2(了)
マリは外に出ようと扉を開けた瞬間に、後悔した。
しかし時は既に過ぎた。彼女が迂闊を呪った時、扉は開けきられていて、共同廊下に居た隣の少女、リョウコと目が合ってしまっていた。
外出を決めた際に、彼女が少しだけ逡巡した事柄。
それは、時間。
現在の時間は、この地区の『安全時間』だった。
だから、少しだけ外出を迷った。
――安全時間。
言葉だけを見れば、滑稽極まりない。
この終末地区では、安全なんて何も証明されていないのに。
それは、所詮気休めな言葉で、気休めの時間帯だ。
一定年齢以下の子供が外出を許可される、時間。それが安全時間で、今だった。
大人だろう子供だろうか、ここでは誰も命を保証されていない。
地区の狂気は、正しく狂ったように誰にでも牙を剥く。そうなれば、生命力的な意味合いで、より子供の方がここでは危険だと言える。
だからして、0系列地区では、基本的に子供の外出を由としない。
けれども。
いくら地区の子供たちが、自室で電子端末を用い、電脳空間で最低限の教育を受けているとは言え、ずっと家に閉じ篭りきりなのも如何なものだろうか。
こんな地獄でさえも、ある程度のモラルはある。ちっぽけでも、確かにあるのだ。
だから、地区ごとの自警団が警邏を重点させることで、儚いものではあるが、子供たちが外出出来る時間を作ったのだ。
無論、限度や限界がある。
精神崩壊のオーバーラインや、薬物でアッパーやダウナーに染まったジャンキーに、常識や理屈は通用しない。
そして武装したジャンキーならまだともかく、オーバーライン相手ではヒトである自警団には荷が勝つ。
しかしそれでも、一定の成果はあった。
残酷なる例外、子供たちへの被害は、なくなりはしない。
だけれども、絶望の底であるこの地区ではあるが、精一杯の大人たちの想いが、幼き者を守っているのだ。
特に、マリが住む地区06は子供へと向かう悪意が、ある程度抑えられている地区だった。
だからして、マリが買い物用手提げバッグを持ったリョウコとかち合うのは、予想して然るべきものだった。
今は子供の為の時間帯なのだ。
マリは、なるべくこの少女に会いたくなかった。
オーバーラインであるマリの超過聴力を用いれば、極論、隣人の生活音でさえも詳細に知ることが出来る。
そこまでしなくても、例えば扉を開ける前に集中することで、リョウコとのバッティングを回避することは容易である筈だった。
直前、余計なことを考えていたのが仇になった。マリは戦闘時は非情にシビアな感性を抱くが、それ以外では完全であるとは言えない。
リョウコが嫌いだという訳では決してないのだが……
「おねぇちゃん!」
こうして、瞳をキラキラと輝かせ、自分へと駆け寄る少女を見れば。
「おねぇちゃん、出かけるの? お仕事?」
明らかに憧れの感情。明らかに慕っている表情。
それを、見てしまえば。
思い出してしまう。否応にも
かつての自分を。
鈍くではあったが、確かに輝いていた、あの過去を。
その過去に、ジワジワと腐敗した黒が這い寄るさまを、マリは幻視した。
それを守るために、穢さないように、彼女は人知れず目を閉じた。
サイバーグラスの内にある閉ざされた瞳は、誰にも見られることがない。
それはどれだけ刹那の時間だったのだろうか。
マリの視界が開ければ、リョウコは変わらずに純真な笑みで彼女を見ていた。
「買う物がある」
マリは囁くように言った。声に感情はない。
「あたしも! あたしも買い物! お野菜とー、お肉とー……」
対照的にリョウコは無垢な笑顔を振り向きながら、見せ付けるように手提げバックを高く上げた。
「そう」
短く言って、マリは歩き始めた。
極彩色の雲が覗く四階の廊下で、マリは階段目掛けて歩を進める。
リョウコは、早足でそれに追従した。
「ねぇ、おねぇちゃんはなに買うの?」
「少しね」
答えになってない答え。
突き放すような態度。
黒塗りの鉄の階段が、二人の踏み足でカンカンと音を立てる。
マリの足が早まることはなかった。一定速度のそれは、少女でも追いつけるものだった。
出来ない。マリには、これ以上の冷たさを、少女に対して発揮出来なかった。
その気になれば、マリは直様この外付けされている階段から飛び降り、リョウコを振り払うことが出来る。
それか、適当な理由をでっち上げ、一時的に分かれてしまうのも手だ。
この地区06での商店は一つ。マリの行き先はそこで、リョウコの向かう先もそこだ。
