エピソードⅣ
「茉央」
ある日の学校帰り。私が道を歩いていると後ろから名前を呼ばれた。聞き覚えのある声だけど、思わずびくりと体を震わせた。
くるりと振り返り見ると、後ろには一番目の兄が。やっぱり、この声はお兄ちゃんのだったと、口の中で呟きながら足を止めた。
「お兄ちゃんも、今帰り?」
平然な顔を見せて、兄に笑ってみせた。けれど、内心ドキドキで心臓が飛び出そうだった。
「そうだ。奇遇だな」
兄は私の隣まで歩くと、止まる私と同様に止まった。
奇遇じゃ、ない。きっと腹黒い一番目の兄のことだからわざと早く仕事を切り上げて私に意地悪するために帰ってきたんだ。
今日は何をされるんだろう。前みたいに抱き締められたりするんだろうか? 嫌だな。恥ずかしいし、分からないけど胸がぽかぽかして苦しくなるし。
もしも今日も抱き締められたらすぐに逃げて帰ろう。と、密かに決意した。
兄が私を見ているのは分かるが、わざとに目を合わせないで何も言わずに再び歩き始めた。背中で兄も歩いたのを感じる。
「学校はどうだ」
「楽しいよ」
家の中よりもずっと楽しくて落ち着けるよ。すっごくね。と、嫌味ったらしく言ってあげましょうか?
「そうか。良かった」
滅多に笑わない、もし笑ったとしても嘲笑する様な笑みの一番目の兄が柔らかく笑った。上機嫌に、優しく。人が変わったみたいに。
それを見た瞬間。ぽくん、頭を柔らかい棒で叩かれた様な衝撃が走った。
ありえない。一番目の兄がこんな表情をするなんて。きっと何か悪いことを企んでいるんだ。じゃなかったら、おかしすぎる。
兄の笑顔の理由が悪いことだとしか考えられない妹なんてどうかしてるとは、思うのだけど兄なら……と悪い妄想が広がってしまうのだ。
「お兄ちゃん。私さ、ちょっと用があるから先帰ってて」
嘘だけど。本当は一番目の兄と一緒に帰りたくないだけです。なにかされるかもしれないし……。
ちらりと一番目の兄を見ると、先程の表情は消えていていつもの無表情のまま口を開いた。
「今日は暇だからついていこう」
「え? 今何て言ったの?」
あまりの驚きでつい、大きな声で聞き返した。
「? だから、茉央の用を私も一緒に手伝うと言ったのだ」
「ん、え、ああ……そう、なの」
「今日の茉央は変だ。調子が悪いのか?」
「悪くないよ。全然」
むしろ、悪いのはお兄ちゃんの方だよ。いつもだったらそんな優しいこと言わないじゃん。とは言わずに、一番目の兄から目線を外して頭をかいた。
「で、どこへ行くんだ」
「うーんと」
首を捻って唸った。実際、用があると言ったのはぴょんと口から出た嘘だから考えていた訳じゃない。
だから、特に買い物に行く用事もないし、大体今日はお財布を家に置いてきてるしと口元に手を当てた。
「おい、茉央。本当に大丈夫か?」
「うん……って、ええ!?」
お、お兄ちゃんが私の目の前にいて顔を覗き込んでいる!?
そんな不思議な現象についていけなくなった頭はショートして、お互い歩いているということを忘れて思いきり一番目の兄にぶつかった。
「っ」
「ご、ごめんなさい…よそ見してて、気づかなくて」
「大丈夫だ。それより、茉央に怪我はないか?」
「ひゃっ、ん、大丈夫」
冷たい一番目の兄の手が私の頬を滑った。それに反応して、私の肩が大きく跳ねた。
「大丈夫じゃない。茉央の頬、凄く熱を持っている」
それはお兄ちゃんの手が冷たすぎるから熱く感じるだけで本当はそんなに熱くない、と思って私も頬に触れたが凄く熱かった。
凄く熱くて、ドクドクしている。それだけじゃなくて、心臓も五月蝿い。あれ、何で?
「きっと、風邪ひいたのかも。最近季節の変わり目で調子狂ったのかもしれない」
私はやけに早口で兄に告げた。分からないけれど、何かから逃げているみたいだった。
「なら用は今度済ませることにして、今日はこのまま家に帰ろう。茉央の病状が更に悪化したら困るからな」
病状って大袈裟な。と、呟くと一番目の兄は真面目な口調で返した。
「大事なものを心配するのに大袈裟はない」
「わっ」
そして、頬に滑らせていた手を腰に回すと一番目の兄は巧みに私を抱き上げた。
ちょっと、待って下さい。これって世に言う『お姫様抱っこ』というものではありませんか?
「ちょ、ちょっと」
「何だ?」
そんな当然なことをしている様な顔をされても困るって。私はお兄ちゃんに嘘しかついてないんだから、そんな簡単に信じないでよ。
それに、何で今日はそんなに素直に優しくしてくれるの? そんなんだから、調子狂ってドキドキしちゃうんでしょーが。
ああ、もう。今日の兄と私は、とても頭がおかしいみたいだ。