3
「マッチポンプなんだ、俺は」
コウスケはそう言って、自嘲染みた笑みとともに、かたり、と黒光りする銃を机の上に置く。
それは、あの強姦者が持っていた銃だった。
「金目のものは根こそぎ盗った」
碌な物は持ってなかったけどな、とコウスケ。
アカリはちらりと横を見た。投げ捨てられたはずの己のバック。どうみても手着かずだ。
「こうして夜な夜な、殺しても誰も文句言わない様なやつを殺して、そう言う奴は大体銃やら電磁ブレードやらを持っているから、それを盗って、適当に売る」
コウスケは笑っていた。寂しげな笑み。瞳は、どうしようもなく深淵。
「君を襲ったあの男のこの銃だって、元は俺が捌いた物かも知れない。この型の銃はよく回っているから」
そう言って、肩を竦めるコウスケ。
罪悪感などを抱いている様には見えなかった。
見えなかったが――
「善意じゃないってのはそう言うことだ。感謝する必要もない。俺の自己中心的な行動に、君はたまたま巻き込まれた。それだけ」
そう言い切ったコウスケを、アカリは目を反らずに見る。
(言い訳しているみたい)
誰に?
アカリに? 自分自身に?
分からない。だが、アカリは漠然とそう思ったのだ。
自身の行動を善性と認めない、そんな、言い訳。
「なら」
アカリは閉められた唇を、ゆっくりと引き剥がした。
少しだけ、声が震えてしまう。
普段あまり感情を出さないアカリの表情は、ほとんど泣きそうなものになっていた。
歪む頬。下がる眉。
アカリ自身、それは自覚していたが、理由は霧めいたベールに包まれていた。見えそうで、見えない。分かりそうで、分からない。
夜毎繰り返される、コウスケの殺人サイクル。
それに偶然巻き込まれた、アカリ。
それならば。
それなら。
「どうして、私を助けたの……?」
鼻に、つんとした冷ややかな刺激が伝わるのが、彼女にも分かった。
空っぽだった感情に。感情のコップに、なみなみと青い涙が注がれていく。
音を立てながら、感情のコップは満たされていく。
やがては入りきらなくなり、その溢れる様を見せつける様に、アカリの両眼から滴が零れた。
「どうして……?」
アカリは、なぜ今自分がこうして涙を流しているか、なんとなくだが分かった様な気がした。
涙が霧を払ったのか、ベールの向こうに隠された自分自身の気持ちを、アカリは見ることができた。
あの時から、今まで。
死への恐怖は、なかった。犯される恐怖もない。
自分の生き死にはどうでもよかった。過程も結果も興味はなかった。
淡々と生きて、何かが起きて、自分は死ぬ。それでよかった。
その気持ちは、変わらないと――そう、アカリは思う。思って、いた。
――生き死なんてどうでもいい?
