1(了)
地区04。
使われているのかいないのか、全く判別が付かない古ぼけたビルディング。
何も嵌め込まれていない窓。そこから見えるのは只管に殺風景な何もない部屋。
だが人が居る場合がある。浮浪者が寝床にしている場合がある。こうした意味での、『使われている』だ。
テナント等と言う概念は、この地区にはない。
コンクリートの表面は刷れ切っていて、その頼りない灰色は寒々しさを醸し出している。
どこもそうだ。右も見ても。左を見ても。
ここの系列地区でしか見えないような前時代の遺産は、言い様のない閉塞感を生み出していた。
「は、ははははは、やった……やった!」
「ひ、ひひひ! ひっひひひひひ!」
二つのビルの狭い間で熱に浮かされたかの如く笑う二人の少年は、そうした空気が嫌になっていた。
――ここは、糞の溜り場だ。
娯楽は電脳空間か風俗しかなく、毎日毎日下らない作業で時間だけが過ぎていく。
挙句、生命の保障すら、ここにはない。下手をすれば、一秒後には血肉に成り果てる可能性が渦巻いている。
『外』
『外』にさえ、行ければ。
電脳の窓で目にする、あの煌びやかで、豪奢で、とにかく華々しく見える、『外』の世界に行ければ。
二人は、常々そう思っていた。
だから、人を殺した。
殺して、幾らかの金を手に入れた。
『外』に出る為だ。罪悪感など勿論ない。
あるのは清清しい達成感と未来への希望だけだ。
「やった、やったよ、やったよなっ! 俺ら!」
「ああ、ああっ、すげぇよ、俺ら、やっぱすげぇよ!」
息を荒くして、二人は互いに成果を称え合う。
その語彙は貧弱で、単一なものしか口に出ない。
「俺らは、すげぇんだ……こん、こんなところで終わる様な……へへっ」
うわ言の様に、片割れが呟き、もう一人が壊れた機械の様に激しく首を振った。
瞳の焦点は合ってない。口からは無意識に涎が垂れ、所々血が染み付いている地面にぺたりと落ちた。
彼らを満たす、強烈な全能感。
薬物だ。一時的に脳内のリミッターを外す、ドーピング。
彼らは、その薬物と与えられた単分子カッターを持って、小さな工場を襲撃し、金を得たのだ。
四肢が。筋肉が。あるいは周囲の時間でさえも。全てが意のままに操れる、そんな全能が彼らを満たしていた。
覚醒薬物、クロスヴァイン。ここでは意味がないが、当然の様に違法だ。
悪魔の薬『アウェイク』とは違い、安心安全で自我崩壊の心配もない、と二人は聞いている。
「よぉ、やったなお前ら」
路地の裏からのっそりと男が現れた。
二人の少年は顔を輝かせ、その男に小走りに近寄る。見せ付ける様に、金が入ったバックを掲げた。
「クラタさんっ、俺っ、俺らっ、すげっ、へっ、へへ」
「すげぇですよ、俺らっ! やっぱ、こんなところで、俺ら、すげっ!」
「ああ、お前らはすげぇよ。すごい、すごい」
未だ興奮が収まらない少年たちを尻目に、男、クラタの瞳は冷たかった。
灰色のくたびれたジャケットを纏ったクラタは、興味なさ気にバッグを受け取り、素早く金を数えた。
「お疲れさん」
クラタは無感情にそう言い、ジャケットの内側に手を沿え、タバコを取り出そうしたが、今は切らしているのを思い出し、止めた。
だがその手は懐に入ったままだった。
少年二人は、クラタの冷めた様子を見ても、特に何も思わなかった。あるのは狂ったような笑みだけだ。
クラタは彼らの協力者であり、救世主だった。
『外』を夢見て、だけど何も出来ない。
しかし自分たちはこんなところで終わる筈がない、と無根拠にそう思いながら、プレス機とコンベアーを眺めるだけの日々に現れた、神の如き存在。
『俺が、「外」に連れて行ってやる』
それは、彼らが待ち望んだ言葉だった。誰かが光を当ててくるのを、彼らは待っていた。
クラタは彼らに武器と薬を与え、工場襲撃のプランを建てた。
そうして二人は見事にそれを成し遂げたのだった。