このままでは、この少女と一緒に買い物に行ってしまうはめになる。純真無垢な魂宿るこの少女と、この滅殺が。
だけど。
マリは何一つ、正面から少女を拒否する方法を取れなかった。
せめてリョウコが進んで去っていくのを望んだ。
無駄だった。リョウコはマリの憧れだ。そんな少女が彼女との会話を、自ら逃すわけがなかった。
結局、マリとリョウコは二人並んで地区06の雑多な通りを歩むことになった。
冷たい色の廃ビルに囲まれた通りでは、リョウコと同じような無垢な子供たちがそれぞれ笑っていた。
絶望的な地区に似合わない純粋な笑みだ。先のことを考えていない、分からない、無知から来る笑み。
子供たちはリョウコに声をかけ、次いで隣に歩くマリに目を丸くしながらも、けれど同じく笑いかけた。
マリは、気の利いた返しなど出来る筈もなく、ただ人形の様な頷きでそれを返した。
マリに声を掛けるのは、子供たちだけではなかった。
子供たちを見守る大人たちが、挙ってマリに声を掛けた。
お疲れ様。いつもありがとう。これからもどうか。
保身的な色もあるだろうが、それらの言葉は概ね温かいものだった。
マリは殺戮人形で、守護天使だ。
相反する様な二つの呼び名は、しかし彼女の本質を正しく描いている。
地区を害するものにとっては、人形のごとく冷酷で。
正しく日々を送るヒトにとっては、天使のごとく庇護の象徴だ。
マリは変わらない。彼女は滅殺のオーバーラインで、それは誰に対してもそうだ。
けれど見る人によっては。
彼女は死の比喩にも。正義の希望にも見える。
人が、人々が、子供までも。
誰もがマリを見れば進んで声を掛け、あるいは無邪気に笑いかける。
地区06は、絶望郷の中では比較的安全がある場所だ。
その理由は、マリの存在。
正気を失っていればまだしも、彼女の拠点でわざわざ犯罪行為を起こすものなど居はしない。
例えマリがあちこちの地区へ出向いたりしていても、だ。
彼女がここに住んでいる、という事実が、地区06に対する悪意を縛っているのだ。
マリが通りを歩いていれば、内気な性格なのだろうか、母親と思われる女性の影に隠れている少女を、視界の端に見た。
母親は半ば無理やりに少女を前に出して、マリに挨拶をさせた。マリは少女のか細い呟きに、軽い頷きで返した。
後、心でため息を吐いた。
(またか)
決して顔に出ることはないが、マリは少しうんざりしていた。
彼女が通りを歩くけば、時たま見える光景。
半ば強制的に、親が子をマリの前に出す。
あの母親は、マリに娘の顔を覚えて貰おうとしたのだ。
何のために?
有事の際に助けて貰うためだ。
何の意味が?
意味などない。彼女は平等に殺し平等に見捨てる。少なくとも、マリ自身はそう思っている。
しかし、地区の人々は、親たちは、そうは思っていなかった。
マリは、己に幼児性愛的嗜好があると市井に思われているのを、知っていた。
あいつは子供が好きだ、そう地区の人々は思っていた。
何故そう思われているのか、マリは自身の内に心当たりはなかった。
彼女は、その有らぬ疑いを、オーバーラインの都市伝説的な俗説の所為だと断じた。
マイノリティで、歪んだ性癖。各オーバーラインは、狂的思考は元より性的嗜好もおかしい生物、と言う説だ。
科学的根拠がないその噂は、しかしこの地区の市井にとっては信頼性がある俗説だった。
滅殺のマリ以前に、この0系列地区最強のオーバーラインだった、ヘイトレッド部隊員。
今はもういない、『鮮烈』のアヤカ。
彼女は、それはもう性に奔放な女だった。職務に忠実で、ヒトへの思いやりも持っていたが、何よりも性行為を愛する人間だった。
だから、その後釜的な存在のマリも、何かしらの性の歪みを持っていると思われているのだ。
次いで言えば、序列三位、握撃のユイの存在もそれを後押しした。事実、ユイは確かに歪な性癖を持っているし、それを隠そうともしない。
風評被害だ。マリは言いたくなった。
今更何を言われようと、マリの心には一つも響かない。
首刎機械、殺戮人形、好きに呼べばいい、そう思っている。
だけれど。
その幼児性愛的嗜好は、まるで、子供相手には優しく無害だ、と言われる様は。
マリは受け入れ切れなかった。
自分は大人だろうが子供だろうが女だろうが男だろうが、分け隔てなく、必要性のみを判断材料にして、殺す。
