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地区01。
0系列地区でも特に劣悪な環境の地区。
家らしき家などここにはなく、あるのは崩れかけたビルのみ。
鼻が曲がりかねない強烈な臭気が常に満ちていて、ともて人が住める環境ではない。
それでも尚、ヒトはいる。あるいはヒトでなくなったものもいる。
「オラァッ!」
ヒトが死んだ。
死んだのはここに住まう浮浪者の老人で、殺したのは同じく浮浪者の男だった。
殺した方の浮浪者は、目の焦点があっていなかった。薬物の使用者だ。
その男の拳は裂けていた。血に塗れ、皮が破れ、肉が見えている。
男には痛みなどはなかった。あるのは全能感だけだった。
男は、今しがた撲殺した老人の死体を漁り始めた。
金、金がいる。薬物、クロスヴァインを買う、金を。
「くそっ、ろ、ろく、碌なもんもって、へぶっ」
男は死んだ。
銃音が三発響いた。誰かはそれを聞いていたかも知れないが、誰もそれを気に止めなかった。
「素晴らしい……」
銃を撃ったのは壮年の男だった。銃口から硝煙が出ている。
その男性は足を引きずりながら、死んだ男の元へと歩みを進めた。
男性の目の焦点はあっていなかった。薬物の使用者だ。
銃の男は物言わず二つの死体を漁り始めた。
金、金がいる。薬物を買う金が。
薬物、この男が使っているのはダウナー系の新製、ホワイトソーンだ。
クロスヴァインの様な精神的高揚感や、筋肉のドーピング効果はないが、とにかく神経が研ぎ澄まされる薬物だ。
依存性が高く、新しいものだから値もそこそこ張る。
加えて、男は銃の弾も補充しなければならない。
だから金が必要だ。もっと薬がいる。もっと力がいる。
薬を手にして、力を手にして。
そして、その上で。
「ふくっ復讐してやる、俺をクビにした、あいつらに……足が、足がダメでも、俺には、俺にぐげ」
男は死んだ。
「ひっ、虹、ひっひひひ、か、かぎ、かぎぎぎ、かぎ、とびら、扉が羽虫について、にじ」
殺したのは少年だった。
男の背後に素早く近寄り。小さな両手で首を捩じ切って殺した。
少年の瞳は虹色だった。アウェイク使用の、薬物覚醒のオーバーラインだ。
なぜこの少年がアウェイクに手を出したか、なぜこうなってしまったのか。
それはもう誰にも分からない。本人でさえも。
アウェイクは、至極簡単に手に入れることが出来る。
厳密に言えば、商品としての『アウェイク』という薬物は存在しない。
生命維持薬品、健康維持薬品、害液予防薬品、0系列地区で生きる上で必要不可欠な命綱の薬物、それらを特定の割合で調合したものが、アウェイクなのだ。
だから規制が出来ない。アウェイク調合に使う薬品、それの一つでも欠けてしまえば、0系列地区は死に絶えてしまう。
よって、産まれてしまう。この少年の様な、破壊だけを齎す害悪が、今日も産まれてしまう。
「ああ、錠が、かぎ、ぶぅん、ぶぅうん、ひひひ、あしたのくもはなないろで、とびらが」
意味不明な言葉の羅列。
口からは涎が垂れていて、並んだ三つの死体を無視し、少年はふらふらと何処かへと歩み始めた。
「コンバット」
少年は死んだ。
赤いジャケットの女が、神速の踏み込みで背後に接近、即赤熱のブレードを振り抜いた。
熱光が一条の線を引いて、空の下に頭が舞った。振り抜かれた赤い刃が首の断面に溢れる血をじゅうと焼いた。
まだ年若い少年の生首が汚れた地面を転がっていく。
女のサイバーグラスが、何の感慨もなくそれを見ていた。
ヘイトレッド、序列一位。
――滅殺のマリ。
彼女は物言わず、刃を背中の鞘に戻した後、顔を覆うサイバーグラスを触った。ぴこんと電子の起動音
ザザザザザ、とひどく鳴り響くノイズを無視して、マリは『処理』を報告した。
バサリ、と何処からか羽ばたきが聞こえた。マリは上を見上げた。
極彩色の雲が泳いでいる。
それに寄り添うように、巨大な鴉が両翼を広げ、優雅に空を飛んでいた。
マリはグラス越しに、それを睨んだ。
鴉は嗤った。
地区04。
大通り。
薬物覚醒のオーバーラインが、滅茶苦茶に銃を撃っていた。
「ああああああああああああああ! あああああああああ! 鍵が! 鍵かぎとびら! ああっ!」
「くっ!」
赤いネックウォーマーを着けた男が、手に持った黒く揺れるブレードを伸ばし、銃弾を弾く。
