1(了)
雨が止んだ。
先ほど迄しとしとと落ちていた小雨は、夜の帳に沈み、消える。
碌に舗装されていない道には所々水溜りが張っていた。雨以外の汚水が混じった、不浄の溜り。
ばしゃん、と黒い影が無造作に水面を踏み、蹴散らした。
終の寝床、地区00は静かだった。
基本的に、ここは静寂に包まれている。特に夜は。
なぜなら、ここ居るのは動かない、動けないモノ――――要は死体なのだ。
あくまで、ほとんどは。
汚れた地面。壊れた家屋。死体。廃墟。前時代の名残、半分に折れた電柱。死体。死体。死体。死体。
右を見れば、死体。左を見れば、死体だ。
五体満足の死体。頭のない死体。右腕のない死体。眼球のみが不自然に抉り出されている死体。
男か女かも判別できない程に、腐り、肉が削げ落ち、蛆が沸き、蠅が集っている死体。
腹部が穴のように開いて、赤黒い臓物の肉片が剥き出しになっている死体。
それらは孤独に朽ちている。あるいは仲間を求めているかの如く、それぞれが重なり、奇怪なオブジェを創り上げていた。関節ではないところで曲がった肉と骨が、抱きつくかの如く他の死体と交わっている。赤黒くべったりとした血が、倫理観など存在していないと主張する様に、数々の骸を色付けていた。
まるで死体の見本市だ。
状態さえ問わなければ、様々な死の形が、ここでは見ることが出来る。
雨に打たれ、その腐敗は加速。
おぞましい臭気が満ち、皹が目立つ頭蓋骨が嗤う様に顎を開けていた。
ここは、死と暗黒が支配する終わり。圧倒的な終末。
黒い影は、また一歩、汚れた地面を踏み抜いた。
立ち止まる。右手を上げる。
そのまま背中から伸びている鈍色の柄に触れ、それを抜く。
同色の鞘から飛び出たのは両刃の剣。
「……」
無言で剣を構える。静寂に満たされた腐った地で、一人の浅い息遣いが僅かに響く。
風が吹いた。
冷たく、腐った風。緩やかに吹くその風は、やがて月を覆っていた雲を剥がし始めた。
暗闇に溢れていた地区00が、哀れむように輝く月明かりに照らされる。
影は女だ。歳若い女。
地面に足を縛りつけたように、煌く刃を両手に構え、動かない。
くすんだ色の黒髪は長く、後ろ手に纏められており、前髪が瞳を覆い隠している。
足を肩幅より少し出るように広げ、若干の前傾。そして、全くの不動。
薄汚れた赤い革のジャケットに黒いボトムズ。全体的に細く、華奢な体。
変わらずに動かず、肌は不自然なほどに白く、顔に表情はない。
あるいはこの女は人形なのだと、見る人がいればそう思うかもしれない。
しかし、微かに聞こえる呼吸音が、女が確かに生きている証左だった。
構えたブレードは胴体程の長さ。
鈍色の柄の真上には円形の機械。そこから伸びるのはメタリックの刀身。
スイッチを入れる。無機質な音と共に、円形の機械の両端から、刀身を覆う様に赤い光が出て、切っ先付近にて連結。
無機質な刃が纏うは発光する赤熱。
きぃぃん。きぃぃん。
無音の筈の地に、機械独特の甲高い音が沈む。
女は、動かない。何かを待つかの様に、じっと、動かない。
「ひ、ひっ、ひひひ、鍵はありますか? 青虹青青錠青青、羽虫がぶぅん。おおきい。扉」
女の真正面、地区00の深部から歪な声が響いた。男の声。
粘ついていて、地獄の底の様に暗い。
「とび。と、にじ。ああ。むし。どこ。扉」
意味不明な言葉が、声が、徐々に女に近づいてくる。
女はされど動かず、正面を見据え、構えを解かない。
「お? お? お? これは何ですか? 今日の連絡はありません。明日は本前兆は虹です。扉は」
