エピソードⅤ
気候が暖かくなって、もうじき外に布団を干せるなーとか外で洗濯物を乾かせるなーとか考えていたのに私は風邪をひいてしまった。
「38度8分」
ピピッと鳴った体温計を引き抜くと表示されていた数字は私が風邪なんだと物語っていた。
しかし、ここで私がばたんきゅーしてしまったらお兄ちゃん達の朝ごはんもお弁当も作れなくなってしまう。幸い今日は土曜日だから3番目の兄と私のお弁当は作らなくて良いけど。
お兄ちゃん達が困ってしまう。心の中では大嫌い、怖いとは思ってきたけどやっぱり兄弟だからなのか心からは嫌いになれないから、彼等が困るのは嫌だ。
だから起きて今すぐにでも朝ごはんを作りたいのだが、「……起きれない」――布団が私から離れてくれなかった。
ダルい。暑い。熱い。気持ち悪い。ぐるぐる、頭が回る。あ、もうダメかも。吐き気がMAXに達した時、目の前が真っ暗になった。
次に目を開いた時も私は変わらずに布団の上にいた。安心すべき事に枕元に嘔吐物はない。しかし、変わったことが一つ。
一番目の兄が横になる私の顔をじっと眺めているのだ。な、何故と慌てる余裕さえくれずに兄は目を覚ました私に視線を向けた。
「目を覚ましたのは良いが、まだ熱は引かないな」
ピトリ、一番目の兄の冷たい手が頬に触れた。私は全身汗をかいているから汚いというのに、一番目の兄は気にする様子も見せない。
「お、お兄ちゃん。何で?」
「普段は誰よりも先に起きて朝ごはんを作る茉央が今日はそんな様子がなかった。見に来たら汗だくで魘されてる茉央を見つけたのだ」
「……ごめんなさい」
「いや、謝らないで良い」
再び一番目の兄は私の頭に手を乗せた。
余りの優しさに私は拍子抜けする。お兄ちゃんなら『お前の自己管理がなってないからだ』と罵ると思っていた。だからこうも優しくされると驚いてしまう。
「風邪、引いた原因は分かっているしな。昨日の事だろう」
兄が言った風邪の原因である昨日の事件。思い出すだけで寒くなる。
昨日、二番目の兄が会社からビニールプールを貰って帰ってきた。子供が庭でよく使って遊ぶアレだ。それを兄は私に渡して、一緒に入ろうと言ったのだ。
確かに、子供の頃に熱い炎天下の中ビニールプールで遊ぶ同級生を見ては呪っていた記憶はあるが、今使いたいとは思ってもいなかった。それに、今の季節からしてもプールはあまりにも早すぎる。
だから、最初は嫌がって(露骨に表現すると泣かれると思ったから、優しく遠慮して)いたのだが、絶対に入る気だった二番目の兄は段々と鬱な態度になってきて頷くしかなくなった。
二人で(主に二番目の兄が勝手に)ビニールプールを組み立て庭に広げて、水を溜めてプールを作った。そのプールに水を使用したのが一番の原因となったのだろう。
狭い子供用プールに女子高生と社会人がぎちぎちになって入っているという絵図は何とも滑稽だったのだろうと、今更ながらにして思う。
私はきちんと中学の指定水着を着て、二番目の兄は上だけ脱いで下は履いていたのだから尚更だ。
暫くして、三番目の兄が帰ってきて庭で私達が遊んでいる(?)のを見ると、一瞬顔をしかめたが上を脱いで狭いプールの中に入ってきた。
また、一番目の兄も帰ってくるとすぐに三人が庭にいることに気がついた。『お前達は季節を考えないのか』と、非難していたが結局は兄も入ってきた。
一番目の兄曰く、『翔と慧ばかり茉央に密着出来るのは狡い』との事だけど理解が全く出来なかった。
この兄弟はどれだけプールが好きなのだろうと、水が殆ど溢れぎちぎちのビニールプールの中で考えた。しかし、あれは最早プールとは言えない。密着し過ぎるナニカだった。
そんな感じでまだ肌寒い外気に触れながら兄達と格闘(?)していた私は、当然風邪を引いて今に至る。自分の不注意と、言うべきなのかは分からないけど。
「あの事については私の責任もある。年柄にもなくはしゃいでプールになんて入った私が悪かったのだ」
あんな仏頂面で入っていたのにまさかはしゃいでいたとは知らなくて、笑いたくなったのだが笑う体力もなかった。
「だから、私が茉央の看病をしてやろう。感謝するのだ」
兄にしては珍しくゆっくりと微笑むと、机からタオルを濡れタオルを取り出した。ま、まさかとイヤな想像が頭を掠め必死にその場をやり過ごそうと首を振った。
「だ、大丈夫だよ!? 私、げ、元気だし! 自分でやろうと思えば出来るから……ね、……」
私は元気だから、と言いたかったはずなのに語尾はどんどん弱くなっていって終いには自分にすら聞こえなくなった。
急に大きな声を出したからなのか、息切れがする。こんなのどう見ても元気じゃない。
そんな阿呆な私を、兄は呆れた様な目で眺めてから濡れタオルを優しく握りしめて額から流れる汗を拭き取ってくれた。
「清拭されると思ったか?」
的をついた兄の質問に心臓を大きく鳴らせてから、こくりと頷いた。
確かにその通りで、私は兄に服を全部脱がされて身体を拭かれると思ったのだ。まあ、ベトベトしてて不快だけど兄に裸を見られるのは恥ずかしいからね。
「して欲しいのならするが……だろうな。なら、茉央が羞恥心を感じないであろう場所だけ拭いてやろう」
ぶんぶんと否定の意味で頭を振る私を見てはくすりと笑い、濡れタオルを洗ってから再び額を拭いた。額、頬、鼻、首、襟元から覗く胸元の一部分をゆっくりと拭いていく。
兄の動作は完璧すぎて羞恥を感じない筈だったのに、私の頬は赤らんでいた。だって仕方がないじゃないか。こんな距離で兄にずっと見られてるみたいな事は初めてなんだから。
この赤さは熱のせいなんだ、と勘違いしていて欲しい。
「何か食べれそうか」
清拭を終えた兄はタオルを洗いながら私に尋ねた。
「ん、胃に優しい物だったら」
蚊の様な消え入る声で答えると兄は「暫し待て」と言い残し私の部屋を後にした。
トントントントン……とリズム良く階段を降りる音をぼんやりと聞いて、数分も経たないうちに私の部屋の扉は開かれた。
帰ってきた兄は手にお盆を持っていた。お盆の上には小さな鍋が乗せてあった。それを私の机に置いてから蓋を開けた瞬間、ほわんと卵の良い香りが混ざった湯気が沸き上がった。
「何、それ?」
「卵粥だ。私が作った。食えるか?」
頷くよりも先に香りに翻弄されたお腹がぐうっと返事をした。それを咳払いで誤魔化しながら大きく頷く。
「熱いから気をつけろよ」
ふうふうとスプーンに乗せた少量の粥を息で冷ましながら、あーんと口元に運ぶ兄の姿が、私の知る兄とは全く違っていて思わず戸惑った。けれどお腹の空いた私はすぐに口を開けた。
あーん、という言葉を堅い兄が使うことに驚いたのだが食べることに夢中になっていたらそんな気持ちも忘れていった。
兄が作った卵粥は他人が食べたら何これ? と言うような出来具合だったけど、兄の優しさという調味料が入った卵粥は私には美味しく感じられた。