エピソードⅥ
私は四人家族で、それぞれ趣味も好みも違うというのにテレビは一つしかない。そのせいで毎日、テレビの争奪戦が密かに行われている。
皆が家に帰ってきて、晩御飯を終えた後に定番となっているから、大体七時から八時の間である。
「お兄ちゃん、テレビ付けても良い?」
一番最初に声を出すのはいつだって私。だってそりゃ、私だってこの現代を生きる女子高生だし音楽番組の一つや二つ観て好きな歌手を確認しなくちゃいけないのよ。
一番目の兄は、読んでいた新聞の隙間からひょいと顔を出すとさも嫌な表情を見せた。
兄はテレビが嫌いだ。
現に今、新聞を読んでいる。(新聞を読む人間が全てテレビが嫌いだとは言わないが)基本的に活字、活字と欲している。たまにテレビを観ることはあるがそれは大抵、ニュースや医学や病理に関係するものだけだ。
「何を観るのだ」
「えっと、音楽番組とか?」
「誰が出る」
「お兄ちゃん知ってるかな……ヌースハウスだよ」
「ヌ? それは男か? 女か?」
「両方いるって言ったら変かもしれないけど男女混ざったグループ……です」
兄の謎の威圧感に押されて敬語になってることに気がついている。毎回、このやり取りを繰り返してもどうも慣れない。私が臆病なのではなく、単に兄の怖さが倍増しているのだと私は思っている。
「なら、許可する」
一拍間をおいて出された答えにふうっ、と小さくため息をついた。何故こんな質問をするのだろうか。まあ、とにかく。観られるのならそんなことどうでも良い。
兄は新聞に視線を戻すと懐に入れていたリモコンを取り出して渡す。微かに兄の温もりが伝わってきた。
リモコンを持ってテレビに向かって駆けていく途中(私の家のテレビはリモコン以外では操作出来ない様に一番目の兄が改造してしまったのだ)、ぽふんと誰かに捕まった。
相手は勿論誰か分かっている。
「何かテレビ観るの?」
瞳を輝かせて私を見る、翔兄ぃだ。
「うん、ちょっと、ねー……」
二番目の兄から目線を外して時計を、短針が八に近付いていた。ヤバイな、これは。と、唾を飲んだ。
「そのリモコン貸して、ね?」
テレビの前で携帯式ゲームをしていたはずの二番目の兄は、何故か私の持つリモコンに興味を向けていた。いや、これは普通(一番目の兄に改造されていることは除いて)のリモコンですけど。
私が黙っているとニコニコ笑顔の二番目の兄の顔が急に一変した。笑顔とは程遠い、表情である。
「何で貸してくれないの?」
苛立ちを含んだその問いかけに私はすぐに答えるしか道が残されていなかった。
「か、貸します。はい」
「ん。茉央は偉いねー。僕が撫でてあげるからこっち来て」
「は、はい……」
二番目の兄の横に座る。元からテレビの前に座る予定だったから、これは大したことではないのだと心に言い聞かせるのだが私を見て再度笑顔を見せる二番目の兄に心臓が騒ぐ。
「……翔兄ぃ。リモコンで何するの?」
恐る恐る聞くと、兄は優しい(裏に真っ黒い物が潜んでいるのを私は知っている)笑顔で言った。
「茉央で遊ぶに決まってるでしょ?」
自分は当たり前、みたいなその顔。一番目の兄にそっくりだよ。なんて言葉、一番目の兄を嫌っている二番目の兄には禁句だ。
じゃなくて。遊ぶとは、なんとぞや。
「茉央、テレビ観たいの? ねぇ、観たいの?」
私の髪の端を摘まんで持ち上げた兄は、意地の悪い笑顔を浮かべる。
な、なんと。やはり私からリモコンを取ったのは兄の策略だったのか。リモコンを渡した過去の自分を悔やみながら、打開策を考える。
「観たい……です」
けれど、私には思い付くことが出来なかった。
「じゃあ、何したら僕がリモコン返してくれるか分かる?」
また、意地の悪い笑顔。腹立つし叩きたくもなるけど、無駄に可愛らしい犬顔だから行き場のない右手が空を舞う。
ううー……と唸る様に下を向く私の頭に天使の様な屈託のない笑い声を与えた後、兄は私の両頬を挟んで言った。
「僕が喜ぶことをして」
強制的に二番目の兄と対面させられてる私の、羞恥の色は伝わってしまう。けど、そのこと自体恥ずかしいから、為す術もなく私はただただ赤面させていく。
何故か、兄はそんな私を見て笑っている。ああ、何だ。やっぱり私を苛めたいだけなんだ。と、分かってはいるものの顔が熱いのはどうしようもない。
「ら、らにふれば……」
潰された口からは不完全な言葉が漏れる。
「んー、それは茉央が考えてよ」
か、考えてよと言われましても……二番目の兄が喜ぶことは私を苛めることで、そうなると私は必然的に痛い想いをするという訳で、絶対イヤ。
「はいっ」
兄は短い掛け声と共に、私から手を話した。そして、無防備にもだらりと手を降ろして目を瞑る。な、何だこの状況は。と、手が震えた。
つまり、目を瞑っていても手からリモコンを離していてもお前がすることは僕には分かるんだぜ、おらヤれよという牽制なのか。
