2(了)
地区07。
「ハァッー、ハアッー……ハァッー」
薄暗い路地裏に、荒い息の男が居た。
左右を高いビルに囲まれた、細い通り。
そこで男は、コンクリートの壁に寄りかかった。
背中に、冷たい感触が伝わる。男はちらりと己の右腕を見た。
ぐじゅぐじゅと蠢く、自分の腕。
抉られた肉が戻る感覚。千切れた筋肉が繋がる感覚。失った血潮が補充されていく感覚。
男は目を瞑り、呻いた。
――回復が、遅い。
男はオーバーラインだ。
正規覚醒のオーバーライン。
しかしそんな超常の生物である筈の男は、無様に息を切らせ、あまつさえ肉体の修復も覚束無い。
当たり前だ。男は、先程からずっと、執拗な攻撃を受け続けているのだ。
オーバーラインは、決して無敵ではない。
確かに、彼らは大凡首を刎られない限り死にはしない(もっと言えば、脳が無事なら即座に肉体が戻る)
だが、そんな生物の域を超えた異常回復能力も、無制限ではないのだ。
分かる。男は感じていた。
一線を超えたことによる超絶的なスタミナ。
それが、多大なダメージによる肉体修復に使用され、ガリガリと削られていく様。
汗が、冷や汗が、脂汗が止まらない。
ヒトを超えた筈なのに、まるでヒトの様に、男の身体は悲鳴を上げていた。
「ハァッー……クソッ、クソッ、クソ……」
悪態を吐くその様でさえも、覇気がない。
何故こうなってしまったのだろうか、男は自問した。
オーバーラインになって、彼が先ず考えたのは『外』に出ることだった。
『外』に出て、この絶望的な地区から抜けて、煌びやかな生活を送る。
それが男の目的だった。
オーバーラインなら、それが出来る。『外』の世界でも、彼らは重宝されていると男は聞き及んでいた。
外に出る為に突破しなければならない検問。
地区09にあるその門を抜けるのは、通常のヒトにでは無理だ。
強固な壁、強固な防衛システム。
時たま脱出せんとするヒトも多いが、先ずそれが成功することはない。
ヒトだからだ。力なき、ただのヒト。
俺は違う、俺はオーバーラインだ、男は自分に言い聞かせる様に呟いた。腕の肉の蠢きは、未だ収まらない。
地区09には、ヘイトレッドの本部がある。
そしてそこは、処刑機関の部隊員であるオーバーラインの棲家でもあった(そこに住んでいない『例外』もいるが)
それは、防衛システムでは手に負えない外に出ようとする野良のオーバーラインを迎撃する為なのだが……効果は薄い。
人手が足りないのだ。0系列地区は地獄の如く治安が悪い。
ヘイトレッド達はいつも馬車馬の如く、本部から離れて処刑を繰り返している。
タイミングさえ間違えなければ、ヘイトレッドとかち合わずに突破することは、それ程難しくはないのだ。
成り立てであるオーバーラインの、この男でさえも。
しかし。
目測を、誤った。
詰まる所、男がこうして呼吸を整えるハメになっているのは、見通しが甘かったからだ。
男は、『外』に出る前、利己的な復讐を行った。
低賃金で、過酷な労働を強いていた、勤め先の金属加工の工場。
堪った鬱憤を、男は晴らしたのだ。工場にいる気に食わなかった上司や同僚を、男は殺めた。
それが不味かった。殺しの快楽に浸ったのが不味かった。
復讐をするのならさっさと済ませれば良かったのだ。
時間を掛け過ぎたのだ、男は。
拷問じみた殺しに愉悦な笑みを浮かべていた男の元に、工場から連絡を受けたヘイトレッドが現れた。
男は逃げた。男は比較的判断力を保っているオーバーラインだった。
戦うことはなかった。負けると分かっていたからだ。男は幾分冷静で、またそのヘイトレッドを知っていた。
くすんだ色の金髪に、靡く赤いマント。鎧の様に体全身を覆った特殊クロム鋼。手にある長い刺突剣。
ヘイトレッド、序列四位。
――騎士のネルク。
気取ったあの若い『騎士』の様子を思い出し、男は苛立ちをぶつける如くにコンクリートの壁を叩いた。
ビシリと罅割れる壁。右腕はもう治っていた。砕かれかけたプライドは、治らない。
逃げたのはいい。だが、逃げ切れなかった。そして、戦って勝てるビジョンも浮かばない。
汗が、止まらない。脳が警鐘を鳴らしている。
『騎士』の動きは遅かった。少なくとも、小一時間、男は死ぬことなく逃げ回ることができた。
『騎士』の剣は速かった。避けきれず体に無数の損傷を受けた。
『騎士』が、男の前に現れた。
男が息を呑んだ。汗がいっそう吹き出るのが分かった。。
「ここまでかね」
整った顔立ちの赤いマントの男、――ネルクは、壁に凭れかけている男にそう言った。
長く細い刺突剣は、彼の手で鈍く光っている。
「私は、他の騎士たちと比べ、あまり脚力に自信がないのだよ。かつて主君の為に戦った時も、私はこの鈍足の所為で――」
ネルクは朗々と語った。緊張感もなく、また意味不明な語りだった。
男は歯噛みした。
(畜生! こんな狂人なんかに!)
