1(了)
地区03。
灰色に満ちたコンクリートの5階建てビル、その一番上の、一室にて。
がらんどうの空の部屋で、ムライチは掌を広げて指と指の間に無針注射器をぶらつかせながら、陰気に笑った。
「まぁあー、実際なぁー、無駄ばっかりだよな? このビルとかもさぁ。使われていないのにさぁ。バカみてぇにボケっと建っている。必要ないだろうさぁ。こんなとこなんて」
彼はそこで一人の男性へと近づいた。椅子に座っている、中年の男性。
その男の目には恐怖があった。絶望もあった。同時に、諦観もあった。
ムライチは、怯えながらも抵抗をしない男の髪を、空いた手でぐいと掴んだ。男はうめき声一つ上げない。
「必要ないんだよ? 分かる? 知能指数が底値割ってる馬鹿どもに、俺みたいな崇高な考え分かるかな? 分かんねぇだろ? あ? 要らねぇんだ、不要なんだ。ヒトはさ」
男は涙を流した。埃まみれのリノリウムの床にぽたりぽたりと雫が落ちた。
それは辞世の涙だった。終の感情表現だ。そこで、男の主張は終わった。
ムライチは笑った。見せ付けるように注射器を構える。
「かつてない程崇高な行為なんだって。泣く必要はないんだって。あんた、あー、名前しらねぇけど、ほら、まぁいいや」
言いながら、男の首元に、冒涜的な七色の液体が詰まった無針注射を刺す。
プシュッ、と気の抜けた音が室内に僅かに木霊した。
ぐりんと男の瞳が不気味に回転して回転して回転し、止まる。
そこに極彩の瞳があった。男はヒトとして死んだ。
オーバーラインになったのだ。但し、その精神は当然崩壊している。
だらりと男の口から涎が垂れ、先ほど流した涙の跡を穢した。
「あーあい、あいいい、にじ、ごめ、ゆみこ、しょう、あぎぎ、にじっ、とび、か、ぎぎ、とびら……」
念仏のように低く呟く男。虹色の瞳は焦点が合ってない。
意味不明な言語の中にあった固有の名前は、彼の妻と、息子のものだった。
ちなみにその二人は既に死んでいた。ムライチによって殺されていた。
それは肉体的な死と言うよりヒトとしての死だ。つまり、男と同じ道を先に歩まされたのだ。
「暴れ出す前にぃー、早いとこぉー」
歌う様に間延びした声を出して、ムライチは男の首根っこを掴み、持ち上げる。
片手で悠々と男を吊るし、そのまま剥き出しになった窓へと歩いて行った。
「ポイっとぉー。頑張れぇー」
ビルの5階から男を投げた。
無論、男は無事に着地する筈だ。仮にもオーバラインになったのだから。
例え何かしらの損傷を負ったとしても、すぐ回復する。
そうして、その後は適当に誰かを虐殺して回るだろう。先に堕とされた、彼の妻と子の様に。
そこから先は、ムライチには興味がなかった。彼の『役目』はこれだけなのだ。
ムライチは空になった無針注射器を軽く振って、踵を返した。
「次は、君の番だよ」
暗い笑みと共に、ムライチは言い放った。
笑いを向けたその先に、先の男と同じように椅子に座った少女が居た。
まだ幼い、十に満たない歳の少女だ。名をミキと言う。
ミキは泣いていた。声もなく泣いていた。
口は閉じられ、虚ろな表情で丸い瞳から淡々と雫を流している。
ムライチは笑っている。
笑いながら、床に放り投げてあった円柱状の入れ物を手に取り、注射器に液状薬物、アウェイクを注ぎ込んだ。
「正規の覚醒じゃなくてもさぁ、いいじゃん? なんだっていいじゃん? 糞から生まれ変われるんだよ? 嬉しいでしょ? 分かるでしょ?」
幼いミキの双眸から、ただ虚しく涙が溢れ落ちる。
ヘラへラと笑いながら、ムライチは頭を左右に揺らした。
「分かんねぇか。屑だもんな、まだ。でもぉ、大丈夫。俺がぁ、変えてやるから! クスリなし覚醒の! 俺! ほどの! ものじゃ! ないけどぉ、ランクは落ちるけど、それでも今日から君はオーバーラインだ! 俺と同じになれるんだぜ? ん?」
満タンになった注射器にピストンを着けて、ムライチは満足そうに頷いた。
腰を降ろし、ミキと目線を合わせる。少女はただ絶望していた。ムライチの声に、何も応えない。
ムライチは注射器の側面で、ミキの死人の如く蒼褪めた頬を軽く叩いた。
「分かるでしょ? 分かんない? 分かれ」
そう言って、ムライチは立ち上がって両手を高らかに広げ、声を出して笑った。
今まで味わったことのない全能感が、彼を完膚なきまでに満たしていた。
