エピソードⅦ
今日は待ちに待った休日。洗濯を済ませて、部屋を隅々まで掃除してお布団を干さなくちゃと意気込んで起きた。
まだ、時計は六時を過ぎたばかりだが、私の休息の為に時間を使うよりも家の為に使いたいから悔いはない。
私達が小さい頃、身を粉にして働いてくれた母のことを思い出せば私がしていることなど当然の事だ。
母は、私が幼い頃に亡くなってしまったから顔もどんな人だったかも覚えていないけれど、ただ暖かい人だった事だけは体に染み付いている。そして、母が教えてくれた家事の全ても体に残っている。
まず、私は布団から這い出るとカーテンを開けた。日の光が鋭く目に突き刺さるが、それすらも許せる。朝だから。
時間が早い為、今から掃除機や布団叩きを使うと騒音で兄達が起きてしまうだろう。
私達の生活を成り立たせる為に働いてくれている兄達を起こして睡眠不足にさせたくない……というのが建前で実際の所、好きな掃除を一人で楽しみたいというのが大きな目的であった。
私の家は、一軒家であり二階建て構造となっている。これも、ローンを作らず自らの手で作り上げた、建築業のベテランであるお父さんのお陰だ。
一階は居間とキッチンと、両親の部屋(使われていないけど当時のまま、残してある)。
二階に私と、兄達の部屋がそれぞれある。年齢順に階段を上ってすぐ、お兄ちゃん。翔兄ぃ。智兄ぃ、私の部屋と並んでいる。
どの兄であろうと嫌だったと思うけど、中でも一番怖い三番目の兄が隣の部屋ということはとても嫌だった。
五月蝿かったらすぐに怒るからね、と思いながら物音をたてない様にゆっくりと移動。
お父さんは、大きな家で育てれば子供の心も大きくなるという自論を持っているので、部屋とかも広めに作られているのだが、壁には気は回らなかったみたいだ。
三番目の兄が友人と電話している声も聞こえるし、私の鼻唄混じりの一人言も筒抜けになっている程の壁は薄い。
まあ、こんな家を建ててくれて文句は言わないがせめてもう少し良い条件が良かったとたまに思う。
私は布団カバーやらベットカバーやらを丸め取りながら、それと洗濯しようと思っていた衣類を洗濯篭に詰め込み部屋を出た。
部屋を出たからといって、安心してはいけない。一階へ繋がる階段を降りるためには必然的に兄達の部屋の前を順に通って行かなければならないから。
智兄ぃ、翔兄ぃ、そしてお兄ちゃんの部屋を抜き足差し足で息を殺して歩く。勿論、起こしてはダメだから。
やっと、階段まで辿り着いて一番下まで降りた時。ほおっと安堵の息をついた。流石に居間に入ってしまえば多少の物音で兄達が起きるまい……私は油断していた。
洗濯機を使うために、ニコニコ笑顔で居間の扉を開けた。無論、誰かに当てた笑顔ではないが。
「む。早起きだな」
瞬時に私の笑顔が洗濯篭と共に地面に落ちた。ガタンッ、という激しい音に正気に戻って洗濯物を拾ったが笑顔は回収不可能だった。
何故、私がここまで動揺したのか。それは、居間のテーブルに向かって茶を飲む、一番目の兄がいたからだ。
「ん、うん。おはよう」
しばしの間を開けたが、挨拶をすると洗濯物を抱えて兄の横を通った。仕方がなかった。だって、兄の前を通らなければ洗濯機に向かえなかったのだから。
ゾクリ、その時変な予感がした。そして、その予感はすぐに当たってしまう。
一番目の兄がすれ違う私の腕を引き寄せた。すると、必然的に洗濯物が落ちてしまう。一度汚れて洗うものだから、これ以上汚くなったとしても然程支障はないと思うけど、どうも私には嫌なことに感じた。
「何? お兄ちゃん」
「こんな時間に起きて家事とは良い心掛けだな」
「ん、ありがとう……」