自分を棚上げして心中で吐き捨てる男。
だが実際、このネルクと言う男は狂っていた。当たり前のように。
ネルクは狂人だ。
スタンダードな、『思い込む』タイプのオーバーラインだった。
ネルクは、正規覚醒のオーバーライン全員が、かつて中世を駆けた『騎士』の生まれ変わりだと思っている。
騎士の魂が、このディストピアの世界に迷い込み、生まれでたヒトに宿ることで力を授けている、そう思い込んでいる。
そしてその事実を正確に自分だけが理解している――彼はそう思っており、そう狂っていた。
ネルク、と言うのも無論本来の名前ではない。ヒトとして名は既に捨て、彼の中にはない。
世を正す高潔な騎士、ネルク。それが今の彼だ。
この狂い方は、割とマシな方の狂気であった。
思い込むタイプのオーバーラインは、ないものが見え、有るものを否定し、事象を都合よく解釈する。
そのタイプは往々にして、妄想の矛盾点を突かれた時に激昂し取り乱すことが多い。
そう言った場合、自我を保つ為にヒトを殺め、物を破壊し、無理やり矛盾をなくそうとする。
ネルクにはそれがない。
彼には突かれて戸惑う矛盾が存在しない。
科学的にオーバーラインの仕組みが解明されている昨今。
特定の塩基配列を持つのが前提条件の上で、世界全体に広がっている化学物質がその塩基配列に浸透し、そこで絶望感情から出る脳内分泌物質により、オーバーラインは産まれる。
また、その特定塩基配列を持っていなくても、アウェイクと言う薬物補正により、強制覚醒させることも可能だ(その場合、確実に自我が崩壊する)
そういった事実が明るみになっていてもなお、ネルクの主張を論破することは難しい。
証明が出来ないからだ。オーバーラインが中世騎士の生まれ変わりではない、と言う証明。
無論、科学的に、生まれ変わりである、と言う証明も出来ない。ネルクが勝手に言っているだけだ。
悪魔の証明。
悪魔がいないことは、証明できない。だから、悪魔はいる。
そんな言葉遊びめいた、あやふやな理論。
それでも、彼には矛盾がない。
狂ってはいるが、彼の中では、確固たる歪んだ真実が金字塔のごとく輝いてる。
「それにしても、ユイ殿には困ったものだ。幼いながらも騎士の一端なれば、もっとそれらしい風格あって如かるべきだと、私は常々言っているのだが――やれやれ、なまじ実力がある故、彼女は話を聞かない」
ネルクは喋る。意味のない事柄が、絶えず口から飛び出る。
彼は見抜いていたからだ。男に、もう逃げる力がないことに。
だから語る。物事を語り、騎士を語り、真実を語り、男の堕落した魂を救うべく、語りかける。ネルクは狂っているのだ。
男は、やぶれかぶれに拳を構えた。壁から体を引き剥がし、ネルクと真っ向に対峙する。
銃はない。弾切れ。電磁ブレードは折られた。素手で挑むしかない。
それでも一矢報わんと、男はネルクに向け、右腕を振り殴りかかる。
「マリ殿は騎士として文句の付けようがないが、淑女としてはあまりにも血に塗れている。この時勢、仕方ないことではあるが……おお、なんと呪われた世の中であろうか」
騎士はひょいと顔を傾ける。男の拳が虚しく宙を突く。ネルクの語りは止まらない。
男は右足で上段蹴りを放つ。剣のような鋭い蹴り。けれど。