男が姿を見せる。闇雲に言葉を羅列して、ふらふらと、幽鬼の様に。
闇が溢れるこの腐敗した地で、月明かりに照らされ、男が女の前に立つ。
男は壊れていた。
女は無言だった。
「こうしているあいだにも、60びょうに1ふんのときがすぎるのです」
男の表情は見えない。
その瞳を青のサイバーグラスで覆っているから。
そのサイバーグラスは、壊れていた。身に着けている男と同じ様に。
壊れて、使い物にならなかった。
「ひ、ひ、ひひひ、ひひ、さて、さてさてさて」
男の口は半開きで、支離滅裂な言葉と共に涎が垂れている。
薬物による、強制オーバーライン化。
強制オーバーライン化による、精神崩壊。
ここでは、よくあることだ。
オーバーライン。
ヒトの形をしたヒトのような何か。
男がこうなったのは、無論理由がある。
彼が、やるしかなかった。自分がやるしかなかった。自分が、俺が。
それは一種の強迫観念であり、あるいは真実で真理だ。
他に道がある。男がやらなくても、戦いに身を投じなくても、歩く道は確かにある。
男は、その道を選ばなかった。選べなかった。守るべきものがあった。手遅れでも、それでも。
しかし、その道の果てにはあるのは、ただ絶望。
男は全て分かっていた。承知の上で、定められた限界のラインを、越えた。
守るために。薬物に頼って。壊れた。
ここでは、よくある、ことだった。
女は動じなかった。
「コンバット」
女が呟いた。
男には届かない。何を言っても、男には届かない。
男はその場で足を細かく左右に移動させ、そして拳を身体の前に構え、素早く動かす。
女とはまだ距離がある。その拳は届かない。ただ宙を舞うだけ。
「華麗。そして速い! 見事なステップ。おい、扉! とび、おい、おい! おいおい! しゅっ、しゅっしゅ!」
その動きは、人間のモノとは思えないほどに鋭く、速い。
オーバーライン。人知の限界を超えた者だけが許される、圧倒的な運動性能。
男の拳が霞む。繰り出した細かいステップの回転数が上がる。僅かに地面が抉れ、確かな足跡を残す。
残像さえも見えかねない、男の拳撃。女はそれをただじっと見ていた。
拳は、男の自慢だった。
こうして人間を超える以前。
彼がまだ彼自身だった時。
地道に鍛え上げ、守る為に振るっていた、誇りの拳。
男は、その記憶さえも、忘れていた。壊れていた。
唐突に拳を振るのを止め、唐突に足を止めた。
「はいドーン」
男は瞬時に腰に手を回し、即座に銀色の球を手に納める。
それをそのまま投げる。女の足元に落ちた。女は微動だにしない。
直後、鼓膜を揺るがす鳴動と、網膜を焼き尽くすほどの眩い閃光が闇夜に轟いた。
フラッシュグレネード。
次いで、男は背中に両手を回す。瞬く間に。躊躇いなく。
両手には、銃。指に引き金。構える。向ける。女の位置に。見えないけども。
トリガーが沈む。
「ばんばんばんばーん! あっひぃ。ばばばばばばーん!」
撃つ。撃つ。撃つ。辺りには先の閃光弾の余波がまだ残り、新たに二丁の拳銃から出るマズルフラッシュが、更に暗闇の地に光を放つ。
狂気充ちた速度でトリガーを引き、弾を出す。出す。出す。出す。
オーバラインと言えども、多少は、フラッシュグレネードの影響を受ける。
暴力的な音と光。
目の前でその直撃を受けてしまえば、何らかの影響を、確かに受けてしまう。
しかし、男は気にしなかった。影響はあった。耳鳴りがする。だがそれはいつものことだ。光で目がちらつく。いつものことだ。
男は壊れていた。気にしない。気にすることが出来ない。