『資格』なき哀れなヒトを、覚醒薬物アウェイクを以て自分と同じ存在にまで高めてやる。それが己の『役目』。
ムライチはオーバーラインになって、そう自覚した。そういう狂い方のオーバーラインだった。
六人。
ムライチを除き、先ほどまでこの部屋に六人の『ヒト』がいた。
先の男とその妻子以外は、全員が他人だった。性別も年齢もそれぞれで、住んでいる地区もバラバラだ。
彼らは特に理由なく、適当にムライチが拉致した人間だった。
いや、もしかするのならば、ムライチの中では、その人選には何か意味があるのかも知れない。
だがそれは、結局は狂人の思考だ。誰にも知る由がない些事にしか過ぎない。
今日、五人が狂人の餌食になった。
アウェイクでヒトとして死に、ただ支離滅裂に破滅するだけの何かに変えさせられた。
そして、ミキが最後の一人だった。もう、彼女は諦めていた。
比較的安全な筈の時間帯(0系列地区では、一定以下の年齢の子供には時間による外出制限がある)での、買い物。その途中に現れた、狂人。
出会った瞬間、何らかの薬物により気絶させられ、目が覚めたら椅子の上。
そして、同じ様な状況にあった幾人が、次々とヒトでなくなり、窓から落とされていく。
突拍子もない理不尽な展開と、悪臭すら漂いかねない猛烈な狂気に、ミキの精神は電源が焼き切れた機械のごとく、もはや反応を示さない。
ただ、自分は終わるのだ、そう無垢な幼子は漠然と思っていた。漠然と絶望していた。
「あんまダラダラしてると嗅ぎつけられるちまうからぁ、そろそろ潮時だ。正しく潮が満ちるかの如く、君は素晴らしいものにぃ――」
ムライチはそこで言葉を切り、素早い動きで無針注射器を地に置いた。
代わりに、その手には闇色の特殊クロム鋼製の大型警棒が握られている。
彼の超過された聴覚は、この神聖なる儀式の場に、何者かが侵入せんとする足音を、微かに捉えていた。
顔から陰気な笑みはなくなり、濁った瞳で部屋の入口を睨みつける。
扉などありはしない形だけの入口から、一人の男が現れた。
中肉中背の、平凡な顔つきの男。
顎から首の下までを深紅のネックウォーマーで覆っており、摩れた黒色のジャケットを羽織っている。
左腰には黒い鞘が伸びていて、そこから同色のグリップが飛び出ていた。
男は、無言で泣く少女と、警棒を構えるムライチを交互に見て、次いで転がる虹色の液体が入った注射器を見た。
「確認。戦闘を開始する」
ぼそりとそう呟いた男は、左腰に装着してある鞘から、刃が黒く光るブレードを抜いた。
その瞳は憎悪に燃えていた。
「あーあーあーあー!」
気が触れたかの如く(言わずもがな元より狂っているが)辺りに唾をまき散らしながら、ムライチは叫んだ。
警棒がない方の手で、突然の闖入者を指差す。
「知っている! 俺は知っているんだぞ。頭が良い俺は、お前のことを、知っているんだ!」
赤いネックウォーマーの男は、騒ぎ喚くムライチに取り合わず、やや体を前傾にした。
男の持つ黒いブレードの刃の部分が、ぶぶぶぶと小さく音を立てて振えだした。
「特徴ない顔! 首に巻いた赤いなんか! バイブレーションブレード! お前!」
ムライチは喚く。その顔には怒りがあった。
男は床を強く蹴り上げた。その瞳には怒りがあった。
接近して、男はムライチの首を目掛け、振動する刃を横薙ぎする。
ムライチは迫る刃に己の警棒を合わせながら、叫ぶ。
「ヘイトレッドのぉ、次点だなっ!」
金属同士がぶつかり合う音が響く。細かく振るえる黒い刃は、しかし警棒の特殊クロム鋼には通じない。
ムライチは犬歯を剥き出しにして嘲笑った。
「はっ、屑どもに尻尾を振る面汚しどもがぁ! 神聖をなんだと思ってるんだぁ、ああ?」
男は無言のまま刃を引いて、即座に下段に構える。そのまま振り上げの斬撃。
ムライチは体を後ろに逸らした。振える黒い刃が眼前を通り過ぎた。
「っとと、次点、次点、へへへ、俺は知っているんだ、お前、はぁっ!」
うすら笑いを浮かべながら、ムライチは右脚を鞭の様にしならせて、男の脚部めがけて蹴りを放つ。
なんの変哲もない普通の蹴りだ。
だが、オーバーラインの異常強化された筋肉により、その蹴りは恐るべき速度を持っている。
しかし男もオーバーライン。ムライチの蹴りを左脚で受け止める。
ムライチはしかし余裕の表情のまま脚を引いた。
即座に警棒を両手で持ち、振り上げる。
