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どうにも落ち着かない。アカリは床に座りながら、身動ぎした。
何かに縋るかの如く、服の上から太腿を触る。痛みはない。傷も消えた。
アカリは襲われたあの日の翌日、仕事を休み、きちんと治療に行った。
いくらディストピアの極みと謳われる0系列地区でも、医療的な技術は優秀だ。
無論、『外』ほどではないし、そもそも金額がかなり掛かる。保険などは勿論ない。
アカリはそれなりに稼ぎを持っていて、また散財もしない。何日かの通院で、銃槍はあっさりと塞がった。
「まだ、痛むのか」
コウスケが、両手にカップを二つ持って、そうアカリに声を掛けた。
「ううん、もう大丈夫」
アカリは首を横に振って、湯気が立つカップを手に取る。中身は合成緑茶だった。
そこでふと、アカリは部屋の片隅に、割れた白いサイバーグラスがあることに気づいた。
確か、最新式のサイバーグラスだ。アカリは、それについてコウスケへ話を聞こうとして、やめた。
あれも、『仕事』で盗ったものなのだろう。彼の『仕事』に言及するのは、傷を抉るような行為なのだ。
彼女は黙って、カップを口元に運んだ。
――あれから、一ヶ月が経っていた。
アカリは仕事が休みの日毎に、こうして彼の家を訪れていた。
最初は、お礼の為だった。
如何な事情が双方にあれど、結果、アカリがコウスケに助けられたのは事実。
アカリの心中にある靄の様な気掛かり、それも後押しはしたが、彼女は、助けてくれた礼をと、多少値が張る合成クッキーを持って、彼の家に趣いた。
また会うとは思っていなかったのだろう、コウスケは目を瞠りながら、それでも、アカリを家へと入れた。
アカリは、気になっていた。気になって、しょうがなかった。
コウスケの事情。コウスケの思考。コウスケの存在。
知りたかった。分かりたかった。何を考え、何を為そうとしているのか。
空っぽの自分を埋めるための何かを、足掻く如く求める様に。
初めてだった。両親が死んでから、誰かに、他人に、ここまで興味を持つなんて。
だけれども、その事をアカリの方からは切り出せなかった。
あまりにも無粋で、失礼だからだ。他人の領域に、興味本位で足を突っ込むなんて。
次いで言えば、さり気なく聞く、と言うのもアカリには出来なかった。
ある程度のコミュニケショーン能力は持っていたが、ことプライベートな話題は、彼女の苦手分野なのだ。話すのも、聞くのも。
――コウスケは、誰に言われずとも、自分から、自身のことをぽつりぽつりと話し始めた。
まるで、誰かに聞いて欲しかったと言わんばかりに。
何年か前、コウスケはオーバーラインになった。
その理由はアカリは未だ知らない。その話は、彼は語らなかった。
オーバーラインになって、彼は全能感と、高揚感、そして変化した己への困惑を覚えた。
そして、勢いあまり――切っ掛けは、彼自身もうろ覚えだそうだが――地区の自警団を、殺めてしまった。
ヘイトレッドに入らない理由は、そこにあると言う。
「多分、足は着かないよ。もう大分前のことで、目撃者もいなかった筈だ。だけど」
「だけど?」
「仮にも地区を守る自警団を殺した、こんな俺が、その上位機関のヘイトレッドに入っていい筈、ないだろ……」
コウスケは寂しげにそう語った。
アカリには何も言えなかった。
人を殺す。あまりにも日常過ぎるその言葉は、だけど、重い。
宙に浮かぶ雲より軽いここの生命を奪ったコウスケは、けれどその重圧で、縫い付けられた様に地べたに縛り付けられていた。
罪悪感は抱かなかったと言う。抱かなかった自分に恐怖したと言う。
「偉そうに何かを語っても、所詮は汚い人殺しさ」
その瞳は暗黒に満ちていた。アカリはその目をじっと見ていた。
そして、彼の妹、名をユウナと言うらしい――その存在が、コウスケが『外』に出ない、出れない理由だった。