「では、いつも茉央に掃除を任せているから私も手伝うとしよう」
「えっ!?」
嬉しい。けど、一番目の兄がこんな優しさを見せるのは怪しい。きっと裏があるに違いない。
私をどっぷりと嵌めるような意地の悪い作戦があるに決まっているのだ。
「だ、大丈夫だよ。私達はお兄ちゃんのお陰でこんな生活出来てるんだから、休みの日位お兄ちゃんにはゆっくりして欲しいな」
我ながらお兄ちゃん想いの良い妹の台詞が出てしまったと気がついた。少し、鳥肌が立つ。
いや、今の台詞が全くの嘘っぱちという訳ではないが一部フィクション加工がされていた。それなのに、私は笑顔でさも本当のことの様に言った。
私はなんて最低だろうか。
「ほう。では、茉央の言葉に甘える事にしよう。何か手伝って欲しい時は遠慮せず私に言うのだよ?」
「う、うん。分かった。……ありがとう」
耳をうっすらと赤らめた兄は、私の言葉を心からの言葉だと信じたのだろうか? 恐らく、そうだろう。
チクリと胸に罪悪感が刺さった。やけに優しすぎる兄のことを疑いすぎてたのかもしれない。今度優しくされたら、ちゃんと信じてあげよう。
洗濯機にシーツを入れながら思った。
洗濯機を回している間に次の作業に移り変える。
確か、今日は三番目の兄が試合でお弁当が必要だったはず。それに、二番目の兄も仕事だからお弁当が必要だ。(何故か二番目の兄は社員食堂があるのに、利用しないのだ)
思い出して、私は居間へと向かおうとした……が、足を止める。もしかしたら、じゃなくてきっと一番目の兄が居間にいるだろう。顔を会わせてしまう危険性がある。
小さかった罪悪感がジワジワと大きくなって、胸を締め付ける。
ああ、もう。何でお兄ちゃんのことでこんな苦しくならなくちゃいけないのさと思いつつも、原因は私にあるから当たろうにも当たれない。
しばらく悩んで立ち止まっていたが、やっと意を決して足を動かした。
居間にはまだ一番目の兄がいた。新聞を読んでいて顔は隠れていたから、何も言わずにキッチンへと向かう。
「おい」
ビクリ、肩が跳ねた。
突然の呼び掛けに思わず「は、はいっ?」と惚けた返事を返してしまう。
「エプロン、忘れている」
一番目の兄が指差す先には椅子に掛けられたエプロンがあった。いつも料理をする時に使っている。だから、忘れるはずがない作業のはずなのに、私ったらどうしたのか。
羞恥で赤くさせながらエプロンを付けると、心配そうに私を見る兄と目が合った。
「寝惚けているのか?」
「あっ、ち、違うの……ちょっとボーッとしているのかな?」
「質問に質問で返されても困る」
「とにかく、大丈夫だから。心配しないで」
「する。するに決まってるだろう。お前は私の大事な妹なんだから」
いつもの私ならどうせ私を困らせる為の意地悪な言葉だろうと決めつけていたが、今日の兄の優しさを知っている私は違った。
だから、純粋に照れた。
「う、……んっ」
熱い。熱い。熱い。きっと今の私は頭で水を沸かす事が出来るだろうって位に熱い。
照れ隠しに鼻をごしごし擦りながら、話の途中でキッチンへと逃げた。逃げる最後に見えた兄もまた、私と同じく湯気を出していた。気がした。
私の体の中の細胞が『これ以上お兄ちゃんと同じ環境にいたら、悶死してしまう』とでも思ったのか、異常なスピードでお弁当を作り上げた。
ちゃんと風呂敷で包んでから、朝御飯の横に並べておく。一番目の兄は私と同じ空間にいるけど、話すのも恥ずかしいから同じく並べて置いた。
丁度、洗濯終了の音楽が聞こえてきた。あら、早いのねと主婦染みた一人言を漏らしながら洗濯篭に中身を出していった。