それを男の頭を割らんとする勢いで、真下に振り下ろした。
速い。回避不可。
男はブレードを地面と平行に構え、面の部分で一撃を受け止めた。
甲高い悲鳴の様な衝突音が、空の部屋に響いた。
ムライチは両の手に力を込め、体ごと警棒を押し込みに掛かる。
「お前はぁ、ヘイトレッド最弱のオーバーラインなんだろぉ! なぁーにが『次点』だ。『握撃』にも、『騎士』にも、『弔辞』にも劣るんだろ、お前ぇー!」
更に強く押し込む。押し込む。押し込む。
埒外の筋力を以て、警棒を強引に沈ませる。
未だ受け止める男の体勢が、微かに揺らいだ。
「へ、へへ。それが、それがあの滅殺の次ぃー? 次点だってぇ? なんだってぇ? チョーシ乗ってんなぁ。おい、チョーシ乗ってんだろぉ!」
勝ちを確信したムライチは、全身の力を己の両腕に注ぎ込んだ。
更に沈む警棒。更に沈む男の体勢。更に深まる余裕。
何れヘイトレッドをも始末するつもりだったムライチは、舞い込んだ金星に、あるいは自ずと火に入る目の前の害虫に、ただ、哂った。
男は物言わず、すっと力を抜いた。
滑らかな動きで、警棒と接していた角度をずらす。
ムライチは笑っている。
まるで水が流れる様に、するりと警棒が斜めに動き、何もない空間を叩いた。
ムライチは笑っている。
男は振動剣を斜めに振り抜いた。
ムライチは己の発言に夢中で何もかにも気づけない。
「俺は知っているんだぞ。お前は、ちょっとオーバーラインの時期が長いだけで、実力は大したこと」
ムライチの右腕が、肩から切り飛ばされた。
「大したこと、あれ?」
鮮血が舞い、くるりと腕が回って、落ちた。からん、と虚しく警棒が床を打ち付けた。
笑ったままムライチは固まった。がくりと両膝を着いた。痛みからではなく、困惑からの硬直。
何が起きたのか、理解できなかったのだ。
なんで、なんで、なんで?
完全で神聖な自分が、こんな、こんなやつに?
そう思うが、思っただけだった。声にも出せない。
男は振り上げたブレードを構え直す。刃を縦に揃え、上半身を僅かに捻った。突きの構え。
ムライチは茫洋とそれを見上げた。
「大したこと、大したことない。俺は、俺は知っているんだ。俺は、俺は。俺は? え? 俺?」
右の肩から先を亡くしたムライチは、ぶつぶつとうわ言の様にそう繰り返した。
間髪入れず、男はブレードの切先を向けて、引き絞った腕を解き放つ。
ムライチは咄嗟に立ち上がる事で、頭部狙いの一撃必殺を避けることが出来た。
だがそれは、あくまで頭への突きの回避、だ。それは回避の意味を成さず、また得物を失った今、防御も出来ない。
振動する黒刃の刺突が、ムライチの胸部を捉えていた。
「あえ、あれれれれれれれ」
振動する刃が肉を抉ってぶちりと筋繊維を喰らい、がりがりと容赦なく骨を削った。
剣を抜く。体から迸る血流が床を汚し、返り血が男の顔を紅に染める。
ムライチの口はぽかんと開けたままになった。
今になって、なくなった腕の切断面から飛び出た肉がうねうねと蠢いた。蠢いただけだった。
いくらオーバーラインと言えども、腕丸ごと一本の再生は不可能だ。尤も、そんな心配をする必要は最早ないのだが。
「えっ、ええ、え? あ、え? なんで?」
「俺は確かに弱いが」
そこで初めて、男はムライチに向けて言った。
その声は地獄から響くかの如く、深く、重く、また憎しみに溢れていた。
燃える瞳で、男はムライチを一瞥する。
腰だめに、ブレードを構えた。腰を落とした、振り上げの斬撃。
「少なくともお前には勝てるらしいな」
「まって」
「死ね」
黒の刃は煌めいて。
飛び散る血と共に、ムライチの頭は飛んだ。
埃まみれの床に、うつ伏せの状態で彼の頭が落ちる。
頭部を失ったムライチの体が、ばたりと床に倒れた。
男はブレードの振動機構のスイッチを切り、鞘に収める。
そして、目を瞑った。
残心、とは少し違う、処理が終わった後に彼が行う精神安定行為。
息を吸う。吸う。吸う。吸う。
肺に空気をこれ以上ないくらい貯めてから、男はゆっくりと息を吐いた。
己の中にある憎悪を、狂気という名の毒素を、精神を蝕む前に排除する様に。
自分が高揚しているのが分かった。愉悦を感じているのが分かった。ともすれば、嗤ってしまいそうな程に脳髄を満たす、快楽。
男は僅かに体を震わせて、首元にある赤いネックウォーマーをぐいと動かし、頬についた返り血を拭った。