じゃ、じゃあ私は翔兄ぃの想像の上を行ってやる。
そうして、私が二番目の兄に体を近づけて手を伸ばそうとしたその時だった。
私の力でも二番目の兄の力でもない、第三の力が働いて私は兄から離れていた。
「え、」
振り返ると、私の両肩を掴んで二番目の兄から引き離した犯人と目が合った。何やっているんだ、と叱る様な眼差しの一番目の兄だ。
何も起こらないのを不思議に思ったのか二番目の兄が目を開けると、ぶーっと口を膨らました。
「何してるんだよ。碧兄さん」
「何をしているのは、私の台詞だ」
「い、たっ」
ギリギリと一番目の兄が私の肩に力を入れるから、悲痛の声が漏れてしまう。すると、すぐに一番目の兄は手を離した。
その力もまた強かったから、弾き出される形となって私は二番目の兄の腕の中へともたれ掛かった。
あっ、と背後から聞こえてきた声に思わず耳を赤くさせてしまう。
別に私は二番目の兄の方が好きだから胸に飛び込んだのではなくて、単に非力すぎて飛んでしまったのだ。と行き場のない言い訳が頭の中で生まれて、未発達のまま消える。
「ねぇ、茉央。さっきの続きしてよ。碧兄さんの前で、ね?」
意地悪な悪魔もとい二番目の兄の言葉が頭上から降りかかる。何で、と抵抗しようにも既に八時なろうとしている今はそんな暇はない。
もう、仕方がないのよ。と自分に言い聞かせて頬を擦った。熱でも出てるのかと思う程熱い。
これはきっと、八時に出るヌースハウスへの愛情でなっているのだと誤魔化しながら二番目の兄と対面した。
二番目の腕の中で対面している私を背後から睨む一番目の兄の殺気をひしひしと受け取りながら、私は震える手を兄の頭に乗せた。
「よ、よしよし……」
赤子をあやす母の様に乗せた頭を不規則に動かし、撫でると二番目の兄は呆気に取られたとでも表現すべき表情を見せた。
え、何。私、何か驚かれる様なことをしたの?
「それが僕が喜ぶ様なこと?」
二番目の兄が垂れた目尻をくしゃりと柔らかくさせて、笑った。しかし、少しバカにしている感じが読み取れる。
「えっと、うん」
自信なさげに言うと、兄は悲しげに言う。
「顔を寄せたからてっきり、ちゅーでもしてくれるのかとおもってたのにぃー」
「ちゅ、ちゅ、ちゅー!? そんな、こと。しないよっ」
バタバタと顔の前で手を振る。
まさか、キスだなんてそんな恥ずかしいことをさせようとしていただなんて。と、二番目の兄を睨んだ。目尻に涙が溜まっている様な気がするが気にしない。
「ふふっ。照れちゃって可愛いの」
ふざけた言葉とは裏腹に、やけに真面目な口調で目を丸くしていると二番目の兄が私の背中に手を回した。
やられた。これじゃあ、逃げられない。
諦めたその時、また第三の力。一番目の兄が私を二番目の兄から離してくれた。今度は肩ではなく、脇の下に腕を入れて持ち上げられた。
「目を離すと、お前はすぐ……」
「仕方がないじゃん。茉央が可愛いんだから」
「私の目が黒いうちはやらん」
「じゃー、黒くなくなったらくれるの? な訳ないでしょ? あんたのことだったらさぁ……」
「翔」
その一言に口答えをするな、という意味でも含まれているのだろうか。多分入っているんだろう。あの、二番目の兄が黙ったのだから。
「はいはい、分かったよ。僕がやり過ぎました、ごめんなさい。碧兄さん」
棒読み感丸出しでつらつら並べた後、二番目の兄は携帯ゲームを持って立ち上がった。そして、私の前を通る前にリモコンを手の中に入れてくれる。
「はい、茉央。悪戯し過ぎちゃってゴメンね」
ペロリと舌を出して笑う二番目の兄。小さく謝ったけれど、また同じことをするのだろう。そして、その時もこんな風に謝る。だから、私は許してしまうんだよ。あんな、笑顔卑怯です。
バタリと、扉の閉まる音よりもドクドクと速い心臓の方が五月蝿い。
まだ、熱のある頬を擦りながらリモコンを操作しようとテレビに向けると一番目の兄が脇の下の手を巧みに回してぎゅっと私のことを抱き締めた。ちょ、胸触ってませんか? それは、故意ですか?
またアレとは別な理由で頬を赤くさせてると、耳元で兄が言う。
「翔が触れた十倍、私が抱き締めて殺菌してやる」
な、何を仰っている。この科学者兼研究員は。人間という雑菌保有者が人間に触れたところで、菌の交換にしかならないと常々私に言っていた兄は何処へ行ったのだ。
なんて、言える訳もなく。
時計を見ると八時五分前。時には人間諦めが必要なのだと呟いて、テレビをつけた。
ずっと立っているのもなんだから(と言うよりも私がテレビに近づいて観たかった)と、胡座をかく一番目の兄の膝に座って鑑賞した。
もしこのタイミングで他の兄が来てしまったらと考えたことや、たまに首筋にかかる一番目の兄の息だとか、色んな因子で私の心臓はドコドコしっぱなしだった。
もう、何で私の部屋にテレビがないのよ。早くバイトして、お金を貯めて自分の部屋にテレビを買ってやる。
密かに決意した。