突き放して、壊して
いつもは酷く苦しそうなあの咳が今日はきこえなかった。
きっと、病が治ってきているのだと耳をすませながら思った。
同時に生き絶えたという心配もよぎった。まさか、とは思う。労咳は最後咳が酷くなり、血が喉に詰まって窒息するものではなかったか、と頭の中でぐるぐると色んな考えが回る。
一度、嫌な想像をすると居てもたってもいられなくなり彼の部屋を様子見で訪ねた。
襖をそっと開けると布団があり、背中を撫でようとしたが、そこで彼の姿がないことに気付いた。
布団は既に冷えていてもう長い間いなかったのだとわかった。
あの身体でこの夜の風は悪影響にしかならない。ましてや、長時間ともなると何処かで喀血をしている恐れもある。
血の気がさぁと引き、気が付けば彼を探しに出ていた。
何故、気づかなかったのだろうか、彼の行く場所はどこだろうか、庭にはいなかった。なら、彼はどこに行くだろうか。
頭によぎった一つの場所を思い起こし走った。
案の定、そこには彼の姿があった
「…沖田さん」
自分でも驚くほど冷たく低い声が出た。
私の声に弾かれるように私を見つめた彼。
「近藤さんには言わないで下さいね。」
眉を下げて笑う彼に怒りが募った。
「…死にたいんですか。」
「まさか」
「じゃあ、どうして。どうして、そんな身体で稽古をするんですか⁈安静にして下さいって言ってるじゃないですかっ‼︎」
静かな道場に私の声だけが響いた。
「…ずっと床にいても身体が訛ってしまうだけなんです。だから、こうして素振りでもしないと、治ったときすぐに役にたてませんから。」
「どうしてですか…、もう、もういいじゃないですか、沖田さん。ここを離れましょう?近藤さんだって分かってくれます、だから、沖田さん、私をっ「もう寝ましょう」
私の言葉を遮った声が刺々しくてはっと彼の顔を見た。
彼は、困ったような怒ったようなよく分からない表情をしていた。
そこで、今、自分がいちばん言ってはいけないことを言いかけたのに気付き、私はただ彼の言葉に頷くことしかできなかった。
朝になり、彼を起こすために自室に入る。
蒼白な顔で死んだ様に眠る彼を見て思わず首にそっと手を回していた。
この状況であればいくらの天才剣士といわれる彼の息の根を止める事は容易だろう。
ほんの少し手に力を入れてみた。
彼の白い喉からひゅうという音がした。
また少し力を加えてみた。
彼は眉間に皺を寄せ苦しそうに表情を歪めた。
はっとして手を離すと彼はあの嫌なかわいた咳をした。
ああ、いっそのこと殺してしまえば良かった。
病なんかが彼の命をもっていくことなんてゆるせない。
彼は病なんかで死ぬ男ではないのだ。彼は本物の武士なのだ。
また彼は苦しそうに咳をした。
歪んだ彼の表情を見て、冷たい気持ちになる。
何故、彼は私を選ばなかったのだろうと。
何故、私ではなくあの人を護ることを選んだのだろうと。
彼にとって命なぞ、その程度なのか。彼にとって私など、その程度なのか。
私は懸命に訴えたあの人について行けば死ぬと。
武士としてではなくただの病人となって床で死ぬのだと。
しかし彼は黙っていつものように静かに笑うだけだった。もういっそのこと、こんな面倒な私を突き放してくれたらいいのに。
馬鹿なんですね、あなた。
と、眠る彼に言った。
そっと頬を撫でようと手を伸ばすとそれを遮られた。
起きてらしたんですか。と問うとはい、と彼は微笑を浮かべた。
お食事にしますね、と言ったがなんだかうまく笑えなかった。
そして、彼に食事を与えた。
彼は確実に食が細くなっている。
病が芳しくない証拠だろう。
顔色も悪く、手や足に力が入らないという。乾いた咳を聞く度に馬鹿ですね、と言いたくなる。
あの時、私に従っていればこんな事にはならなかったのに。
それでもと言った彼にここまでついてきた私も私だが。
また眠ると言った彼にそっと微笑みかけた。起きているのも辛いのだろう。
彼は私の手を優しく握った。
力のこもらないその手がまだ温かな体温が寝息がまだ生きたいと動く鼓動が彼の全てが愛おしく思えた。
強く彼の手を握りしめ涙が溢れて溢れた。
手放したくない、失いたくない。多くは望まない。この溢れてくる涙を優しく拭ってくれるような人じゃないことも全て受け入れてここにいる。ただ彼が生きてさえいてくれれば。例え、そこに私がいなくたとしてもだ。
それだけでいい。それだけでいいのだ。
だからお願い、どうか彼を連れていかないで。