6(了)
ゴロゴロと死を嘲笑うかの如く滑稽な動きで、コウスケの頭部が地面を転がった。
なくなった首の断面から盛大に血が噴出される。
顔を覗かせるように、脊髄がひっそりと飛び出ていた。
ぐらりと膝立ちのままだった彼の体が揺れて、地に倒れた。
「あ、ああああああ……」
かつてない悍ましい情景に、アカリは両手で顔を覆った。
涙は出なかった。悲しみよりも、怒りが先にあった。
かしゃんと音が聞こえた。アカリがその方向を見ると、首を刎ねたマリが、無表情のまま消熱したブレードを鞘に戻していた。
マリは少し歩き、戦闘時に投げ捨てられたマグナム銃を拾った。そのまま腰のホルスターへ入れる。
一連のその動作は、人間味がなく、まるで機械の如く無機質にアカリは思えた。
視線に気づいたのか、白肌に返り血を添えながら、マリはじっとアカリを見た。
アカリは、そんな彼女を憎しみ篭る目で睨みつけた。
「なんで、どうして、どうしてコウスケさんを!」
マリは応えない。代わりにサイバーグラスを弄り、冷たく囁く。
処理完了、と。
あまりに無情。あまりに非情だ。アカリは座り込んだまま、弾劾する如く声を荒げた。
「答えて、答えてよ! コウスケさんは、ただ、ただ妹の為に! それだけの為に!」
頭では、それが理不尽で手前勝手な意見だと、アカリは分かっていた。
所詮彼は人殺しだ。取り繕う余地なく、ヒトを殺すオーバーラインだ。
一切の問い掛けも尋問もなく『処理』とまで言い切るマリに不条理さを感じてはいたが、それでも滅殺は、自分の仕事をしただけ。
当然の帰結なのかも知れない、この結末は。
しかしそれでも。
アカリは言えずにいれらなかった。
残された彼の妹は、ユウナはどうする? コウスケが死んだ今、ユウナは、ただ死を待つしかないのか。
こんな、こんな終わり方が許されるのか。
病気の妹をただ守りたかった、兄。
偽悪に身を染め、力があるにも関わらず、ただ孤独に夜を駆けた、コウスケと言う男。
そんな彼でも、死を齎されなければいけなかったのか。
存在赦されず、処理されなければならなかったのか。
わからない。だからこそ、アカリの心奥に火が灯る。
世界への疑問と疑惑は、彼女の内をぐるぐると回った。。
アカリの心に憎悪の薪がくべられた。点いた火が赤黒く燃焼している。
マリが口を開いた。
「その子は死んだ」
そう簡潔に言った。
アカリは一瞬戸惑い、しかし即座に理解した。
思い出される、コウスケの言葉。
ユウナは社会的に死んだことになっているだろう、もう大分表には出ていない。
つまりユウナの存在を、マリは、ヘイトレッドは、この世界は、知らないのだ。あるいは興味すらないのだと、アカリは結論づけた。
アカリは、コウスケの想いを伝える様に、代弁するように、立ち上がってマリに詰め寄った。
「違う、違う! 彼女は死んでいない! まだ、まだ生きている! 他の誰にも見捨てられても、あの人は、コウスケさんは、諦めなかった! あの子の為に薬を買って、世話をして……それを……それを、あなたは!」
叫ぶ、アカリは叫ぶ。
誰のために? コウスケか? ユウナか? それとも自分のため?
理由なく殺された両親のためか? 理不尽に命を奪われる名も知らぬ誰かのため?
世界への憎悪? 実らなかった淡い恋心?