(ああ)
違う。本当は、本当はどうでもよくなんてなかったのだ。
望んでいた。アカリは、心の奥底で、切望していたのだ。
だがそれは『生』ではなくて、『死』
アカリは死を望んでいた。
自分は何も悪くない、何も責任がない、不慮の死。
死への恐怖はなかったが、それでも、後ろめたさは残っていた。自ら死を選ぶと言う行為を、避ける気持ちが。
誰かに終わらせて、欲しかったのだ。
己の世界を。絶望と狂気が蔓延る、この世界を。
それを、第三者が。自分に関係ない、例えばあの強姦者の様な薬物摂取者や、もしくはオーバーラインが、終を齎してくれるのを、心の何処かで待っていた。
コウスケが言った、『殺しても誰も文句言わない様なやつ』、正しく、それはアカリそのものだ。少なくとも、彼女がそれを望んでいたのだから。
だって、この世界には何もない。空っぽの自分と同じく、ここだって空虚だ。
救いはない。慈悲はない。正義の味方なんて戯言で。
狂人が狂人を殺すこの地区で、果たして何に希望を持てばいいのか。何を生きる糧にすればいいのか。己を何で満たせば良いのか。
分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。
アカリには、何ももかもが、分からなかった。
「私は……生きてたってしょうがないの……どうして……」
ぽつりと漏れる、アカリの言葉と、弱さ。
誰に向けてのものではない。コウスケにも、アカリ自身にも向けてない、弱々しいその呟き。
彼女の震える声は、静寂に満ちた部屋に響き、そこで。
『ゴホッ……ゴホッ! はぁ、はぁ……ゴホッ』
沈む空気を切り裂くような咳と喘ぎが、どこからかアカリの耳に入った。
アカリは驚いた。今まで他の人間がいる気配がなかったからだ。
彼女の左手側に扉がある。閉まっている扉。咳は、そこから聞こえてきた。
「……今のは気にしないでくれ」
何かに堪えるように、コウスケは言った。僅かに表情を歪ませている。
そして、使ってくれ、と部屋の隅に置かれていた小さいタオルを、アカリに手渡す。
彼女は黙ってそれを受け取り、涙を拭った。次の涙は、出てこなかった。
そんな彼女は見ず、コウスケは顔を俯かせて言う。
「妹に……似ているんだ」
「え?」
「君が、俺の妹に」
ちらりと、コウスケは横の扉を見た。
アカリは察した。さっきの咳。妹。
「普段だったら、無視している。君みたいな、その、被害者は。でも、倒れている君の顔を見て、だけど、なんでだろう、そのままにして置けなかったんだ」
顔を動かし、視線がまたアカリとかち合う。
彼女から見て、コウスケの瞳は、やはり底知れず深い闇に覆われている。
「俺にも……君を助けた理由は、よく分からない。ただ、衝動的に、こうして家にまで連れて来てしまった」
「私が、妹さんに、似ている……から?」
「多分」
「多分?」
「ああ、いや、似ているのは、間違いないんだ。でも、なんでそれが君を手当することに繋がるのか……くそっ、俺は、オーバーラインなのに」
それはある種当たり前のことだ。
肉親、知人に似ているから、助ける。
幾ら人を殺し金を得ている者でも、その程度の善性なら、持っていても別におかしくはない。
だけど、コウスケはオーバーラインだ。狂人なのだ。ヒトでもない。
それが、まるで物語のダークヒーローの様に、人を屠りながら、けれど哀れな女性に情けを見せる。
アカリは困惑した。まだ、その様な人間がこの地区に居たのかと。それも、オーバーラインが。
コウスケも、そんな自分に戸惑っているようで、降参するかのように両腕を上げた。
彼は笑っていた。自嘲の笑みだ。
「駄目だな、人外を気取っても、偽悪を騙っても、結局、俺は人間性を捨てられないみたいだ」
コウスケは腕をゆっくりと降ろし、アカリを見つめた。
今日何度目か分からない、視線の交わりが起こる。
相も変わらず、男の瞳は暗闇のままだ。だけど何故だろうか、先程までの威圧感は、アカリはもう覚えなくなっていた。
深く息を吐いて、「どんな理由か知らないし、知るつもりもないけど」と前置きしてから、コウスケは言う。
「出来れば、君に生きていて欲しいと言うのは、俺の我が儘かな?」
「なんで……?」
「分からない、けど、俺は」
「……」