「へっへっ、や、やっと、やっとだ! こんなクソみてーな地獄から、オサラバ出来ますねっ! 俺ら三人で!」
二人は無垢で輝かんばかりの笑みで、クラタを見た。
少年たちの目には、どんな未来が映っているのだろうか。
それはきっと、今彼らが浮かべてる笑みと同じくらいに、光り輝いているのだろう。
――それらは何も、意味がない。
「そうだな」
そう言ってクラタは銃を抜くのだった。
少年たちは脳の処理が追いつかず、最後まで笑顔のままだった。
「お前ら二人は、オサラバだ」
裏路地に、銃声。二発で済んだ。
それはあまりにも日常茶飯事過ぎて、表通りにいる誰も気に留めなかった。
強いて言うのなら近寄らない様に距離を取るだけ。
未来を夢見た哀れで愚かな少年は、誰に見られる訳でもなく、路地に浮かぶ汚い染みと化した。
彼らの価値を意味するように。
クラタは盗まれた金が入っているバックを持って、億劫そうに路地から出た。
空を飾る極彩色の雲が、クラタの沈んだ瞳に映った。
疎らにヒトが歩く小さい通りを、気だるそうに歩み始める。
(馬鹿が)
クラタの心中は、それだけだ。愚者への嘲り。あるいは、哀れみ。
(ここを出て何になる? 糞からは糞しか産まれねぇんだよ。『外』に出た汚物に未来はねぇ)
クソみてーな地獄。
少年はそう言った。間違いではない。的を得ている。
だが少年たちは想像力に欠けていた。
その地獄で育った自分を『外』がどう判断するか、考えもしない。
(クロスヴァインも碌にしらねーガキが、外に出てどうすんだっつー話だ)
確かにあの二人の渡した薬は、『アウェイク』よりはマシだ。
しかし程度問題だ。クロスヴァインには依存性がある。強い依存性が。
それだけではない。使い続けれれば、やがては脳を蝕み、骨が溶け、そこらから血が出る。
圧倒的な全能感なんて、刹那にしか過ぎない。
『アウェイク』よりマシ。嘘ではない。あれは直ぐ死ぬことになるが、クロスヴァインは後で死ぬ。
オーバーライン覚醒薬物、アウェイク。誰でもお手軽に『超えられる』、悪魔の薬。
オーバーラインは、最早ヒトではない。
薬物での覚醒者は、特に。壊れているのだ、彼らは。
アウェイクは使用すなわち、死なのだ。
ヒトとしての死。あるいは転生。知能なき怪物への、転化。
だから、どんな覚醒薬物もアウェイクよりマシなのだ。
あれは、最早ただの自殺補助物質なのだから。
リスクなしに都合の良いものは何もない。
薬物の危険性、クラタの目的。外へ出てどうするか、どうなるか。
少年たちは決定的に思慮が浅かった。闇雲に未来を見ていて、現実が見えていなかった。
自分らは他と違う。このゴミ溜まりの様な地区に居るから。外にさえ行ければ。
そうした考えの者は、少なくない。特に、まだ幼い者なら尚更だ。
クラタは、そう言う馬鹿げた思想を持つ若者を食い物にしていた。そもそも、クラタとは彼の数多い偽名の一つに過ぎない。
外へ出るという魅力的な甘言で誘い。
薬物を与え。武器を与え。計画を立てて。
で、浮かれた愚か者を処理する。殺す。金を独り占め。襲撃先もそこまで大手ではない工場だ。高度な追跡技術がないところ。
それは実りも少ないが、リスクも少ない。
実行犯を地面の染みに変えれば、クラタには何の痛手も受けない。
クラタは外に出る気など更々ないし、危険な薬物を己に使用することもない。
汚れた金で女を抱いて、電脳空間で彼の趣味である映画鑑賞に時間を費やし、金が尽きそうになれば、また食い扶持の若者を探す。
彼は、もう何年もそう言った暮らしを続けていた。
ここは、確かに地獄だ。
壊れたオーバーラインが闊歩し、偶に正規ルートでの覚醒したオーバーラインが暴れ、そも、オーバーラインに『なれない』狂人たちも居る。
与えられる仕事は、大体は毎日毎日よくわからない重機の前で達成感のない作業を繰り返すだけ。
