波風
家に戻ると、静香がワイドショーを見ながら美和の食べ残したトーストに蜂蜜を塗って食べていた。静香はいつもこうやって美和の食べ残しと、あとは適当につまんで朝食を済ませる。
静香が洗い上がった洗濯物を持って庭に出ると、今度は柊花が洗濯をする。そして、2階の掃除。自分たちの部屋と、美和の部屋に掃除機をかける。美和の部屋など「自分でやればいいのに」と思っていたが、姑からの言いつけを断る訳にはいかなった。そして、美和は遠慮することもなく、整頓されていない部屋を恥じることもなかった。
柊花は静香がこちらを見ていないことを確認して、鎮痛剤を服用した。いつもの片頭痛だ。静香は鎮痛剤の服用を極端に嫌がり、すぐに怪訝な顔をする。しかし、和樹からは我慢しないで薬を飲むようにと勧められていた。ただ、頻繁に服用せざるを得ないようなら、精密検査を受けたほうがいい……とも。幸い、和樹の会社の製品だと、半錠でも効果があった。
静香はヤブ医者よろしく、診断をつけるのが大好きだった。薬の服用にも口を出さずにはいられなかった。柊花はともかく、和樹は製薬会社に勤務しているのだから、知識はある。しかし、テレビで得た情報を披露せずにはいられなかった。そして、なにより配置薬に絶大な信頼を寄せていた。和樹が勤務する会社も、合併や統合で社名が数回変わったが、粗悪品を売りつけるようなことは、もちろんしていない。しかし、何十年も愛用してきた配置薬と、その営業マンへの信頼は、ほぼ信仰に近いものがあった。
静香が庭で草むしりを始めたので、柊花はテレビの電源を切ると、部屋に戻りベッドにゴロンと寝転んだ。和樹が使っているダブルベッドだ。新婚時代は、このベッドで一緒に寝ていたのだが、花梨が生まれてからは和樹だけが寝るようになった。この部屋をリフォームしたときに小上がりを作っていたので、そこに布団を敷いて花梨を寝かせるのだが、柊花が添い寝するようになり、そのまま別々に寝るようになってしまっていた。窓から心地よい風が入ってくる。柊花は静かに目を閉じた……。
しばらくすると、静香の大きな話し声が聞こえてきた。お隣の奥さんと庭の垣根越しにおしゃべりをしているようだ。耳を澄ますと、昨夜のテレビ番組の話で盛り上がっているようだった。
柊花はキッチンへ降りると、冷蔵庫を開いた。あいかわらず、冷蔵庫の中はパンパンだった。夕食は、ほとんど静香が独断で決め、調理をする。しかし、静香はメニューを決めてから買出しに行くので、余った食材が冷蔵庫の中に放置されたままだ。柊花は毎朝、適当な食材を手にすると、レシピ検索サイトでお弁当のおかずになりそうな料理を探して花梨のお弁当を作り、消費に努めた。
静香は品数の多さだけは自慢であったが、レパートリーはお世辞にも多くはなく、ご飯とみそ汁、焼き魚か煮魚、そして煮物・酢の物など。しかし、肉じゃがなどは花梨も喜んで食べるので、そのことで文句を言うつもりはなかったが、納豆3パックに小口ネギとからし・タレとさらに醤油を加えてかき混ぜたものを5等分(以前からその方法で等分するのが日常だった)することだけは苦手だったので、それだけは遠慮させてもらっていた。そのことで度々皮肉を言われるが、そのときは美和が「お母さん、しつこい!」 と反撃してくれたりするので、そこは頼もしくあった。
柊花は冷蔵庫からひじきの煮物を取り出すと、冷やご飯と混ぜ合わせた。そして、フライパンで卵を炒めると、そこへ味が染み込んだ冷やご飯を加えてサラダ油でさっと炒める。小口切りにしたネギを散らして白ごまを振れば美味しいチャーハンの出来上がり。温めなおしたみそ汁にもネギを加えて、本日のランチが完成。そのとき、庭のほうから
「あら、いい香り」
お隣の奥さんの声が聞こえたが、
「どうせフライパンでも焦がしたんでしょ」
静香は冷たく言い放った。
庭仕事から戻った静香は、キッチンで泥のついた手を洗い出した。そして、水で濡らしたカウンタークロスをダイニングテーブルの上へ放り投げた。柊花は手にしていたアルコール除菌シートを急いで隠した。以前、それを使おうとすると静香から「テーブルが傷んだらどうするの? 高かったのに」と一喝されたのだ。
静香はテレビのリモコンを手にすると、いつも見ているバラエティー番組を点けた。その途端、「ガハハ」と大声で笑った。柊花は、
「お口に合えばよろしいのですが」
と、遠慮がちにチャーハンをテーブルに運んだ。すると、
「もったいないわね~、そのままでも美味しいのに」
と嫌みを言われた。柊花は愛想笑いをして、静かにチャーハンを口に運んだ。その間も、静香はテレビを見ながら時折「ガハハ」と笑っていた。
静香は5分で食事を済ませると、湯呑みを持ってリビングのソファーにドカッと座った。この家では、子供がやると注意されるようなことを、平気で姑がやる。静香は食事のときの姿勢も悪く、左手は、いつも膝の上に置いていた。テーブルに肘をつく和樹には「肘!」と怒鳴り声をあげるのだが、自分の姿勢の悪さは気づかないようだ。そして、犬食いをする。それを柊花が注意出来る訳もなく、外食時には「誰にも気づかれませんように…」と祈るしかなかった。
柊花が食事を済ませ、キッチンで後片付けをしていると、
「きょうはエステの日だった!」
と、静香が大騒ぎを始めた。静香は、近所にある小さなエステサロンの常連客だった。静香の部屋は1階の和室。狭いのが苦手なのか(八畳あるので狭いとは思わないが)いつもふすまを開けっ放しで着替えをする。柊花はそれを不思議に思ったが、静香に問うことはなかった―。