ユウナは昔から体が弱く、何年か前から寝たきり状態。呼吸器系に問題を抱えていると言う。そんな彼女を連れて、『検問』はとても突破出来ない。
今のユウナは言葉を発することさえ難しいと、コウスケは言った。
「病院は……」
「もう、とっくの昔に匙を投げられたよ。なんだったら、早いとこ死なせたほうがあいつの為だ、なんて言われたりさ」
「そんな」
「社会的にも、あいつは死んだことになっているだろうさ。もう大分、表に出ていない」
「……」
「だけど俺は、死なせたくない」
ぞっとする程、冷たい声だった。アカリは目を逸らさなかった。
「死なせは、しない。生きている、生きているんだ。だけど、俺の選択は正しいのか? ホントは、ユウナは死にたいんじゃないか? でも、俺は生きていてほしい。俺は、ただ苦しませているだけなんじゃないか? 自己満足に浸っているだけなんじゃないか? あいつは何も言わない。言えない。俺には分からない。だから、俺は繰り返すしかない。ヒトを殺して、金を盗って、あいつの命を保って、来るかどうかも分からない、ユウナの体が良くなる日を、待つしかないんだ」
そこでアカリは、オーバーラインは涙を流せるのだと、初めて知った。
彼は矛盾の塊なんだ、アカリは薄ぼんやりとそう思った。
かつてした罪の後ろめたさをどこかで感じて、大手を振って地区を守る機関に入ることを拒んでいる。
しかし病気の妹、その命を保つ薬代を稼ぐため、汚い仕事、ほぼ強盗殺人の様なことを、続けなければならない。
もっと楽な稼ぎ方もある。コウスケはオーバーラインだ。適当な工場を襲えば、纏まった金が手に入る。
でも、彼はやらない。お世辞にも、十分な金を彼は持っているとは言えない。けれど、やれない。
「憧れていたんだよな」
「……何に?」
「笑っちゃうような、見返りなく誰も彼も助ける、正義の味方、そんなやつに」
古いアニメみたいなさ、とお馴染みの自嘲の笑みをコウスケは浮かべた。
(この人は、色々な物を持っている。持ってしまっている)
強大な力。守るべき存在。罪。かつての憧憬。
その折り合いを付ける妥協策が、夜毎に行う偽悪の殺しだった。
アカリはそう判断した。
何もかもが重すぎる、耐え難い重荷だ。
それを、コウスケは何年も、孤独に背負い続けているのだ。
アカリの胸中には、様々な感情が去来した。
コウスケとその妹への哀れみ。絶望的な世界への、ぼんやりとした怒り。
そして、形はどうあれ、ぎっしりと中身が詰まっているコウスケへの羨望。
そう思う自分を、アカリは嫌になった。自己嫌悪。それもまた、長らく抱いていない感情だった。
二人が出会って一ヶ月。
コウスケは、アカリに少しずつ、己の事を話した。
両親は遥か昔に死んでいて、他身内はいないこと。
かつて、機械整備の職に就いていたこと。今はもう辞めたこと。
あの銀の腕は、放置してる倉庫を偶然見つけて、そうしてこれは使えると思い、失敬したこと。
まるで乾いた布に水を入れるかの如く、アカリの中にコウスケの過去が滲んでいった。
そうして今、机を挟み、今日も二人は対峙している。
『ゴホッ……ゴホッ! はぁ、はぁ……ゴホッ』
隣の部屋からユウナの喘ぎが聞こえてくる。
アカリはカップを両手で持ちながら、コウスケを見た。
俯いている。表情は、見えない。
もう何度も、その光景をアカリは見た。
ユウナが咳き込む度に。喘ぐ度に。
コウスケはその度に顔を伏す。
そして、その後。
「……は、はは、ホント、俺、らしくないオーバーライン、なんだろうなぁ」
コウスケは、くしゃりと顔を歪ませるのだった。
あるいはもう、涙を流す寸前ではないかと思うほどに。
ユウナは薬による生命維持の副作用で、人前に出せない見た目になってしまったらしい。
アカリは、彼女に挨拶もしていない。そもそも、あいつはきちんと認識もできないだろうと、コウスケは言った。