「ユータ殿は人柄は申し分ないが、如何せん自力が足りぬ。惜しむらくは『以前』の騎士として格が低かったのであろう、ままならぬものだ」
当たらない。避けられる。空を切るだけの脚。男の体勢が崩れた。ネルクは所在なく右手の刺突剣をぶら下げながら、しかし何もせず、ただ喋る。
体勢を戻す。男の右拳。当たらない。左のフック。当たらない。前蹴り。紅のマントがはためき、軽く避けられる。
「ユイ殿は論外、ヒロキ殿は感傷的過ぎる。ふむ、だからして――」
ネルクは一度言葉を切った。騎士の黒い瞳が男を捉えた。
男はたじろぎ、拳の動きが止まった。止めさせられた。
ネルクが剣の切先を男に向けた。男は咄嗟に距離を取った。
無駄だった。
「人の話は、きちんと聞きたまえ」
瞬間、ネルクの剣が揺らめいた。
高速の連続刺突。薄暗い路地裏に、肉と骨の割れる音が刹那に六回響いた。
何も言えず、何も出来ず、男の顔に無数の穴が空いた。
眼球抉れ、あちこちから血が溢れ、脳漿を撒き散らしつつ、男は死んだ。
「ふむ」
ぶん、とネルクは長細い剣に付いた血と肉片を振り払った。
整った端正な顔は、一つも揺らぎがない。
「やはり穢れ切った騎士に、話は通じないな」
敵対するオーバーラインには、かつて裏切りや汚職に手を染めた邪悪な『騎士』が宿っている、ネルクはそう考えている。
薬物覚醒、精神崩壊のオーバーラインは、『騎士』の生まれ変わりではない一般人が、退廃的現在技術を使いその真似事をしているだけ、ネルクはそう考えている。
ヘイトレッドの同僚たちは、それなりに評価はできるが、如何せん彼には物足りず――
「私が導かねばなるまいな、この終末地区を。まったく、ここには狂人が多すぎる」
倒れた穴だらけの男を一瞥して、ネルクは呆れた様に薄く笑った。
地区08
赤茶色の土がただ広がる工場の跡地。
草や木、転がる石さえここにはなく、空っぽの大地の上に極彩の雲が浮いている。
女と男が向かい合ってそこにいた。
痩せ細った女の瞳は、虹色。
「あぶ、あぶぶ、に、とびら、鍵。虫が、あか、あかな、に、にぃぃ」
誰にも理解できない言葉が、女の口からぶつぶつと漏れる。
言いながら、女はがむしゃらに腕を振り回した。
細腕から放たれる処刑鎌の様な腕撃が、男の脇腹を抉った。
ガリガリと骨が削れる音が、何もない地に吸い込まれる。
血肉がびちゃびちゃと土に落ち、男の割れた骨が空の下に晒された。
そして、ぎゅるぎゅると歪な音が響いた。
すると、骨も肉も血も何もかも、直様元通りになった。
男の腹部には傷も何もなく、ただ裂かれた服だけが、先ほどの女の腕が当たった証左だった。
「……」
男は無言で、祈る様に目を閉じた。目下に浮かぶ窪んだ隈が殊更に強調される。
男は、それぞれに赤い包帯が巻かれた腕を広げて、大きく胸を張った。
導かれるように、女のデタラメの拳が、男の心臓部分を叩いた。
肉体が弾ける音が響き、消える。
突き刺さった女の拳が男の胸から引き抜かれる。その表面の皮が刺さった骨で傷つき血が流れ、一つうねり治った。
直後、男からぎゅるぎゅると収束音。
男の欠けた骨肉も筋肉も神経も血脈も瞬時に元通りになり、服だけがぽっかりと穴空いている。
「にじが。にじが扉扉扉羽虫虫、あ、なんでなんでななでななんでなんで」
女の口が開かれては、不明瞭な呟きが漏れ、虚しく薄れていく。