その内のどれかか。それとも、全てか。
感情が満ちる。溢れる。精神の杯に、泥水のような黒がごぽごぽと注がれた。
憎しみはただ只管に燃え上がる。アカリの瞳も同様に、無情への反抗で燃えている。
アカリのその想いは。
人間性溢れ、哀しみに溢れ。怒りに溢れ。
マリと世界への憎しみに溢れ。ユウナへの憐憫に溢れ。コウスケの思慕へと溢れた、その感情は。
全部、無駄だ。
意味がないのだ。
彼女を待っているのは、絶望だけ。
マリは、一度顔をコウスケの死体へと向けた。
次いで、アカリへと視線を戻す。すっと死体を指さした。
「私があれの妹を殺した」
「……え?」
時が凍りついた様だった。
古い街灯がチカチカと明滅して、消えた。それは二度と灯らなかった。
停止した時間の中で、マリが告げる。
暗闇が笑う、残酷な真実を。
「あれの妹は、薬物覚醒のオーバーラインだった。もう何年も前の話」
だから私が殺した、処理したとマリは言った。
言い切った。
アカリは震えた。先程まであった感情は全て吹き飛んでいた。
恋した男が死んだ悲しみも、殺した女への怒りも消えていた。今あるのは、禍々しい『真実』への困惑と恐怖だった。
「そ、そんな、そんな……」
そんな筈はないと、アカリは言いたかった。
お前は嘘を吐いている、そう叫びたかった。
出来なかった。
陸に打ち上げられた魚の様に、ただパクパクと口だけが動いた。
ユウナ。
コウスケの妹。
病に倒れている、彼の妹。
アカリは、その姿を一度も見ていない。
そこで彼女は、時たま出るユウナの咳と喘ぎ声を思い出した。
思い出してしまった。
定期的な感覚で流れる、寸分たがわず全く同じ咳を、今になってアカリは思い出したのだ。
今までは疑問に思わなかった。コウスケを信じていたからだ。
だが、果たして。
それは信用に足るものだったのか? コウスケは、コウスケは――
あの閉ざされた部屋の向こうに何があるのか。
妹が病気に臥している。そう言ったのは、コウスケだ。
――オーバーラインの、コウスケだ。
「知りたければ、来てもいい。止めはしない」
ざっと踵を返し、マリは後ろ向きのまま、そうアカリに言う。
答えを聞かないまま、マリはアパートの中へと歩みを進めた。
アカリは、何かを願うように追従した。
違う、違うと己に言い聞かせながら。
扉の向こうの、ユウナの部屋。
そこには誰もいなかった。
白いベッドがあった。その上に、手のひら大の四角い機械があった。
『ゴホッ……ゴホッ! はぁ、はぁ……ゴホッ』
機械からいつもの『ユウナ』の喘ぎが流れた。
アカリは膝から崩れ落ちた。
瞳から涙が零れた。
冷たいフローリングの床に、虚しく滴が垂れた。
「昨日、この家でヒトが死んでいる。殺したのは、あれ。殺されたのは、あれの昔の同僚。」
マリは、打ち拉がれるアカリを無視してそう言った。
彼女が言う『あれ』とはコウスケのことだと、はっきりアカリは理解できた。
『あれ』
相応しい呼び方だと、そう思ってしまった。
もう、アカリには何も言えなかった。誰かが死んだ。コウスケが殺した。
それは、最早アカリに何の感情も与えなかった。
そして今日、この家から一際血の匂いがしたことを思い出した。
アカリは、声も出さず泣き続けた。涙と一緒に、コウスケと過ごした短い日々が流れ落ちていくようだった。
遠くから響くように、冷たいマリの声が聞こえる。
「外出時に偶然あれと出会ったその同僚は、幾年前唐突に姿消したあれの生活を案じた。そして、この部屋に招かれた。その後すぐ殺された」
囁く様な平坦な声。
感情無く、事実だけを伝える言葉が、主人亡き部屋に木霊した。
「記録が残っている。その同僚が身に着けていたサイバーグラスが、死の間際にデータを送信していた。顛末の全てを」
マリは語った。情け容赦なく全てを語った。
聞こえる咳。訝しげに問う同僚。
あれは誰だ?
妹のユウナだ、お前も知っているだろう、あいつの具合は良くならなくて……
待て、待ってくれ、コウスケ、あの子は――
同僚はユウナの死に言及した。
コウスケは突如激昂した。唐突に、脈絡なく、狂ったように。狂っていた。
違う違う違う違う違う違う!
生きてる! 生きている! 死んでなんかいない!
ユウナは! 生きているんだ!
同僚は殺された。何の落ち度もなく、首を絞められて殺された。
がむしゃらに助けを求めたのだろう、サイバーグラスによる通信。彼の職場に、コウスケとの出会いから死までのログが届いた。
それを見つけた職場の人間が、改めてデータをヘイトレッドに送った。
そうして自分が来たのだと、マリは言う。
「四年前、ここ周辺で無差別殺人を起こした薬物覚醒のオーバーライン。その兄があれ。恐らくその時のショックで正規覚醒した」
あれの妹は、病気で苦しむだけの人生を終わらせるため、自殺めいた薬物覚醒を選んだのだろう、そう推測されている、とマリは話を締めた。
アカリは聞いていなかった。
――四年前?