男には弾があたっていない。銃弾は、狙い定めず適当に散蒔かれていた。
その男、ユータはちらりと目線を後方へ向けた。そこは弾丸軌道の方向だった。人がいた。
そこに、若い男と女が地面に座っている。
男は息荒く、腹部を手で押さえている。そこから血が垂れている。
女はその男に寄り添い、彼の体を抱きながら、瞳を潤わせていた。
男はオーバーラインに撃たれていた。顔色は、見るからに悪い。
女は無傷だったが、男の元を離れなかった。
二人は兄妹か、友人か、恋人か、夫婦か。
ユータはその二人を、知らない。知り合いでもなんでもなく、彼らとは全くの他人だ。
ユータが守るべき、赤の他人だ。
「鍵、あ、あー?」
カチカチと音がする。壊れたオーバーラインがトリガーを引く音。
弾は、もう出ない。
――勝機。
「ふっ!」
一つ息を吐き、ユータは壊れたオーバーラインの懐へと踏み込む。
腰だめに添えられた刃が、黒き光と共に放たれた。
「あっはぁー! とび、とびとび、あうとあも、にじ!」
壊れたオーバーラインはバックステップを踏んで、横薙ぎの剣を避けた。
そして、人外の動きで即前進、腕を振りかぶり、拳がでたらめな軌道を描く。
ユータは顔面に迫る拳を、顔を横に動かし回避する。
そのまま体ごと一回転。反動を利用し、踊るようにブレードが回った。
一閃、捉える。
「ばばばっ」
壊れたオーバーラインの首が刎られた。
ドバと血が吹き出て、胴体が倒れる。
ユータは息を吐いた。
「ふぅー……ふぅー……」
ブレードの振動をオフにして、腰の鞘に剣を収める。
浴びた返り血を、真紅のネックウォーマーで軽く拭いた。
目を閉じる。心を鎮ませる。息を吸う。息を吐く。血の匂いが届く。無視した。
目を、開ける。
「ありがとう、ございます……!」
男の震えた声が聞こえ、ユータは後ろを振り向いた。
未だ血を流し、顔蒼褪めた男。それに抱きつく女は、さめざめと涙を流している。
「病院へ連れていく。大丈夫だ、傷は浅い」
言いながら、ユータは男に近づいた。
ユータの超過された視覚は、銃弾が肉体を貫通している様を見抜いていた。
「ありがとう、ありがとう……」
「っく、ひっ、うう、ううう……」
譫言の如く礼を告げる男と、嗚咽を流す女。
二人を見ながら、ユータは、撃たれた男を止血するために己の服のインナーを無造作に破った。
ヘイトレッド、序列二位。
――次点のユータ。
その後、ユータは男を背負い、病院へと向かった。
ユータの見た通り、男の傷はそこまで深くはなかった。
後遺症などもない。
即席処置もよかったと、医者は男女とユータに言った。
頻りに礼を言う男と女に、ユータはバツが悪そうに少しだけ笑った。
地区05。
普段なら誰も居ない筈の古ぼけたビル。
そこの三階の一室に、二人の男女が居た。
女は誇りかぶる床にへたり込んでいた。
女は衣服を剥ぎ取られていた。
女は怯えていた。
男は女を見下ろしていた。
男は上半身が裸だった。
男は狂っていた。
男は、オーバーラインだった。
「目を覚ますまで大分待ったぞ。これはお仕置きせねば、な……」
下劣な卑しい笑みを浮かべ、男がそう言った。
「ひっ、ひ……」
女は声を上げた。それだけだった。動けなかった。恐怖が彼女を床に縛り付けていた。
男は最近正規覚醒したオーバーラインだった。
最近、というか、ごく直近だ。
目覚めて、好みの女を見つけて、即座に手刀を放ち気絶させ、このビルへと運んだ。
あまりに短絡的で、刹那的な衝動。
そういう狂い方のオーバーラインだった。
男は、女を犯すつもりだった。だから、誰にも邪魔されない無人のビルへと運んだ。男の自宅は工場の社宅で、他に見られる可能性があるからだ。
そこまで考えられる思考を持っていても尚、男はどうしようもなく狂っていた。
「ふふふ、物言わぬやつと交わっても、つまらぬだけだからな」
鍛えられた筋肉を誇示しながら、男は尊大な口調でそう言った。
そこで。
部屋の扉がない入口から、弾丸のごとく勢い溢れ、小さな影が飛び出した。
その影は埃を巻き上げながら、スライディングの様に体を沈ませながら部屋へと入り込む。
「へろー!」
場違いに明るい声でそう言ったのは、少女だった。
短めの茶色の髪に、同色の瞳。ミドルティーンかそこらの小柄な少女。