その代わり、アカリは電子写真を見せてもらった。まだ幼いコウスケと、その時から既に頬がこけていた、どこか己に似ている少女。
二人は、笑っていた。
コウスケは今、泣きそうだった。
「あいつの苦しそうな咳は、もうずっと聞いてきたのに、なんで、今になって……今まで、誰かに話したことなかったから……なんか、変わったのかな、俺」
「……誰にも?」
「ああ、誰にも、何も言ってない」
「……妹さんは、知らないの? その……色々」
「色々。君は、時々言葉が足りないな」
ほっとした様に顔を和ませて言うコウスケに、アカリは少し顔を赤くする。
手にあるカップの熱が、そのまま顔に移った様に感じた。
一ヶ月の間で。
――アカリは、コウスケに好意を抱いていた。
それは肉体的欲情を伴う様な生々しいものではなく、幼子の如く未だ淡いものだった。
彼女は、こと恋愛の経験はない。元より同年代の異性との接触は少なく、また、生来より、彼女はあまりに他人へ干渉しない人間だった。
だからこそ、アカリは殆ど唯一と言っていい、心を許していた他人――両親の死に、強いショックを抱いたのだ。
初々しく、純情な、好意。
もしくはそれは、命に関わる状況下で知り合ったから起きた、吊り橋効果の様なものなのかも知れない。
しかし確かに、それは恋心だった。
コウスケの行いが、百正しくて、間違いは零で、誰もがそれを認めている、なんて考えは、アカリは持っていない。
所詮は人殺しだ。
物剥ぎだ。
何かと理由を付けても、それは変わらない。
言い訳や事情を並べても、コウスケは間違いなく殺人者なのだ。
今日だって、僅かに血の臭いが何処からが漂っている。微かにだが、確かに死の臭いが、この部屋にあるのだ。
コウスケは何も言ってはないが、恐らく己を助けたあの夜の様に、昨晩人を殺め、金目の物を奪ったのだろう。
だけど、こんなマチガイの塊の様な世界で。
守るべき者の為に。
自身の人間性に悩んで。
まるで前時代のアニメーションの登場人物の様に。
だけれど孤独に戦う彼の姿は。
空っぱのアカリにとって、どうしようもなく魅力的に見えた。
役にも立たないまともな倫理観は、アカリにはない。0系列地区を象徴しているように。
(恋、しているの? 私が?)
何かの冗談だと、アカリは思う。
空虚な自分が、オーバーラインに恋をする。
笑ってしまう。笑ってしまいたかった。
笑えなかった。
落ち着かない。この家に来て。彼の顔を見て。彼と話をしていると。
理屈ではなく、本能で。
鼓動が、高鳴る――
「……ま、言ってないよ。色々。殆ど寝たきりで、意識がはっきりしてないんだ。薬の所為でね。俺の言葉も、どれだけ届いているか……」
「あ……うん」
また、自己嫌悪。
妹のユウナは苦しみ、兄のコウスケは夜毎に誰かを殺す。
そんな中。恋だの何だの言う自分。
アカリは己を恥じて、少し瞳を下げた。
カップの中にある薄緑の液体。そこに映る、自身。
ゆらゆらと揺れる水面に、シャギーが入った髪と、赤に染まる顔が見えた。
まるで、指摘されているみたいだ。いい加減、認めろよと。
誤魔化す様に、カップを傾け、ぐいと一呑み。
「あちっ」
「おいおい」
日が、沈む。
アカリがコウスケの家に訪れる時、大体は昼に来て、夜に帰る。
やることは何時も同じだ。
水が落ちるように、コウスケの口からぽつりと過去が出て、アカリが相槌を打つ。
その繰り返し。そして、アカリは自宅に帰る。
別れ際、アカリは来週訪問するか否か、言わない。コウスケも聞かない。
けれど週末ごと。アカリは会いにいく。コウスケも、受け入れる。
これもまた、その繰り返し。
今日も、そうだと、思っていた。お互いに。
「思えば、俺は自分のことを話してばっかりで、君のことを全然知らない」
バッグを持ったアカリにコウスケはそう言った。
突然言われたその言葉に、アカリはぴたりと動きを止めてしまう。
コウスケは深い闇の瞳を湛えながら口を開く。
「……今でも、生きていてもしょうがないって……思っているか?」