アカリの頭は奇妙なまでに冴えていた。
冴えてしまっていた。
授けられた情報から、考えてはいけないロジックを生み出してしまった。
――薬物覚醒のオーバーライン?
――彼の妹が?
――ユウナが?
――ここ周辺?
――無差別殺人?
思い出される過去。
大切なものをなくしたあの日。
空っぽになった、あの事件。
両親が、死んだ日。殺された日。
その犯人は?
アカリは知らない。知らなかった。オーバーラインだとは知っていた。
それだけだった。
それだけの知識が、このザマを産んだ。
――父と母を殺したのはだれ?
確証はなかった。聞く気も起きなかった。多分、明確な記録もないのだろう。
だけど、分かってしまう。幾ら絶望溢れるこの地区でも、あれほどの大量殺人は起きにくい。
かつてアカリの両親を殺したのは、彼女が恋した男の妹だったのだ。
アカリは、じわじわと魂が削られていくような感覚を覚えた。
鋭利な絶望が、彼女を切り刻んでいく。
「……なによ、なによ、それ……」
「オーバーラインに肩入れしない方がいい。どうせ狂っている」
アカリの譫言を、マリは非情に切って捨てた。
オーバーライン、コウスケ。
彼は、妹の死を受け入れなかった。
仕事中、家を空けた際彼女の容態を観察するために設置したレコーダー。
それに残された、ユウナの咳。
コウスケが一番耳にしていた、記憶に残るユウナの生きている証。
それを、そんなちっぽけな音だけを、コウスケは妹として認識していた。
そういう狂い方のオーバーラインだったのだ。
妹の死によって覚醒し、その死を忘れる。なかったことにする。
恐らく、件の同僚を殺めたことも、彼の中ではなかったことになっていただろう。それは『夜を駆ける偽悪者』とは、言えないから。
そんないい加減で利己的な存在。それこそが、オーバーライン。
見えないものが見える。過去の改竄。夢と幻。自分で作り上げた都合いい虚像。
それは、最もポピュラーなオーバーラインの狂い方だ。
在り来たり。スタンダード。オーソドックス。
よくあることの一つだ。面白みも代わり映えもしない。
結局の所、コウスケはただの狂人だった。
普通のオーバーラインだった。
そしてアカリは、狂人に恋した無様な女だった。
自分を満たしてくれる存在?
偽悪? 贖罪? アニメーションみたいなダークヒーロー? 妹を守る慈愛ある兄?
違う、『あれ』は狂人でしかない。狂人でしかなかった。
だがそこで、ふとアカリは思い出した。
『アカリ』
『ごめんな』
首が飛ぶ間際の呟き。
出会ってから常に暗黒に犯されていた彼の瞳が、刹那に澄んだ、あの時。
あの瞳の時だけは、もしかして、正気を――
だが証明はできない。知りたかった。もう知り得なかった。
思い出す、コウスケの言葉。
『もっと君のことを、知りたい』
あれはどんな考えの元に出た言葉だったのか。
ユウナに似ているアカリを、コウスケはどう思っていたのか。
もし、何かの弾みでユウナの死をアカリが知ったら、それを彼に告げたら、コウスケはどの様な行動を取ったのだろうか。
殺されたのか? 死ぬのか? それとも?
