トラップ
「この馬鹿が!!」
静香の怒号が響き渡った。花梨は(慣れているのか)気にも留めず、塗り絵に集中していた。
「こんなことになるなんて……」
美和はすっかりうなだれてしまった。
この日美和を訪ねて警視庁の刑事が自宅を訪れていた。静香は花梨を二階へ追いやると、二人の刑事を和室に通した。
「ムラカミシンヤ?」
美和は聞き覚えのない名前に首を傾げていた。柊花がお茶を運んだときのことだった。そして刑事が1枚の写真を見せた。
「あ、この人なら青山さんよ。 青山広登 (あおやまひろと)さん。それが何か?」
「実は……」
青山広登こと村上信也は、数名の女性と交際し多額の現金をだまし取っていたのだ。最初は『給料日前で手持ちがない』と言っては、相手の女性に2、3万円せびっていたらしい。それがだんだんとエスカレートして、現在は実業家を気取り資産運用を名目に大金を集めていたのだ。そして、その男と頻繁に連絡をやり取りしていた美和も、男にお金を渡していなかったか確認に来たのだった。
「私は、別に」
美和は無関係を装っていたが、目は泳ぎ返答は歯切れの悪いものだった。
「本当にお金は渡していませんね?」
年輩の刑事が睨みをきかせた。
「マンションの頭金を……」
「金額はいくらですか?」
「……一千万」
刑事は大きくため息をついた―。
美和は村上信也とネットの掲示板で知り合った。興味本位でメールを送り、男が実業家だと知ると猛アタックをして彼女の座を射止めたのだった。『ハワイで挙式する』だとか『新居は高層マンションのメゾネットタイプにする』などと言っていたが、柊花はただの妄想だと思い相手にしなかった。しかし、美和は本気でその男との甘い生活を夢見ていたのだった。
「だって結婚の約束をしてたの!」
花梨を寝かしつけたそのとき、和樹が帰宅した。静香は怒りを再燃させて美和の失態を包み隠さずぶちまけた。美和は開き直ったのか、ふてぶてしい態度に出た。
「柊花ちゃんが悪いのよ! 柊花ちゃんだってネットで男漁りしてるんだから!」
「まさか」
美和の言葉にすかさず反応したのは和樹だった。柊花も「やってない」と反論したが、静香は「どうりで」とつぶやくと、重い腰を上げ和室に戻った。美和もそれっきり自室に閉じこもってしまい、その夜はリビングの明かりが灯ることもなく、静かに夜が更けた。
「美和のことだけど」
和樹が濡れた髪をタオルで乾かしながら申し訳なさそうに口を開いた。
「かなりショックだと思うんだよ、母さんも。だから、フォロー頼むよ」
柊花は自業自得とも思ったが、お金が戻る可能性も低いらしいし、なにより美和の言葉を真に受けずにいてくれたことに感謝して、不本意ではあったが和樹の願いを受け入れることにした。
しかし、美和は翌日から無断欠勤を続け、そのままペットショップを辞めてしまった。ずぼらな生活を送るようになり、一日中家でゴロゴロとしていた。好きな時間にシャワーを浴び、好きな時間に食事をする。ピザなどのデリバリーを頼んでは柊花に支払いをさせるようになっていた。静香もそのことに気がついていたが、見て見ぬふりをしていた。「大変な思いをしたのだから」と、すっかり過保護な母親に戻っていた。
柊花は利久と会うこともままならなかったが、メールだけは続けていた。しかし、気持ちが晴れることもなく愛想ない返信ばかりになり、利久からも愛想を尽かされたようだった。
「ちょっと買い物に行ってきます」
リビングでテレビを見ていた静香に声をかけると、美和が柊花を呼び止めた。
「これ、お願いね」
そう言って渡されたのは払い込み用紙だった。金額は3万円を超えていた。柊花がお金を要求すると、
「私が一文無しなの知ってるでしょ? ヘンな柊花ちゃん」
柊花は返す言葉が見つからず、その場に立ち尽くしてしまった。すると静香が「いくらなの?」と口を挟んだ。柊花が金額を伝えると、
「いいのよ、そもそも柊花ちゃんのせいなんだから」
美和の逆恨みに柊花は困惑していたが、利久との関係に後ろめたさを感じ、言い返せないでいた。
「それと、あのチョコレートケーキ買ってきてよ。この前、テレビでやってたやつ」
「電車を乗り継いで行くのよ? 花梨のお迎えに間に合わなくなるわ」
「それなら、私が迎えに行くから大丈夫よ。通りに出てお花屋さんのとこだったわよね?」
「そうだけど……」
「じゃ、待ってるね」
柊花は玄関を出ると大きくため息をついた。このままでは良くないと思っていたが、解決する策を見つけられずにいた。柊花に出来ることは、美和が『きちんと着替えて花梨を迎えに行きますように』と祈ることだけだった―。