私の心理を読み取ってくれたのか、外は快晴に恵まれている。穏やかな春の日差しの中、外に干すのも悪くないかもしれない……と、やはり呟きながら歩いていると兄が声を出した。
「外に干すなら、茉央は届かないだろう?」
「あ」
そういえば忘れていた。私の庭にある物干し竿は兄達でないと届かない作りとなっているのだ。
以前一番目の兄が作ってくれたのだが、その時『物干し竿を高く作って茉央が届かない様にすれば、茉央は私に頼ってくれるだろうか……』と言っていた。
意図は掴めないが、物干し竿がなく外に干せなかった環境よりはまだマシなので甘んじている。
「手伝って貰っても、良い……ですか?」
「当たり前だ」
「あ、ありがとう……んしょっ」
洗濯した後のシーツは吸水したからか重くなっていて、洗濯篭を落としてしまいそうになるから必死にズリズリと上げていると一番目の兄がひょいと持ち上げた。
「重労働は男がやるのが決まりだろう?」
私が重い、重いと頑張って持ち上げていた物を簡単に持たれると表現の出来ない感情が沸く。嬉しいと恥ずかしいと妬ましいと羨ましい……と沢山の感情が混ぜられてて分からない。
今日の兄はやはり異常だ。異常に優しすぎる。私のお願いを『代償』なしで飲むなんて、何か変な薬でも飲んだのかと不安になる。
「あ、りがとう」
謝ると、兄はそっぽを向いた。
* * *
今日の一番目の兄は明らかに変だった。洗濯物を手伝ってくれたし、掃除機をかけるのも手伝ってくれた。それに、窓拭きまで現在進行形でやってくれている。(私は何もしていないのに、だ)
綺麗好きな兄だから清潔な空間を保つという行動を取るのは、正常なのだけど異常にしか思えない。
優しくしてくれる兄には悪いけど、何か企んでいるとしか思えない。
『一生分の親切を与えたやったのだ。私の奴隷となって働け』と言われても、無理はないと思う。
怖い妄想に一度終止符を打って、窓を拭く兄の後ろ姿を眺めた。首が隠れてしまう程兄の髪の毛は伸びている。今度切ってあげたいな、とボンヤリ考えていると振り返った兄と目が合う。
見ていたのがバレた。
何もせずただ、兄を見ていただけなんて恥ずかしい。それを本人に知られて恥ずかしい。と、私が思っているのが兄には分かったのか互いに目を反らした。
「上の窓拭き、終わった」
「ありがとう……あと、今日は折角の休みなのに手伝わせてごめんなさい。お茶とコーヒーどっちが良い?」
「大丈夫だ。……お茶で」
「だと思った。だから、先に用意してた」
お兄ちゃんは昔っからお茶が大好きだもんね、と付け足しながらまだ湯気を放つカップを兄に見せた。
「おお」
私も自分にお茶を用意する。私も兄と同じく大のお茶好きだ。ところが二番目と三番目の兄は正反対で、お茶が嫌いだと言っている。美味しいけど、好みは人それぞれだから四方がない。
「お兄ちゃん、今日はありがとうございました」
「改まって……何か私の機嫌を損ねる様なことでもしたのか?」
「いや、してないけど。助かったから、ありがとうしたくなったの」
「礼など良い」
兄はお茶を啜りながらもそっぽを向いた。その動作は何度も見てきたはずなのに、何故か辛くなる。
私も何かお兄ちゃんの為になることを手伝いたいのに、打ち切る様な物言いが堪えたのかもしれない。
「何かしたい。勝手な私の想いなんだけど、お兄ちゃんのために何かしないと気が済まない」
今まで何かしてもらったら『代償』を払っていた私の体質か、それとも今日の恩に利子がついて今後チマチマ払わなければならないと考えたからなのか。
言った本人にすら分からない内に、言葉に出していた。