わからない。わからない。わからない。わからない。
コウスケは死んだ。ユウナは死んだ。両親は死んだ。アカリは空っぽだ。
誰も教えてはくれない。誰もアカリに生きる理由をくれない。誰も彼女を満たさない。
この世界は不明の塊だ。
何も分からず産まれ、分からないまま育ち、分からないまま全てを失い、何も知らずに死んでいく。
彼女の憎悪は指向性を失っていた。
マリは当然の仕事をした。コウスケは狂人だ。
両親を殺したであろうユウナを憎むことは出来なかった。彼女はとうに死んでいる。
その兄であるコウスケのことは……やはり、憎めなかった。
仮にも恋した男を、男との想い出を、アカリは憎悪で染めたくはなかった。
では、彼女は何を憎めばいいのだろうか。
この地獄を恨めばいいのか。全て環境が悪いのか。
得体の知れない曖昧な『世界』を憎めば、アカリの中身は満たされるのだろうか。
分からない。
アカリは、何もかも分からなかった。
たった今産まれ出でた赤子の如く、彼女は何も分からず、答えも持っていない。
だけど、それでも。
アカリは知りたいと願った。自身の疑問の全てを。不明瞭の解明を。願ってしまった。
決して満たされることのない、稚気じみたその願望は、絶望しか生まれ得ない。
だけど虚無的な絶望は、闇を造り。
そしてその闇は――
「……もう、家に帰った方がいい」
呆然と涙を流すアカリに、そうマリは言った。
珍しく、哀れみ含む色づいた言葉だった。
アカリは何も言わなかった。何も、アカリには届かなった。
アカリが気づいた時には、マリは既にいなくなっていた。
座り込んだまま動かないアカリ。空っぽの部屋で、空っぽのアカリ。
頬を伝う冷たい水。分からないことだらけの世界へと向けた、黒い絶望。
笑っている。闇の向こうで。絶望が笑っている。
大口を開けている。どろりとした舌を出して、絶望が絶望が絶望が絶望が。
闇がアカリを飲み込んだ。ぱくりと一口で内の中に彼女を入れた。アカリは抵抗しなかった。
暗黒の口の中は、どこまでも黒く、果てしなく広がり、底なし沼のように深かった。
アカリはそこに居た。そこに立っていた。
黒の世界で、アカリは虹色の線を見た。
永遠の水平に引かれた、一筋の細い線。
冒涜的に輝いている、破滅の七色。
アカリは、躊躇わず、その一線を超えた。
魂が沈む――
極彩色の奔流が、精神と肉体を虹色に染め上げる。そんな情景を、アカリは見た。
アカリは笑った。
マリは部屋から出た。アパートから出た。
月が光っている。街灯は消えていた。
そこにあるは、激戦の跡。
ところどころ抉られている地面。
狂人の頭と腕のない死体。
無造作に転がっている頭部。鈍く光る二対の銀の腕。
血と肉が地面に非業を描いている。
饐えた臭いが、マリの鼻に付いた。
『どうせ狂っている』
どこからか声が聞こえた。マリはそれを無視した。
口を固く締めた。無表情を維持した。縋るように、青いサイバーグラスの表面を撫でた。
『アハハハハはははハハハハ! どうせ! 狂っている!』
響く。響く。声なき声が。
マリを苛める。苦しめる。脳内で、滅茶苦茶な狂笑が響く。
『ねぇ、マリはどうなの? 狂っている? おいで、おいで? ねぇ、ねぇ、アハっ、アハハはは!』
「……」
マリは耐える。声は響く。無表情を貫く。無感情を装う。
『あの子、そのままでよかったの? もし資格を持ってれば、あの子、なっちゃうよ? いいの? 生まれちゃうよ? ねぇ、滅殺しとかなくていいの?』
「……」
『アハハはははははははははは! マリってば、色々と中途半端! もっと、もっと狂いなさいよ、ほらぁ。今から戻って、確かめとけよ、やっちゃえよ!』
「黙れ……!」
煉獄の奥底にあるような、豪熱の怒りがマリの口から飛び出た。
頭を回っていた声は、止んだ。
マリはサイバーグラスを手で強く押さえた。人形の如く白い肌に、汗が滲んでいる。
――使い過ぎた。
あれは、強かった。
幾年も音声だけを妹と見ていた、見ることが出来た、熟成された狂気。
下手をすれば、自分以外のヘイトレッドでは危なかったのではないかとマリが思うぐらい、あれは強敵だった。
なればこそ、仕方がない。必要経費だ。マリは割り切った。割り切っている、フリをした。
マリは唇を噛んだ。強く噛んだ。
そのまま肉を噛みちぎった。ぶちぶちと繊維が破れる音が鼓膜を打った。
その痛みと味覚を刺激する赤い鉄が、彼女の精神を慰めた。
舌に転がっているピンク色の肉片を、マリは血に塗れる地面へ吐き出す。
口内から血が出ている。ぴたりとすぐ止まった。傷が僅かに蠢いて、治った。
そのまま、マリは夜の深い帳へと消えていった。
幾分後、ヘイトレッドのサポート部隊である事後処理班が、オーバーラインの死体を回収しに来た。
彼らは頭と両腕のない死体を見た。転がっている頭部を見た。
月灯りの下にあったのは、それだけだった。