薄い白の長袖にジーンズと言う出で立ちの彼女は、上半身裸の男と全裸の女を見て、少しだけ首を傾けて、頬を僅かに曲げた。
「お? 生きてる。ラッキー」
ニヤついた笑みと共に言い放ち、少女は獣のように体を前傾させた。
腕をだらんと下げている。その先の両拳には、真っ赤なグローブが嵌められていた。
男は突然の闖入者を胡乱げに見た。そして、思い至る。
茶色の髪。薄手の長袖。赤いグローブ。
「まさか……」
男は呟いた。
かの少女の特徴には、心当たりがあった。
そしてその言葉が、男の遺言だった。
「どーん!」
少女の体が跳ねた。バネのスプリングが弾ける如く、猛烈な勢いで男に向かい飛んだ。
その唐突な動きに、男は反応できない。
彼が何か動く前に、少女の赤い両手が、がしっとその首を掴んでいた。
そのまま手に力が込められる。
男の太い首に少女の十指が沈み、肉と骨が潰れる音が響いた後、少女は、ぱん、と手を合わせた。
首が破裂して、鮮血が四散した。ごろりと頭部が落ちた。
「おーわり」
少女は右手にあるブレスレッド型の端末に一言告げた。それは処理の報告で、至極いい加減なものだった。
少女の幼い顔は浴びた男の血で赤く染まっていたが、彼女は気にも止めない。
男と同じ、正規覚醒のオーバーラインだからだ。
通常ヒトに備わる倫理観や生理的嫌悪感が崩れ去った、ヒト為らざる生物。
しかし、例え同じ存在だとしても、二人のレベルはあまりにも違う。
覚醒したばかり男とこの少女には絶望的な差があった。その差が、この結果だ。
ヘイトレッド、序列三位。
――握撃のユイ。
戦闘能力だけで言えば、ヘイトレッドにおいてマリに次ぐ強者である。
成立てのオーバーラインでは、敵う筈がないのだ。
ユイは、血が滴るグローブを投げ捨てた。何の変哲もない、ただの革のグローブ。
少女はおもむろに呆然と座る裸の女に近づき、女の胸部をじっと見た。
ユイの喉が、ごくりと鳴った。
「あたしのこと、知ってる?」
しゃがみ、女と目線を合わせながら、ユイはそう問うた。
女は震える声で知っている、と呟いた。
ユイの目が妖しく光った。小さい手がわきわきと動く。
「……今月の給料ぜーんぶ使っちゃってさ、風俗いけてないんだよね、最近。隊長は前借り許してくれないし、誰も金貸してくれないし、マリさんに頼んだら滅せられるだろうし」
いやあの人ぺちゃんこだからそもそも楽しくないか、とユイは誰に言うまでもなく、呟いた。
それ以上、ユイは何も語らなかった。
期待するような瞳で女を見ている。
女はユイを知っていた。無論会ったことはないが、この小柄な少女の性癖、もっと言えば、狂気を知っていた。
女は一般人だ。しかしそれでもここの住人だった。
逞しく、恐れを『知る』人間。取捨選択を正確に判断できる人間。
女はユイの手を見た。視線を動かし、首なしの死体と、埃に汚れた頭を見た。男の首が飛んだのを思い出した。即座に頭を振った。
――大丈夫、大丈夫だ、死ぬことはない筈だし、この子の興味は体の一部にしか行かない。
覚悟を決めた女は、あとで服を持ってきて欲しい、とユイに言った。少女は頷いた。
「どうぞ」
女が腕を広げる。膨らんだ胸がユイの前に突き出された。
「頂きます」
ユイは殊勝に手を合わせてから、両手を女の胸部に添えて揉みしだいた。
無論、力は抜く。加減を間違えれば、女の体は即座に血に塗れるだろう。ユイは、そんなドジは踏まない。
「あー……いいっすわー……へ、へへへへ……」
恍惚な表情で呟くユイ。女は黙って為されるがままになっている。
ついている、そうユイは思った。
女がとっくに死んでいると思っていたからだ。
女が身に着けている、小さいイヤリング。それは電子端末の一種だった。
女は男に襲われ気絶する寸前、その端末で助けを求めていた。
ヘイトレッドに届いたSOSと映像、その手刀の速さから男をオーバーラインと断定。
そしてユイが出動。男は、居場所を絶えず知らせるGPS搭載端末に気付かなかった。
結果、ユイは間に合い、男は死んで、女は助かった。
しかし。
ユイは、女が生きていると思ってはいなかった。こういったパターンの場合、被害者は大体死んでいる。殺されている。
あの男の狂気は、自分と少し似ているのだろう、そうユイは女の胸を揉みながら、ぼんやりと考えた。
――生きているものじゃないと、つまらない。
ユイは指に掛かる柔らかい感触に、目を細めて笑った。