3
天井の電光が、薄暗く細長い廊下を照らしていた。
全体的に小汚いヘイトレッド本部は、今マリが歩いている廊下もご多分に漏れず埃や染みに満ちている。
マリの足取りは極めて何時も通りだった。
人形のように整った顔は変わらずに無機質で、目を覆うサイバーグラスと同じくただ機械的だ。
「あ、マリさん! お、お久しぶりです!」
長い回廊の途中、一人の女性と出会った。ヘイトレッド非戦闘員の娘だ。
マリにも見覚えがあるが、その名は忘れてしまった。確か、メカニック系統の調整班だったか。
「その、マリさん、せっかくこちらへいらしたんですから、その、ヒートブレードのメンテナンスは……」
「必要ない」
マリは娘の進言を切り捨て、足早に横を通り過ぎた。
にべもないマリの様子に、しかし娘は小走りにマリの背中を追いかけた。
「で、でも! マリさんのヒートブレード、もう大分使い込まれているし、マリさん、普段ご自身で調整されている様ですけど、あの、一度、私に」
「必要ない」
「じ、時間はそこまで掛けないですから……!」
断るマリ。食らいつく娘。
どちらも譲らない二人は、そのままの状態で長い廊下の終焉、出入り口まで到達してしまった。
電子制御された扉が開き、外界が見える。極彩色の雲がまたいつもの様に漂っていた。
マリは姿勢を少しだけ屈めた。跳躍の姿勢。正面の門から出ずに、オーバーライン特有の脚力で、無理やり本部から出ようとしたのだ。
が、止めた。マリが身に着けている赤のジャケットに違和感。
視線を斜めに移す。娘がマリのジャケットを掴み、上目遣いで見ている。その息は荒い。
「はぁ、はぁ……あの、でも、赤熱機構とか、定期的にオーバーホールしないと、あの、いざという時に、その!」
サイバーグラスの向こうで、マリは知れずに眉を潜め目を細めた。
鏡面反射加工により秘匿されたマリの心の内は、娘には伝わらない。
「あ、の…………ひっ!」
マリは何も言わなかった。無言だった。傍から見れば、その様子は普段と何も違わないものだった。
しかし娘は短く悲鳴を出した。顔を恐怖に引き攣らせた。
娘は突如、得たいの知れない強烈な極寒の圧力を感じた。そしてそれらは、無言無表情のマリから出た物だった。
「あ、あの……」
娘の膝が震える。声が震える。ジャケットを掴んだ手は、むしろ放せない。その眦に涙が溜まり始めた。圧迫感。恐怖。
「お、キリカ、ちょっといいー?」
そこで場違いに間延びした声が二人に届いた。
二人の真正面、門の方向からやって来たのは茶髪の少女、ヘイトレッドオーバーライン、握撃のユイ。
一仕事終えたのだろうか、ユイの着ている白い薄手の長袖は所々紅血が踊っている。
「なんだ、マリさんもいるじゃーん。久しぶりー」
「……」
手を上げて友好的に挨拶するユイとは裏腹に、マリは無言で返す。
マリがユイを嫌っている訳ではない。マリ自身、あまり社交的な性格ではないし、それに今は――
茶髪の少女は同色の丸い瞳を瞬かせて、未だ震える娘――キリカに向け、右腕を差出した。
「それよりキリカさー、このリング端末さー、ちょっと調子悪くてさー。見て貰えない?」
「あ、えと」
キリカが言い淀みマリを見る。マリは囁く様に「そっちを見てあげて」と低く言った。
極寒の圧力が消えた。キリカがジャケットから手を放し、震え上がった足は身体を支えることが出来ず地面に尻餅を着いた。
間髪入れずにマリは再び跳躍体勢、ダンと地面を蹴り挙げ、高く宙を飛ぶ。
門を軽々飛び越え、そのまま軽やかに何処へと消えていった。
「相変わらずはえーな、あの人は……」
あっと言う間に視界から姿を消した滅殺に、呆れた様にユイは声を出した。
そして「大丈夫?」と座り込むキリカに手を伸ばし、そのまま胸を揉んだ。
「ひゃっ!?」
「マリさんも大人気ないというか何というか……ヒトにあんな気迫向けるとか」
「ゆ、ユイさん、あの、胸、胸揉まないで下さい……」
「なんで?」