あ、でも前みたいなチューしろみたいな無理難題は止めてくださいね。と付け足すと兄は失笑する。そしてしばし言葉を吟味してから発した。
「じゃあ、私の部屋に放置したままのコップを取ってきてくれないか。それだけで良いから」
本当にそんな簡単で良いの? と、思わず思ってしまう。が、簡単なことは良いことだ。そう思えば楽しくなるさ。
「分かった!」
私は水を得た魚の様に走り出した。
何故か分からないが命令されることに喜びを感じている。いつの間にか奴隷体質に似たものを身に付けてしまったのだろうか。
いや、違う。これは『お願い』だからだ。○○しろ。と命令されてないから喜んでいるんだ、きっと。
兄の部屋は綺麗だ。本は積み重なってはいるが、整頓されているからコップはすぐに見つけられた。机の隅にちょこんと乗っていた。
昨日私がお兄ちゃんの為に入れたお茶だ。ちゃんと最後まで飲まれていて嬉しくなる。料理でも同じだが最後まで飲んで貰えるのは、作った冥利に尽きるというものだ。
「あ、れ?」
不思議な写真立てを見つけた。シンプルなガラス製の写真立ては伏せられていて、どんな写真が入っているかは確認出来ない。
物や思い出に執着することの少ない兄が、それの典型的である写真を写真立てに入れてまで保存するということが私には驚きだった。
彼女の写真でも入っているのか、と思った瞬間妙にイラっとした。何故か。やはり、分からない。私は幼いのか、分からないことだらけで嫌になる。でも、分からない。
もう、良いや。見ちゃえばこの気持ちもイライラも解決するだろう。そうだ。
写真立てに手をかけて、表の顔を見ようとした時だった。
「――ッ!?」
写真立てが、落ちた。割れた。
何で、と手を見たら赤い液体が滴り落ちている。思い出した。写真立ての欠けて鋭利になった部分に指を引っ掻けたのだ。それで、痛みで、落としてしまった。
眼鏡を踏んでしまった時の様に、体の下から負の感情がぞわぞわと上がってきて鳥肌が立つ。
私は兄が大事にしている物を壊してしまった。写真を拾って見ることなんて出来ない。私にはそんな資格なんてない。それどころか、お兄ちゃんの部屋に入る資格すら。
「大丈夫か……っ!!」
「お兄ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい……」
兄は割れた写真立てと、私の切れた指と交互に見て目を丸くしていた。すぐに怒られると思っていた。出てけと、言われて片付けすらさせて貰えないものだと。
けれど、現実は想像よりも厳しかった。
あの、兄が。一番目の兄が。私に涙を見せた。何も言わないが、写真立ての破損にショックを受けているのが伝わる。
ごめんなさいなんて、言葉じゃ謝りきれない。そんなにも、この写真立てが大事だったのか。もしくは、中身か。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……謝る必要ない。私がこんな写真立てに入れといたせいで、茉央の指が切れているではないか」
「これは、舐めれば大丈夫だから。そんなことより、写真立てを壊してごめんなさい」
「写真立てのことはどうでも良い。買えば済む話だ。私が大事なのは写真だ」
「あ、写真なら……」
割れたガラス片を払いのけて写真を捲った。大分年数が立っているのか、写真自体には古さが見られたが表にも傷一つついていなかった。
そしてゆっくり舐め回して見て息を飲んだ。
「私?」
「違うっ!!」
兄は声を粗げて私の持っていた写真を奪い取る様にして、胸の前に当てた。相当大事なのだろう。きっと、兄の命の次位に。じゃなきゃ、この兄がここまで固執する訳がない。
けれど、何でソノ写真なの?