ただ虚ろな狂気に身を任すことしか出来ない。
だから男は、背後に回った女に気づくことが出来ず、そのまま心臓を貫かれてしまった。
「あ、あ?」
男の胸元から勢いよく出る刃。
赤く光る刀身には艶がある肉片が少しだけ付着していた。
女は即座に剣を抜いた。きぃぃん、未だ刃は熱を発している。血肉が焼け、煙りが生まれ、宙に舞い、空しく消える。
噴水の様に、鮮血が溢れた。女の肌に血化粧が落ちる。
地獄に咲く花の如く、引きちぎられた肉や繊維、突き出た骨を携えて、男の胸元がぱっくりと開いた。
「か、きききききき、ぎ、ああああああああああああああああああああああああああああああ」
しかし男は生きていた。発狂の呻きを上げ、生きていた。
壊れたオーバーラインを生者と言えるのかはともかく。
肉体的には、未だ生きていた。
どころか、貫かれた胸部が、まるで別の生命の様に不気味に動き始めさえした。
突き出た白い骨が。千切れた血脈が。どこかの筋繊維が。冒涜的に波打った。
「か、かか、鍵は鍵が。扉なんだ。虹には、虹。虫、虫が、ああ、あ、大丈夫大丈夫、ミカ、お兄ちゃんがお兄ちゃんだから俺は大丈夫お兄ちゃんだミカ」
うわ言の様に男は呟いた。
女は、凍える瞳でその様子を見ていた。
風が吹く。女が少し震える。口を開く。
「ミカは死んだ」
その言葉を受けて、男は、はっとしたように顔を上げた。
女に向き直る。
サイバーグラスの鏡面が、ブレードの赤い光を反射した。
「ああ、そうか」
男は言った。その声には、確かに正気の色が乗っていた。
「マリ」
「……」
男は女の名を呼んだ。
女――マリは無言だった。
男は笑った、様に見えた。
「すまん、手間、掛けさせた」
直後、女が刃を振るい、夜に赤光が瞬き、男の首が飛んだ。
ボールの如く、頭部が地面を跳ねた。二回三回とバウンドして、ゴロリと横たわる。
糸を切った人形の様に、その場に崩れ落ちる男の胴体。
オーバーラインは、心臓を貫いた程度では死なない。すぐ再生が始まる。特に、壊れたオーバーラインの再生速度は脅威だ。
だから、首を刎ねた。
精神が壊れたオーバーラインは、一時的に正気を取り戻しても、またすぐに狂気に堕ちる。
だから、首を刎ねた。
男はマリの恋人だった。
それでも、首を刎ねた。
男は狂っていた。壊れていた。
マリは。
スイッチを切る。ブレードから出ていた赤い熱源が僅かに残光を灯して消える。
マリは流れるような動きで背中の鞘に刀身を納めた。
やや歩いて、切り離された男の頭部へと向かう。
「ケンジ」
マリは名を呼ぶ。答えはないと知っていて、尚呼ぶ。
「ケンジ」
その声に感情はなかった。
まるで、どう言う色を付ければいいか忘却してしまったかの様に、哀しい程に無感情だった。
マリは屈み、男の頭部に触れる。
ぎこちない手付きで男の髪を撫で、装着してあった青のサイバーグラスを取った。
外界に晒された男の瞳は、瞳孔が開ききり、本来なら黒であるべき虹彩は、この世のものとは思えない七色に染まっている。
崩壊の証。狂った極彩色。
それは、死して尚、解放されて尚、狂気に侵されている様にマリは感じた。
少しだけ逡巡して、マリは男の両目を手で覆い、サイバーグラスを持って立ち上がった。
男の頭部を背にし、立ち去るマリ。
男の目は閉じられていた。頭が切り離されていることを除けば、あるいは、寝ているかの如く、穏やかな顔だった。
地区00は生者を失い、またも静寂に満ちる。
腐敗の風が吹く。
ただ冷たく光る月だけが、音がない地を照らしていた。
何処かで鴉が嗤った。