救うつもり守るつもりもない。処理の過程で、勝手に救われればいい、勝手に守られればいい。そんな考え。
ありもしない妄想の希望に縋るのは、止めて欲しかった。
しかし、マリは声を出しそれを否定出来なかった。
一々目くじらを立てるのは、それはそれで『ヒト』の様に見えるのでは――
マリは人知れず心中のみで舌打ちした。見たくないものを脳内で見たように。
道すがらに、マリは横に歩くリョウコをちらりと見る。
薄汚れたワンピースを着た、痩せている少女。
アチコチに跳ねているボサボサの黒髪は、無造作に長く伸びている。
そんなリョウコは、通りのヒトに挨拶をしたり、笑ったり、マリへ無意味に話しかけたりしている。
電脳教育システムでこんなことを教わった、最近は天気が良くて外出出来る、合成肉が安ければいいな。
取り留めもない、そんな話。
マリは碌にリョウコと会話しなかった。少女の言葉に適当に相槌を打ち、流すだけ。
けれど、リョウコの話を聞いていないわけでは、なかった。どう答えていいか分からないだけだ。
ふと、マリは思う。
地区の人々は、滅殺の隣の少女をどう思うのかと。
殺戮人形は、この少女を大事にしている、そう思われているのだろうか、と。
もし、人々にそう問われた場合、彼女は何と答えるだろう。
否定するだろうか。それとも――
唯言えるのは、マリは髪留めを複数個買い、己の用事を済ませた後でも、リョウコの買い物に最後まで付き合ったということ、それだけだ。
店から出て、通りを歩き、アパートメントに着き、階段を上り、部屋の前に到着するまで、マリはずっとリョウコと共にいた。
「おねぇちゃん、ありがとうね!」
別れ際、リョウコは弾けるような笑顔でそう言った。
「……なにが」
「だって、今日、ずっと一緒にいてくれたでしょ? だから、ありがとう!」
「別に、たまたま方向が同じだっただけ」
まるで言い訳しているようだ、マリは自分でもそう思う。
その冷たい囁きに対して、リョウコはけれど明るく笑った。
少女は笑いながら、マリに別れを告げる。
踵を返し、軽やか足取りで彼女の家へと向かった。
マリは、少女の長い黒髪が、小さい背中をばさりと覆っているのを見た。
見てしまった。
「リョウコ」
マリが言った。いつもより一段と小さい、鳥の囀りの様な囁きだった。
しかし、リョウコは振り向いた。大好きなマリが自分の名を呼ぶのを、少女は初めて聞いた。
リョウコは驚いていた。マリもまた、密かに驚いていた。何でこんなことを、と。
「……なぁに?」
少女が首を傾げる。マリはジャケットのポケットから買ったばかりの髪留めが入った袋を取り出した。
その内、一つの輪を取り出す。飾り気のない、形状記憶型の鈍色の髪留め。
マリはリョウコの元へと歩き、しゃがんで少女と目線を合わせた。
リョウコの丸い瞳に、サイバーグラスの青い光沢が映っている。
「じっとしてて」
マリはそう言って、リョウコの体を反転させ、少女の髪を手櫛で梳かした。
「おねぇちゃん……?」
少女の上げる疑問符にマリは答えず、手にある黒髪を纏め上げた。
後ろに詰めて、輪状の髪留めを着ける
リョウコの長い黒髪が、小さい背中で一本、静かに揺れていた。
「わぁ……!」
リョウコは顔を輝かし、己の後ろの様子を見ようと、首を曲げながら、踊るようにその場でくるくると回った。
マリは立ち上がった。
「それ、あげる」
「いいの……?」
「別に。動きにくいでしょ、あのままだと」
「ありがとう!」
少女は高らかに言った。無垢な笑顔が弾けた様だった。
リョウコは自室の扉を開ける寸前、後ろ手一本に動く己の黒髪を見た。
「えへへへ、おねぇちゃんとお揃いだね!」
また礼を言って、少女は扉を閉めた。
マリは、暫し動かず、無機質な汚れた扉を見ていた。
――私は何をしているんだ?
あの少女に、リョウコに、何かを感じたのか?
感じてしまったのか? この滅殺が?
リョウコの心の多感性に、あの純白な鼓動に、何かを見てしまったのだろうか?
疑問が人形の内に沸き出でる。無論、答えなぞ誰も寄越さない。
マリは、数分、まるで本物の人形の様に、その場を停止して動かなかった。
彼女のサイバーグラスに『地区05で薬物覚醒のオーバラインが暴れている』と言う連絡が入るまで、マリはずっと、物言わずその場に居た。
――コンバット。
マリは首を刎ねた。それが己の存在理由だと言わんばかりに、無慈悲に。
何処かで鴉が嗤った。