オアシス
柊花が花梨を抱っこすると、花梨はギュッと柊花の首に腕を回した。迷子になったことが、よほど怖かったのだろう。柊花も優しく、花梨の頭を撫でた。
「ほら、これでも飲めよ。娘さんには……、あれ? 眠っちゃったみたいだね」
利久は缶コーヒーとリンゴジュースを手にしていた。柊花は雑踏を抜け出し、駅ビルの隅にあるベンチに腰をかけていた。
「きっと疲れたのよ。私が予定外に連れ出しちゃったから」
利久は柊花が総合病院で働いているときに研修医として勤務していた。年齢が近いこともあって、週末には飲み会をしたりと交流があった。二人きりで会うことはなかったが、飲みの席ではなぜか気が合い、他愛のない話で盛り上がった。しばらくすると、利久は別の病院へ移動することになり、それからは個人的に連絡を取ることもなかったのだが―。
「それより利久先生はいいの? なにか予定があったんじゃ……」
「このところ、おとなしいもんだよ。今日もこうして新薬の資料を家で読もうかと思っていたくらいさ」
そう言って手にしていた和樹の会社の紙袋を軽く持ち上げた。
利久は看護師や患者さんからも人気のある、いわいるイケメン・ドクター。いつも周りからチヤホヤされていた。父親と、そして兄は外科医。とくに兄の麻生玲央 (あそうれお)は医学部を首席で卒業。腕も確かな名医でもあった。利久が医学部を卒業して研修医になった頃には、玲央はすでに外科医としての地位を確立していた。しかし利久は、兄と比べられることを嫌い、仕事以外は、すべて投げやりになっていた。とくに恋愛に関しては、来るもの拒まずといったスタイルで、いろんな女性と交際していた。しかし、ほとんどの場合、利久のそっけない態度に嫌気を差して、女性が離れていくパターンが多かった。柊花の同僚も、利久との交際に胸をときめかせていたが、一か月も経たないうちに「やっぱり、お坊ちゃまとは合わないのよね」と言い放ち、利久との交際を破たんさせていた。
「それに……」
利久は少しだけ戸惑いをみせた。柊花が「なに?」と声をかけると、
「兄貴が結婚したんだ。そしたら、いろんな女の子と付き合うことにも飽きちゃって。結局、自堕落な生活を送って現実を忘れたかっただけなんだよね」
と言ってはにかみ、頬を赤らめた。
「しかし、一之瀬さんがママとはね。俺もすっかり叔父さんだけど」
そう言って花梨の寝顔を眺めた。
「さてと、どうする? 家に戻るなら送って行こうか?」
利久は実家を出て、駅近くのタワーマンションで生活していた。しかし、柊花は利久の申し出を断り、バスで帰ることを告げた。
「それじゃ、また……、なんて言ったら迷惑かな?」
「まさか」
柊花が利久に連絡先を教えていると、和樹から着信があった。
「旦那からだわ。もしもし……?」
利久は気まずくなって柊花に背を向け、視線を逸らした。
「迎えに来るって」
「そうか……。それはよかった」
「うん」
少しの間、沈黙が続いた。そのとき、利久は柊花の暗い表情に気付いたが、何も言えずにいた。柊花は、利久に再度お礼を言うと、花梨を抱き上げ駅を後にした―。
「どうしたの?」
和樹は運転をしながらルームミラー越しに柊花に視線を送った。いつもは花梨を後部座席のチャイルドシートに座らせ、柊花は助手席に座るのだが、この日は柊花も後部座席に身を沈めた。
「別に。お義母さん、何か言ってた?」
「買い物じゃないか……、って」
柊花は内心『そんな訳ないでしょ』と思ったが、和樹に愚痴ったところで、何の解決にもならないことはわかっていた。家に戻っても遅くなったことを静香に謝り、何事もなかったかのように振る舞った。
その夜、柊花は利久にメールを送った。すると、すぐに返信があった。利久からのメールには音楽ファイルが添付されており、それはドビュッシーの『月の光』だった。柊花の気持ちはすさんでいたが、少しだけ癒された―。