「……分からない」
アカリは目を逸らさない。逸らしたくなかった。呑まれそうな程の、深い黒。
――いっそ、呑まれてしまいたいと、心奥で密かに思う。
いや、それは心の奥では止まらなかった。
溢れてしまう。どうしようもなく。
「だけど、また、次の休みも、ここに来たいって……そう、思ってる」
――言ってしまった。だけど、後悔はなかった。
どちらかが言い出したことではない、自動的に出来た二人の不文律。
次はどうするか、互いに何も言わない。
それは、お互いへの気遣いだった。嫌なら来ない。嫌なら家に入れない。
この終末的な地区で、浅く短い関係性を保つ意味なんて、どれだけあるのだろうか。
だけど、アカリは、彼女は。もっと、深く、長く。
これが、アカリの本心だった。
コウスケの問いへの返答にはなってないような、そんな言葉。
だけど、本心だ。
次も。次も。次の休みも。また、コウスケと。
コウスケは、彼女に近づき、腕を背中に回して正面から彼女の体を抱いた。優しく。包むように。
「っ……」
アカリは息を呑んだ。ただ、抵抗はしなかった。
コウスケの厚い胸板に、アカリの顔が埋まる。
少しだけアカリから体を離し、腕を彼女の腰に絡めたまま、コウスケがアカリの瞳を覗き込んだ。
「俺も、君が良ければ、俺も、俺も会いたい。君のことを、知りたい」
アカリは何も言わなかった。ただ、こくりと頷いた。
コウスケの深淵に、女の顔が移った。その女の瞳は潤んでいた。
電光だけが見守る中、二人の影が、重なった。
『ゴホッ……ゴホッ! はぁ、はぁ……ゴホッ』
「コウスケさん、それ、着けていくの?」
「夜も遅いんだ。一応な、一応」
「だって……その、変だよ、すぐなのに」
「でも、君に何かあったら……これさえあれば、俺は大抵の奴には負けない」
深夜。アカリとコウスケはアパートのエントランスの前に居た。
コウスケは、パワードスーツの腕部、あの銀の腕をきっちり両腕に着けている。
アカリは、今までコウスケの家路までの送りを断っていた。
だけど、今日は。今は。一緒にいたかった。いれるまでは、一緒に。
しかしコウスケは、何やら重装備だった。たかが十分掛からない道で。オーバーラインが本気の装備だ。
あまりにも物々しい様子にアカリは笑ってしまう。今までの彼女では考えられない、幸せな笑み。
微かにアカリは思う。どれくらいの時間、この日々を過ごせるのだろうか、と。
けれど思い直す。未来は透明で、かつ遠い。可能性は計り知れずに未知数だ。
いつか、ユウナの体調が良くなり、コウスケが罪悪から解き放たれ、例えばヘイトレッドに加入を許されれば。
そして、自分がその隣に居られれば。
それは、己をどれだけ満たすのだろうか。分からない。けれど、アカリは笑う。
アニメーションの如く都合のいい先を信じて、無垢に笑う。
「ふっ、ふふふ……」
「なんだよ。俺は真剣だぜ」
「ごめんなさい、でも、なんだか笑いたくて」
「おいおい……」
古い街灯が微かに光る闇の中で、二人の男女は歩んでいた。
月が見ている。雲も遮れない淡い光が、二人を導く様に照らす。二人はゆっくりと歩く。
絶望の世界で。狂気の地で。決して何も解決しないけれど。けど、それでも。
まるで、力を合わせ、手探りながら、深淵から抜け出す様に。未来へ向かう様に。
真っ直ぐと、二人は歩いてく。
――それは、どれだけ稚気な夢なのだろうか。
コウスケが止まった。
どうしたの、とアカリは言おうとした。
けれど、言葉に出来なかった。
丁度二人の正面。道の真ん中で。ぼんやりと、赤い光が見えた。
影が見えた。人が見えた。女が見えた。
刃が見えた。赤熱。それは煌めいてた。
天使が見えた。人形が見えた。殺意が見えた。
終わりが見えた。
絶望が見えた。
「離れろっ!」
「コンバット」
コウスケが叫びながらアカリを突き飛ばすのと。
滅殺のマリが囁いたのは、殆ど同時だった。