電脳空間においても、結局『外』の煌びやかさを見せられるだけで、空しさが募るのみ。
それも、一定以上の『外』の情報はネットワークのセキュリティに弾かれる。ここの住民は、ただ表面を見せられているだけだ。
少年たちの気持ちは、分かる。クラタにでさえも。
ここから出たい、その気持ちは、クラタにも分かる。
しかし、如何に子供だとしても、知っているべきなのだ。考えるべきなのだ。
この地獄で生まれ育った意味を。
ノーフューチャーだ、クラタは笑った。
それは彼の餌になった想像力が欠如した若者への嘲りであり――
「コンバット」
――自らの死を悟った、辞世の笑みだった。
通りに、女が居た。
青のサイバーグラスで瞳を隠し、血の如く鮮烈に赤いジャケットを纏い、手にある光熱に覆われたヒートブレードは絶望の唸りを上げている。
守護天使の降臨に、殺戮人形の稼動に、多少居た通りの人々は早足に去って行く。
気には留めない。関わりはしない。
クラタは足を止めた。どさりと、どこからか音が聞こえた。それはバッグがクラタの手を滑り地に着いた音だった。
薄汚れたコンクリートに囲まれた通りには、今や二人だけ。
(よりによって、こいつかよ)
クラタは笑みを深めた。久しぶりに愉快な気分だった。
終末の地、0系列地区。ここに裁きを下す司法機関はない。
あるのは地区ごとにある自治自警団と……処刑機関だけ。
一定上の罪を犯した場合に来るのは、勿論処刑機関で、その役割は、即死刑、だ。
処刑機関、ヘイトレッド。オーバーラインで構成された、無慈悲な怪物たち。
ヘイトレッドの内、誰が来てもクラタは敵わない。
逃げることも出来ない。クラタはただのヒトだ。
つまり、誰でもいい訳だ。彼を殺すなら。本来なら。
それが、こんなチャチな自分を処理しに来たのが。
よりによって、最高戦力、滅殺のマリだとは。
てっきり、彼女はオーバーラインの処理専門だと思っていたが、そうでもないらしい。
仕事熱心なことで、そう思い、クラタは笑う。
目の前の女、マリは笑わない。
「ヒト相手には、言う事にしている」
マリは凍える声でそう言った。
まるで工場のプレス機が警告音声を発するかの如く、事務的で機械的な声だった。
きぃいいんと赤熱が光る。
「言い残す事は」
クラタは言い逃れなどはしなかった。証拠の提出を求めたりだとか、余計なことはしなかった。
最近、少し派手に動いてしまった。その中には、失敗した『馬鹿共』もいた。
どこからか己の存在が漏れてしまったのだろう。クラタは死を覚悟した。しかしそれは、もうずっと前に済ませていたことだった。
「タバコ、吸わせてくれ」
「一分待つ」
一分で充分に吸えるか、そうクラタは心中で苦笑った。
懐に手を入れた。女はブレードを片手にぶら提げて微動だにしない。タバコは切らしている。右手に冷たい鉄の感触が伝わった。
服の内側で、トリガーに指が掛かる。ここから先の光景を、クラタは鮮明に想像することで出来た。
銃を抜く。撃つ。自分は死ぬ。以上だ。
いや、もしかしたら銃から鉛弾が出ることはないのかもしれない、この距離なら。殺戮人形の速度なら。
クラタは他人事の様にぼんやり思う。
今際にて、クラタは自分でも驚く程に、穏やかな心持だった。
『直ぐ死ぬか、後で死ぬかの違い』
変わらない。自分も、今まで食い物にして来た愚かな若者たちと何も変わらないのだ。
末路は結局これだ。無慈悲な天使が罰を下す。
ノーフューチャー。
未来なんて、どこにもありはしない。
まぁまぁの人生だった。糞の溜り場で、多少の優越感を味わえたのだから。
言い残すことはない。あるいは絶望もない。最後の戯れに、滅殺の技巧を味わうことにしよう。
クラタは銃を抜いた。意味はない。トリガーに添えられた指は、結局動くことはなかった。
息伝いが聞こえる程の距離に、天使がいた。
絶対零度の美しさだった。
クラタは死んだ。