背徳
「ご馳走様でした」
利久は手を合わせてペコリと頭を下げた。
利久とは月に1、2回会って食事をするようになっていた。この日は平日だったが、利久は休日出勤の振休だったので、柊花は花梨が幼稚園に行っている時間を利用して、利久のマンションを訪れていた。利久はタワーマンションの最上階に住んでいて、部屋は3LDK+S。広々としたLDKは日当たりも良好で、ロボット掃除機が大活躍するのだとか。
「家事を休ませてあげたかったんだけど」
柊花は食材を持ち込み、手料理を振る舞ったのだった。
「いいのよ。利久先生は、いつも外食ばかりでしょ? このくらい……」
柊花が後片付けをしていると、利久はキッチンカウンターに置いてあった手動のコーヒーミルに手を伸ばし、「お礼をしないとね」と言って豆を挽き始めた。
「キッチン、綺麗にしてるのね。あ、いい香り」
「家ではコーヒーを淹れるくらいだから。そうだ、ピアノ弾いてみない?」
柊花は利久のピアノを見て驚いた。それは、ドイツの有名メーカーの高級アップライトピアノだ。柊花は緊張して何度か座り直し、躊躇はしたものの、触れてみたいとゆう衝動を抑えられずに、鍵盤に指を乗せてみた。そして期待通りの音色に、ぎこちないながらも「エリーゼのために」をスローテンポで弾いてみたのだった。すると、利久は柊花の隣の腰を下ろし、柊花をフォローするように見事な音色を奏でたのだった。いつもは花梨に合わせて途切れ途切れの演奏(それでも充分に楽しめる)になるのだが、利久との連弾は格別だった。リビングに立ち込めたコーヒーの香りとピアノの音色に、柊花は現実を忘れ利久との時間に酔いしれた―。
「ピアノ、上手なのね。上手……なんて、失礼よね」
柊花はピアノの上に飾ってあったコンクールのトロフィーを手にして唖然とした。
「ずっと弾いてなかったけど、体が勝手に動くもんだな」
利久はダイニングで冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
「ごめんなさい。コーヒー、冷めちゃったわね」
柊花は慌てて立ち上がると、丁寧に鍵盤蓋を閉めた。ダイニングに戻ると、利久は柊花を抱きしめて「ヤバイ、離したくないかも」とつぶやいた。利久の温もりが心地よくて、柊花も利久の背中に手を回した。
「あんまり独占的だと、嫌われるかな」
柊花が首を横に振ると、利久は柊花に優しくキスをした……。
駅に戻る頃には一定の距離を保ち平然を装った。別れを告げたそのとき大きな声で名前を呼ばれ振り返ると、そこには美和の姿があった。
美和は柊花と利久の関係を興味深々に尋ねたが、柊花は「挨拶をしただけ」と嘘をついた。美和は利久のことをお気に召したようで、一方的に会話を始めてしまった。そして、利久が独身だとわかると、
「それじゃ、私が立候補しようかな」
と、しなを作った。そして、ほとんど強制的に会う約束を取り付けようとしていたが、利久は美和の申し出をきっぱりと断った。このところ、美和はいろんな男性と交流を持ち、すっかり軽薄になっているようだった。
柊花は美和をなだめ他人行儀に挨拶を済ませると、その場を後にした。
「何よ。医者だからって、お高くとまって」
以前どこかで聞いたセリフに、柊花は小さく笑った―。
「ところで柊花ちゃん、今日は何してたの? 図書館に行くって聞いてたんだけど……」
帰りのバスで美和にコッソリと耳打ちをされ、柊花は心臓が跳ね上がりそうになった。
「花梨に新しい靴を買おうと思って、あちこち見て回ってたのよ」
「ふ~~ん。それで、見つかったの?」
「ううん。やっぱり、本人に選ばせた方がいいと思って。サイズも合わせたいし」
柊花は利久と会っていたことを花梨の名前を出して誤摩化したことに、一気に自己嫌悪に陥ってしまった。
「それより柊花ちゃん、貯金っていくらある? いい話があるんだけど」
美和は株がどうの、投資がどうのと話を続けたが、柊花は利久との決別を考え、唇を噛みしめた―。