「な、なんでじゃなくて……あ! たんまつ! リング端末直さないと」
「ああ、それね」
そこそこたわわなキリカの胸部を両手で揉みながら、ユイは悪戯気に笑った。
「嘘だよ」
「は……ええ!?」
「別に調子悪くもなんともないよ。ただ、機械調整大好きなアンタと、超絶機嫌悪いマリさんが揉めてるのが見えたから、一番カドが立たない方便を使っただけ」
「いえ私、何も機械いじりしたいだけじゃなくて……ってマリさん機嫌悪かったんですか!? あと、その、胸を……」
驚き目を丸くするキリカに、ユイは「やっぱ分かんないか」と言いながら胸を揉み続ける。
「そりゃもうぷんすかしてたよ。まぁ見た目分かんないだろうけどさー」
「あの、私が怒らせちゃったんでしょうか……」
「いんや、多分関係ないね。誰かと会話したくなかっただけでしょ。一人でいたい、みたいな」
「……何に、怒ってたんでしょうか」
ユイは胸を揉みながらも少しだけ逡巡する様に唸った。
そして、少しだけ真剣な声で言う。
「全てに、かな」
あまりに抽象的で、あまりにも規模がでかいその答えの全貌は、キリカには理解できなかった。
埒外の存在、オーバーライン。
その中でもより強大で、本部に立ち寄ることが少ないマリの思考は、正しく暗黒に隠れている。
「あの、ユイさん、あの、そろそろ胸を揉むのを……」
「なんで?」
「いや、なんでじゃなくて……」
同時に、キリカにはこの少女の嗜好も理解出来なかった。
結局、都合十分近く、キリカはユイに胸を揉まれ続けた。
飛ぶ。飛び跳ねる。
マリは、薄汚れた廃ビル群の上を、時たま屋上に地に足付けながら、まるで虫の様に跳んでいた。
着地の際、足に猛烈な負担が掛かる。高度の跳躍。高速の移動。
ヒトにはとても出来ない、もしくは耐え切れない負担も、彼女には何も問題はない。
ヒトじゃないから。オーバーラインだから。バケモノだから。
しかしそんなマリの心内は、どうしようもなく感傷的で、ヒトじみたイラつきに満ちていた。
何に苛立っている――?
決まっている、自分に、世界に、全てに、だ。
イチローの命令を拒否したのは、あれは彼女の我侭でしかなかった。
マリの言い分、考えにも一理はあるが、長期的な目で見れば素直に『外』に出て仕事をこなす方がよりこの地区の為になる。
戦闘機体、ナイトバーン。
戦力としてはマリの足元にも及ばないだろうが、治安の維持には一役も二役も買うだろう。
物理的な問題で、彼女は同時に何箇所も存在できない。
いかに強大だとしても、いかに強烈だとしても、マリの身は一つで、ヘイトレッドは人手不足だ。
しかし、それでも、なお。
マリはここから出て行かない。出て行きたくない。
――これ以上、何も失いたくないから。
マリは跳ねる。人間的な感傷は捨てたつもりでいた。捨てたかった。
けれど、駄目だった。彼女の目的を全うするには、これら感傷は切れないのだ。
全ての害を、滅殺する。
それが、マリの目的。存在する、理由。
だけど、だけど、だ。
自分の我を通すのが、果たしてどれほどの正当性を生んでいるのか。
マリには分からなかった。分かりたくもなかった。思考を、放棄する。
イチローは人不足にあえでいる。ドラッグに手を出す、ぐらいに。
真に彼の為を思うのなら、マリがすべきなのは我侭を言うことではない筈だ。
けれど。
マリは考えを改めない。
イチローはドラッグを止めない。
もし、もしも。
マリが『あの時のマリ』のままだったら、イチローは言う事を聞いたのだろうか。
確かに輝いていた、あの過去の様に、自分の小言を、彼は聞いたのだろうか。
昔、タバコを抑えろと言った。多少は減った。その時は。
昔、タバコを床に捨てるなと言った。多少は落とさないようになった。その時は。
今や、何もかもが、遅すぎる。遠すぎる。
マリは変わってしまった。どうしようもないほど、彼女は変性してしまった。
マリは、ただ宙を跳ねた。纏わり着く粘着性の苛立ちを、かき消すように。