その写真に写っているのは一人の少女。帽子を押さえながら、ワンピース姿でカメラ越しの誰かに向かって最高の笑顔を見せている。その少女の顔は明らかに私だった。そっくり、と表すにはあまりにも似すぎている。
「ごめんなさい、触って……」
「いや、私の方こそ感情的になって悪かった。この写真は大事な物だったから、つい……」
そう言って写真を眺める兄の顔には悲痛の色が見えた。大事なのに、何故そんな悲しい顔をするのだろうか。
「私の持ってる写真立て使う?」
「ああ。そうしようか、今度持ってきてくれ」
兄は涙を拭いながら言った。そして、ふと冷静な顔つきになって私の手を見た。
「血が出ているじゃないか」
「あ、ああ……これは大丈夫」
さっきも言ったことなのに、兄は忘れているのだろうか。今、初めて気がついたかの様に目を丸くして驚いている。
「すまん」
兄はそう言って、私の手を取り、口元に持っていって。ペロリ、血を舐め取った。ゾクゾクゾクゾクッ!! と悪寒が全身を駆け巡る。
「お兄ちゃ……っ?」
兄は何も言わずに私の指に舌を這わせる。ちろちろとした舌の動きは、私に曖昧な快楽と鈍い痛みをもたらし身悶えさせる。
しかし、私は抵抗しない。出来ない、の方が正しいか。兄の鋭い眼光に捕らえられてしまったのだから。
私の顔が真っ赤に変化するまで舐めて、兄は一度口を離した。出血を確認している様だ。もう、血は出ていなかったから兄は私の手をおろした。
けれど私の手は兄の手の中にすっぽり収まったままだった。
コチコチコチ……と、沈黙の二人の間に秒針の音が響く。それより大きく叫ぶ心臓の声が兄に届いてないか、少し不安になる。
何も言えない。何も言わない。何も出来ない。ただ、兄と目を合わせて互いの気持ちを理解しようと努力するだけ。
でも、兄の心の中は見えない。
あの写真が誰なのか。私なのか。それとも、私に似た別の人か。何故写真を持っているのか。何故大事なのか。何も分からない。
お兄ちゃん、答えを教えてよ……。
私の想いは兄に届かずに座り込む私から視線を外して、すっくと立ち上がった。
「ガラスの破片の始末は私がする。だから、出てってくれるか」
出てけと怒鳴らずに、問いかけたのは兄の優しさだ。感情に任せて怒鳴り散らさずあくまでも平穏を保っている。
力強く心臓を掴まれたのかと錯覚する程、胸が苦しくなって切なくなった。
「じゃあ、私。箒と塵取り持ってくる」
「ああ、部屋の前に置いといてくれ」
「……はい」
写真の人は誰なの? 教えてくれるまで、お兄ちゃんの部屋を出ないんだから! お願い。教えて。
なんて、我儘なことを言える様に育っていれば良かった。残念なことに素敵なお兄様達と成長した私は我儘を簡単に言える性格ではない。
静かに部屋を出た。パタンと閉めるドアの音が、最後の声に聞こえて締め付けられた胸が更に苦しくなった。
ダメなこと。分かっているけど、兄の部屋に耳をつけて物音を聞いた。
ずずっと、鼻の啜る音。兄は声を殺して泣いている。そして、小さな声が聞こえきた。
「逢いたいよ…………さん」
誰の名前を呼んだのか、分からない。いとおしそうにその人の名前を囁いている、という事実しか分からない。
けれど、これ以上聞いてはいけない気のした私はすぐに下に降りて箒と塵取りを取ると兄の部屋の前に置いた。
そっと、ごめんなさいと書いたメッセージカードも添えて自室に帰ると何故か胸の痛みがぽっと取れた。
「あっ、あっ……」
枷を外した飢えたライオンの様に涙は止まることを知らずに落ちた。両手で擦って天井を仰いで、笑ってみせようと涙は溢れる。
布団に顔を埋めて必死に音を立てずに泣く。泣き疲れると妙に冷静になって、兄も私と同じ様にして泣いているのかと思えた。
涙の理由はどれか。悲しい。悔しい。寂しい。混ぜられて、漠然としているから答えは見えない。
見えないまま、私は眠りに落ちた。
翌日の朝、鏡を見てパンパンに浮腫んだ目周辺を見て叫んだのは言うまでもない。