アカリは無言で首を振るった。分からなかったからだ、アカリには、アカリにも。自分がどうしたらいいのか。
その後、コウスケから、俺のことは誰にも言わないでくれと、アカリに告げて――
話は、それで終わった。
アカリはコンクリート製のアパートメントから出た。生温い風が吹き、彼女の頬を撫でた。
先程まで丁寧に畳まれていたズボンの上から、太腿の撃たれた箇所に触れる。
鈍い痛み。だが、問題はない。血も足りていた。
手には愛用のバッグ。中身を見てみたが、やはり何も減ってはいなかった。
後ろ振り向き、見上げる。コウスケの住んでいる部屋は、3階建ての小さなアパートの一室だった。
外観は古く、塗装も剥げている。エントランス前にあるかろうじて機能している街頭が、僅かに夜の帳を照らしていた。
彼女は、コウスケの送りの申し出を断った。襲われたばかりであっても、尚、彼女は断った。
別に、ヤケになった訳じゃなかった。自覚した死への未練は消えてはいないが、彼の同伴を断ったのには、他に理由がある。
先ず、コウスケとアカリの家は、ずっと近い位置にあったこと。数分も歩けば着くだろう。
ここの住所を聞いた時、アカリは改めて驚いたものだ。こんな近所に、オーバーラインが住んでいたなんて。
そして、もう一つ。一人で、落ち着いて考えたいことがあった。
それは、自身の内から顔を出す破滅願望、ではなく。
己を助けたあのオーバーライン、コウスケのことだ。
まだアカリは、コウスケに聞きたいことがあった。
話が途切れてしまい、夜もかなり深けているのでお開きになったが、彼女には知りたいことがあった。気になることが、あったのだ。
彼がオーバーラインになった理由、それはいい。
正規ルートでの覚醒は特定ヒトゲノムの所持と、なにかしらの強い絶望がトリガーになると言う。
強い絶望。聞く必要はない。ここでは、誰しも抱くものだ。
加え、彼の妹。最後まで姿を見せなかった、扉の向こうにいるという、コウスケの妹。
それもまた、いい。明らかに訳ありで、また、明らかに愉快な事情でもない筈だ。
気になったのは、コウスケの在り方と行動だ。
人を殺し、物を漁り、金を得る。
……その必要が何処にある?
彼はオーバーラインだ。それも、かなり高いレベルで正気を保っている様に見える。
そんなダーティーな『仕事』でなくても、処刑機関、ヘイトレッドに所属すればいいだけの話だ。
ヘイトレッドは常に人手不足だと、アカリは聞いている。
彼の実力はヒトである彼女には分からないが、あの安定性は重用されるのではないだろか。
趣味は首を刎ねること、そう揶揄される程動いている『滅殺』が居てもなお、0系列地区の治安は絶望的だ。
ヘイトレッドはここの生命線の一つだ。無論、所属員の扱いもいい。
何故、コウスケはわざわざ大した実りもないであろう、ハイエナの様な行動をしているのだろうか。
何らかの理由でヘイトレッドが嫌だと言うのなら、その気なら『外』に出てもいい。
通常『外』に出るのは不可能だ。
ここで産まれたのなら、ここで死ぬしかない。けれど、オーバーラインなら『検問』を力尽くで突破することも可能だ。
明確な判断能力があるオーバーラインは、0系列地区を飛び出し、『外』に行くのが殆どだ。
わざわざこんな碌な娯楽もない地獄に残るオーバーラインなぞ、快楽殺人鬼か、正常な思考を失ったか、余程の変わり者か、そのどれかである。
ヘイトレッドは三番目で構成されていて、地区に残る一番目と二番目は彼らに直に処理されてしまう。
アカリから見れば、コウスケを当てはめるとすれば、どう考えても三番目だ。
それにしても、彼はよりマトモだ。
そうなれば、彼は滅多にいない、処刑機関ではない正常なオーバーラインと言うことになる。
それは、まだいい。
絶対数は限りなく少ないだろうか、他にもその様なオーバーラインがいることを、アカリは聞いていた。
アカリはともかく『理由』が聞きたかった。
この0系列地区で、この地獄で、孤独に悪鬼を貫く理由が。
それはただの好奇心なのか、興味本位なのか。
若干のぎこちなさが残る脚を動かし、彼女は帰路につく。
アカリは疲れていた。色々なことが有り過ぎた。だけど、何故か無性に、前時代のアニメーションが見たくなった。
いつもの単純な勧善懲悪ものとは違う、哀しい宿命を持つヒーローが闇を駆けるような、そんな普段は見ない話を。何故か。