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「くそっ、くそっ、くそっ!」
地区02。
廃棄された電子機器の残骸と、様々なケーブルが犇いているこの地区の路地で、男の悪態が響いた。
古ぼけた電子チップの剥き出しになった金属片が、鈍く光を反射させている。
そんな無意味な情景さえも、男は己を馬鹿にしている様に思えた。
憎しみ篭る目で、電子部品たちの死骸を睨み付けた。
「なんだよ、なんなんだよ」
男は困惑していた。恐れていた。あるいは怒りに燃えていた。
その場で足を振りかぶり、感情をぶつける様に思い切り降ろす。
常人には認識出来ない程の速さで、閃光の様な蹴りが地に落ちていたケーブルを捉えた。
そのケーブルは、高く、廃墟と化したビル郡を追い抜く程高く打ち上げられ、やがては見えなくなった。
男は満足げに頷き、しか即座にまたブツブツと呪詛を吐いた。
――くそ。くそ。あくまめ。なんで。なんでおれが。くそが。
なぜ、どうして。男はただ困惑していた。
自分はこんなにすごいのに。
すごくてつよいのに。
くすりをつかわずに、すごくなれたのに。
どうして、ひとをはちにんころしたていどで、あのあくまが。おれを。
男の精神は、どちらかと言えば、まだ正常な方向にあった。あくまで、どちらかと言えば。
薬物を使用しないで、壁を越えることが出来たから。
だってあのこが。おれを。ひていしたから。あのこが。あのがきが。
絶望の闇。それが、男にラインを超えさせた。身勝手な絶望だが、暗闇に正常な倫理はない。
男は、ラインを超えるのがどれだけ高尚で、どれだけ偉大なのか、理解していた。彼の中では。
正規ルートでのオーバーライン覚醒。
確かにそれは、褒め称える事柄なのかも知れない、時と場合、その後の対応によっては。
薬物使用によるオーバーライン化は、類を漏れず、精神を崩壊させる。
では使用せずにオーバーラインに到達した者の精神はどうなのかと言えば、それは判別が難しい。
結局、狂っているのだ。オーバーラインと言う種類の生物は。
その方向性や狂い方の大小はあれど、狂気に呑まれているのには、何も違いがない。
男の狂気は、間違いなく害悪に傾いていた。
覚醒後、女性五人を強姦(内四人は歳一桁台の女児)、後に全員残らず殺害。追って来た自警団の男性三人も赤子の手を捻るかの如く、殺害。内一人の生首を、見せしめとして地区05の大通りに電磁ナイフを突き刺して放置。
なんの見せしめなのかは、この男にも分かっていない。とにかく見せしめだ。なんらかの。
男が『どちらかと言えば正常』と言える理由は、まだ彼奴がの戦力差が理解出来るからだ。
気分良くふら付き、適当な獲物を探している時に現れた、あの悪魔。
無理だこれ。
男は瞬時に判断した。まだ人間だった時の記憶、噂。更にオーバーラインの超直感。
逃げた。己の全脚力を持って、その場から逃げ出した。
その判断を男は自画自賛した。
俺はすごい。せんりゃくてきてったい。
たしかなはんだんりょく。
だから、おれは、しなない。
――そんなことはなかった。
「コンバット」
背後から声が聞こえた。
女の声だ。冷たく、平坦で、囁く様な声だった。
男は振り向いた。否、振り向こうとした。
だが、出来なかった。
既に男の頭部は体から切り離されてしまったからだ。
くるくると回転する視界で、男は赤く発光する剣を振りぬいた悪魔を捉えた。
ごろん、と割れたメモリーチップや汚れたケーブル郡の上に男の頭部が転がる。
悪魔と目が合った。人形の様に白い肌。顔には青いサイバーグラス。
死へと向かう刹那に、男は口を動かした。無論、声は出なかったが。
――ふいうちとはひきょうな
悪魔――マリは男の頭部を蹴り、廃ビルの壁に叩き付けた。
男は壁の染みになった。
特に意味はない行為だが、『不意打ちでなかったらなんとかなった』と言うニュアンスを含んだ言葉(正確に言えば唇の動き)にイラついたからだ。
彼女は基本的に無感情を装っているが、それは装っているだけだ。
地区05。
「ここまでか」
男は呟いた。
そこに悲壮感はなく、ただある種の達成感があった。
男は二週間前、オーバーラインに覚醒した。
オーバーラインへの到達条件、絶望と恐怖によって。
恋人が、殺された。
それほど見た目が良い訳でも、身なりが良い訳でもなかったが、男は愛していた。互いに愛し合っていた。
よくある、ことだった。ここでは。
覚醒したばかりオーバーライン、狂気に呑まれ、欲望の儘に動く害悪。
それにより、彼の恋人は殺された。
よく聞く、話だった。
男は激しい怒りに苛まされた。深い悲しみにも。
加えて、力なき己に虚無感さえ抱いた。絶望。
男は所謂武芸家に属する人間だった。前時代的な、剣の道を行く武人。