呑まれなかった。
男はまたいつものように、己にある狂気に打ち勝った。
男は首を動かして、放心状態で椅子に座り込んだままの少女を見る。
外傷はない。また、何かされた様子も見えない。
安堵のため息を、一つ吐く。
オーバーラインは、その『個体』により狂い方が違う。
少なくとも、アレは短絡的な暴力を振るわず、性的衝動がない、もしくは示さない類の個体だったのだろう。
許されない狂気を持っていたが、それだけが救いだった。
男は少女に近づいて、埃目立つ床に、汚れるのを厭わず片膝を着いた。
ミキは何も言わなかった。涙を流しながら、人形の様に動かない。
未だ少女の精神のブレーカーは、多大な負荷により落ちてしまっている。
男はミキの手を取って、己の手を重ねた。
「もう大丈夫だ」
低く、しかし優しい声だった。
ミキはぎこちなく顔を動かして、男の目を見た。
そこに憎しみはなく、慈しみと、少しの悲しみがあった。
男の顔には拭いきれていない返り血が踊っていて、けれど柔和な表情を携えていた。
ミキと男は初対面であったが、男はまるで大切な宝物を扱うようにぎゅっと手を握る。
「怖かったろ……ごめん、ごめんな、俺が、もう少し早く来ていれば……」
その声に、天啓が舞い降りたかのように、ミキの精神に火が点った。
男の暖かい人間性に触れ、狂人に嬲られた少女の心の歯車が、またゆっくりと動き出した。
精神もそうだが、肉体的にも限界だったのだろう、その臨界点を初めて認識したかのように、ミキの体はゆっくりと傾いた。
椅子から離れ倒れる――直前に、その小さな体を男が受け止めた。
右腕で少女を包み、もう一方の手で少女の背を優しく摩った。
「大丈夫、大丈夫だ」
「う、ひっ、う、ううううううううううううううううううううううううううううううう!」
とても形容仕切れない様な、少女の身に溜まった莫大な感情が、今ここで爆発した。
空虚な部屋に少女の嗚咽がただ響き、男は暫し、それを受け止めていた。
「コンバット」
幾分そうしていただろうか、ミキは殆ど気絶するかの様に眠りに就いていた。
今は男の背中で、安らかな寝息を立てている。
少女を背負った状態で、男は極彩色の雲が浮かんでいる窓に向かった。
男は枠だけの窓から外を見下ろした。
そこには頭がない倒れた死体がいくつかあった。近くに生首もあった。動いているのは何もない。
そこで、ぴぴぴと彼の懐から小さい電子音が響く。
掌大の薄い平面状の端末を取り出して、白い外面を軽く指で滑らす。
音もなく出るホログラム。そこには簡潔に『処理完了、数五体。他見当たらず』とだけ表示されていた。
やることを済ませた、滅殺――マリの報告だ。
相も変わらない機械の如き無感情な彼女の挙動に、男は少しだけ首を横に振った。憐れむように。悲しむように。
――実際問題、彼が勝てたのは経験と覚悟のお陰だった。
逆を言えば、それ以外では男はムライチに劣っていた。純粋な戦闘力という点で。
ムライチの慢心を上手く付き、男は勝利を手に納めた。
正規覚醒のオーバーラインが強くなる方法、それは至極簡単だ。
狂気。
それが、彼らを強くする。人間性がヒトから離れる毎に、彼らはより強く、より強固に、より化物になっていく。
ムライチの狂気は、かなり強大なものだった。
覚醒から未だ日が経っていないのも、男の勝利の要因だった。
もう少し後ならば、もう少し狂気に浸らせていたら、少なくとも男にはどうしようもなくなってしまっていただろう。
無論、ただ狂えば良いというものでもない。戦闘訓練を積み戦術を練ることだって、オーバーラインとて必須なのだ。
男は、そういった基礎理論はしっかりとしていた。
けれども、それでも男は、こうして成り立てのオーバーラインに、ともすれば負けかねない。
それは男自身にも問題がある。
彼は、あまりにもマトモだ。他のオーバーラインに比べて。
だから、男は弱い。
狂気が弱いから弱い。
人間性を捨てきれないから。捨てたくないから、弱い。
乾いた絶望の世界で、だけど男は自他の狂気と戦っている。
背中に伝わる小さい鼓動を、守る為に。
「俺は、人間だ」
例えヒトではなくても。
処刑機関、ヘイトレッド、その戦闘員。
オーバーライン、次点のユータ。
彼のその呟きは、誰に届く訳でもなく、がらんどうの部屋を廻って、やがて消えた。