男が緩慢に目を開いた。その瞳には、哀しみと憐れみに満ち満ちていた。
「その魂に、救済を」
男は腰に差していたナイフを取り出した。
刃渡り十cm程の、白銀に煌くナイフ。
ちかり、と光が白刃に反射した。男の腕が残像めいて動いた。
ナイフが、女の胸元に刺さった。
「あが、ああい、あああいいいいいいいいいいいいい」
狂った苦しみの喘ぎを上げる女。ぐねぐねと胸元が蠢いて、刺さった刃がぽとりと落ちた。
虹色の瞳が、ぐるぐると回った。
男はまた腰から二本目のナイフを取り出した。
構える。巻かれた真紅の包帯が僅かに解かれて、その先端繊維がバサリと風に舞った。
男のナイフが煌く、その刹那。
女の瞳から、一条の涙が流れた。
「こんどは、もっとしあわせなせかいで」
「……承知」
空気を切り裂いた残響が、赤茶色の地面に沈む。
女の頭部が切り落とされた。
細い首の断面から血が一際出て、頭と同じく、女の身体が地に倒れた。
「……レスト、イン、ピース」
男のその言葉はどこまでも哀しみに溢れていた。彼の瞳と同じように。
一度膝付き、男は両腕の包帯を外した。不健康に白い肌が、煌めいて顕になった。
男は、女の首から絶えず流れる血を指で掬い、自身のそれぞれの腕に文字を書き始めた。
それは理解不明なデタラメな文字で、おどろおどろしく、彼にしか理解できない、女の為の弔だった。彼は狂っていた。
ヘイトレッド、序列五位。
――弔辞のヒロキ。
ヒロキは腕に血文字をなぞりながら、ブツブツと呪文の如き言葉を吐く。
それには何の科学的意味はなく、ただの自己満足だった。
――自己満足。
ヘイトレッドであるヒロキは、利己行動心の塊だ。あくまで彼以外から見れば、だが。
処刑機関に所属している筈の彼は、精神崩壊した危険なオーバーラインでさえも、慈しみを欠かさず接する。
何の意味はないのだ、本来ならば。
無防備に攻撃を受けるのも。
すぐに回復する心臓へのナイフの突き刺しも。
その呪術的な言動も、何もかも。
それは共感出来得ない、謎めいた儀式。
何の根拠もない、自己満足の戯言虚動だ。
だけどヒロキは、これこそがオーバーラインの救済になると、信じて疑っていなかった。
そういう類の狂人だった。
アウェイク使用のオーバーライン。
彼らの自我は崩壊しているが、希に一瞬だけ、正気を取り戻すことがある。
理由や原理は未だ不明だ。解明されてないブラックボックスの一つ。
その瞬間こそが、ヒロキにとっての『救済』の成功だった。
呪われたナニカから救われ、ヒトに戻る。無論、すぐまた精神は混沌に落ちるが、その前にヒロキは首を刎ねる。
救っているのだ。少なくとも、彼の中では。
――ヘイトレッドのオーバーライン。
彼らはそれぞれ、処刑執行の目的が違う。
滅殺は処理。害悪の処理。
次点は守護。地区や人の守護。
握撃は仕事。生活と趣味嗜好を維持する仕事。
騎士は退治。邪悪な『騎士』を認めない退治。
そして弔辞は、ヒロキは、救済だ。
崇高な儀式を経て、堕ちた魂を救済する。
それが己の産まれた意味だと、彼はそう思っていた。狂っていた。
何もない大地に、血風が少しだけ舞った。
意味あり気に吹いたその風は、世界が女の願いを受け入れたかの様に、ヒロキは思えた。彼はそう解釈した。
また赤い包帯を腕に巻き直しながら、ヒロキは救済の完了に、満足気に笑った。