒がしたが、なんとか業務をこなしていた。柊花は深々と頭を下げ走り去るクルマが小さくなるまで見送っていた。副院長が「ふぅ」と一息ついたとき、柊花は安堵した……その瞬間、倒れ込んでしまった。しかし、そこは総合病院。すぐにストレッチャーで運ばれ処置を受けることが出来た。
しばらくすると、副院長が病室にやってきて柊花の様子をみている。目を覚ました柊花に「俺にうつせよ」と顔を近寄せた。柊花は「ダメ」と呟いたが、抵抗することなく副院長と濃厚なキスを交わしたー。
「ママ、ママ?」
花梨の寝ぼけ声で目を覚ました柊花は、ベッドからそっと出ると花梨の傍へ行き、やさしく頭を撫でた。
柊花の見ていた夢は過去に起きた出来事だった。でも、実際には抵抗をして、あんなラブシーンに発展することはなかったのだが。
「私、欲求不満なのかしら」
柊花はため息をついた。
翌日、いつものように柊花が忙しくキッチンを動き回っていると、美和が大きなあくびをしながらやってきて
「あれ、おもしろいね。私、気に入っちゃった」
と言ってウインクをした。柊花は苦笑いするしかなかった―。