電子技術が過剰発達した今でも尚、そう言った者は少数ながら存在した。
無論、それで飯が食える訳ではない。男の仕事は別にある。賃金の安い肉体労働。
だけど男は満足していた。汗を流し金を得て、求道めいて剣を振るい、恋人と穏やかに過ごす。
それを、無残に引き裂いた、見知らぬ害悪。
絶望の闇。それが、男を覚醒させた。
覚醒後、彼は即座に復讐を誓った。
が、これまた即座に、その覚醒が無駄だと知った。
害悪の処理。守護天使の降臨。
またもや、よくある、ことだった。ありふれた話だった。
それで納得出来るわけは、なかった。
行き場のない怒りが。何もかも無駄になってしまった更なる絶望が。
彼の精神を混沌へと追いやった。
平時より口うるさかった隣人を殺した。
理不尽に権力を翳す上司を殺した。
とくにいみはない。ころしたいからころした。ほかにやることもない。
オーバーラインとはそう言う存在だ。
肉体だけでなく、精神の箍も外す。
リミットがなくなった精神を卸すのは、難しい。
特に、成り立てのオーバーラインなら、それも目標がない『固体』なら尚更だ。
しかし、今になり。
男の精神は、束の間かも知れないが、混沌から抜け出すことが出来ていた。
守護天使。殺戮人形。滅殺。
呼び名は色々あるが、この系列地区を象徴する『彼女』が、彼を処理対象としたのだ。
男は、笑う。
甘んじて、受け入れた。罪も罰も。戦って、受け入れることにした。
嬉しくも思っていた。
かつて、一度だけ、男は『彼女』が地区の害を処理する場面を見たことがあった。
恐るべき、剣の冴え。
最早剣技とは言えないレベルの、圧倒的な実力。
オーバーラインになった今でも、かつて見たあれには適わないと、男は思う。
しかし、今際に。なにもかもなくしてしまった今に。
さいごに、ぶじんとして、おわることが、できるのなら。
男は薄く笑い、手に収めていた電磁ブレードを構えた。
「コンバット」
背後から声が聞こえた。
女の声だ。冷たく、平坦で、囁く様な声だった。
男は振り向くことなく、己の首を狙う女の必殺剣にブレードを合わせた。
女のヒートブレードと、男の電磁ブレードが接触し、スパークが起こる。
鈍く、悲鳴の様な金属音が響き、バチバチと閃光が瞬く。
女のブレードの刀身周り、赤く発光する熱源が、きゅいんと唸りを上げた。
電磁ブレードの表面が僅かに揺らいだ。溶ける。鼻に突き刺す独特の異臭。
(折れるか!)
打ち合うのは拙い、咄嗟に判断し、上半身を引く。
女が持つ得物もそうだが、彼女の斬撃の威力そのものもまた、男の脳内で警鐘を鳴らす切欠になった。
細腕から繰り出されているとは思えない、重機を相手にしているかの如く圧力。
男の鍛えられた下半身が、ずずずと音を立てて後退する。足元の乾いた地面が抉れた。
男は飛び跳ねるように後方へステップを踏み、即座に距離を取った。
再び電磁ブレードを正中に構える。
どんな剣戟にも対応できる様に、相手の動きを想定しながら。
(ここが、死に場所か)
男は笑った。先の一撃は防ぐことが出来たが、そう長くは持たないだろう。感触で分かる。相対して分かる。
しかし、それでも、多少は抗うことは出来る。今まで培った剣技を用いれば。
之まで歩んできた剣の道。せめてそれを出し切り、散ろう。
男はブレードの柄を強く握り締めた。
女は銃を抜いた。
「は?」
50口径マグナムは、間抜けに口を空けた男の顔面を吹き飛ばした。
もう一発。もう一発。更にもう一発。念のためもう一発。
男は死んだ。
辺りに脳漿が散った。製作途中のオブジェの様な頭部から無作為に血を撒き散らして、男は倒れた。
女――マリは銃を腰のホルスターにしまい、右手に持っていたブレードの赤熱を消して、背中の鞘に納めた。
マリは男に剣技の心得があることを知っていた。
そう言う輩は、この手が良く効く。
通常、オーバーラインに銃は利きにくい。
その超常的な身体能力で弾道を見切られてしまい、また中途半端なダメージは即座に回復してしまう。
だが、積極的に剣を交わらそうとする相手には、マリは銃を抜く。
飛び道具への油断。彼女は大体においてブレードで相手を仕留める。それもまたブラフになった。
別段普通に剣を交わしたとしても負ける気はなかった。単にこの方が楽だからだ。
マリが踵を返そうとした時、ふと、顎から上がない男の服の内側から写真が一枚、ひらりと落ちたのを見た。
なんと気なしにマリはその写真を拾った。
男とその恋人が、頬を寄せ合い、幸福そうに笑っている写真。
マリは人形の様な無表情を貫いたまま、写真を破った。
「男同士……」
俗説では、オーバーラインになる(なれる)者は抱えている性癖がずれている者が多いと言う。
風評被害だ、とマリは言いたくなった。
彼女は、幼児への性愛的嗜好を持つのではと周囲に疑われているのを、ひそかに気にしていた。