エピソードⅢ
じゅうじゅうと目玉焼きの焼ける音と匂いが私のお腹を刺激したせいで、ぐるるるっと鳴いた。
この家には家事をこなすお母さんという存在がないので、代わりに私がこなしている。
大変だし止めたいと思う時もあるけど、そうしたら家事が出来ない三人の兄は死んでしまうからなんとかやっている。
今は三人の兄の為に朝御飯を作っている。目玉焼きに味噌汁にご飯に胡瓜の漬け物。
和洋折衷だとかそんなことを気にしてはいられない。だって、学校に行く二時間も前に起きてお弁当や朝御飯を作っているんだもの。怒られる筋合いがない。
「……良い匂いだ」
「あ。…おはよう」
「ん。おはよう」
ぴょんと跳ねた髪を直しもせずにリビングに現れた一番目の兄は、寝ぼけ眼で私に返事をする。
そしてふぁっと欠伸を一つ漏らした。いつもならこんな時間は寝ているから、眠いのだろう。
「今日は起きるの早いね。何かあるの?」
「……昨日の仕事を途中で切り上げて帰ってきてしまったからな。それでだ」
「そっか」
別に早く帰ってきて欲しくないし、どうせ私へ嫌がらせする為に早く帰ってきて早く行くんなら、私が学校行った後に出て遅くに帰ってきて欲しいな。
なんて、口が裂けても言えない。
一人でいれる時間はご飯を作る朝と寝る時だけ(それ以外は兄が側にいる)だから、この時間が好きだったのに。一番目の兄が早起きしたらそれもなくなっちゃうじゃないか。
きっと、私が大嫌いな一番目の兄なりに考えた最高の嫌がらせなんだと思う。残念なことに大当たりなのが悔しい。
「嬉しそうじゃないな。どうした」
「んーん? 嬉しいです。お兄ちゃんが早く帰って来るなんてー、わーい」
心にもない言葉はどうしても本気には聞こえなかったみたいで一番目の兄はむっと顔をしかめた。
「茉央は本当に下手だな」
「何が?」
惚けたフリしてお皿を用意しながら振り向くと一番目の兄がすぐ後ろにいた。ついさっきまで冷蔵庫の前にいたから、思ったよりも近くて少し驚いた。
「っ」
「さっきの言葉本心じゃないだろ? 女の嘘に疎い私でも分かる」
「ほ、本心だよ。本当に、お兄ちゃんが帰ってきてくれて、嬉しい」
普段嘘をつかないせいか、一番目の兄が真後ろに立っているせいか分からないけど背中がじんわりと熱くなる。
「ふうん」
やっぱり信じてくれない兄。目が、それは嘘だろと見抜いている。そりゃ嘘だし信じないのは確かだけど、これ以上嘘をつけないと悟ってその場を逃げようとしたその時だった。
「……っ」
ぐいっ、と腕を後ろに引かれたと同時に私は兄の腕の中に移動した。つまり、兄に抱き締められた。え、え、え? と思考回路が混乱する。何で、こんな状況に陥っているのか考えても分からない。
とにかく、抱き締められるということは実の兄でも恥ずかしいものでそれを悟られないように、腰に手を回されてこちょばしいとか、一番目の兄に背中が熱いのがバレてないかとかどうでもいいことを考えて気を紛らわせる。
変に恥ずかしがって兄のドS神経を歓喜させてもこっちが困るだけだし。前みたいにしたら……頑張れ私。
ここからはどれだけ平然とした顔でこの場をやり過ごせるかが、勝負所だ。もし失敗したら…うん、失敗した時は考えないでおこう。
「皆の分の朝御飯冷えちゃうよ」
必死に抱き締めることとは別の話題で兄の気を反らそうとする、が意味がない。興味無さそうな声で兄が言う。
「関係ない」
「目玉焼きが」
冷めたら美味しくないと言って私を困らせたのは、どこの誰だった?と、答えは一つの問題を出して本人に問い詰めたいという欲望はさておき。
兄は私の言葉を最後まで聞かずに耳元で囁いた。
「黙って私の腕の中にいろ」
ぎゅうっと、一番目の兄の腕の力が強くなった。
ちょっと待ってと振り返った時に、ちらりと見えた一番目の兄の顔。必死そうに目を瞑っていた。そんなに余裕のない、声と態度だとこっちまで冷静さをなくしてしまうじゃないか。
何で、私を苛めるだけなのに必死な顔をするの。何で、耳まで赤くしているの。何で、何で?お兄ちゃんがそんな顔をするせいで、私まで恥ずかしくなったじゃない。何でよ。
そんな問いかけすら出来もしない空気に耐えられない。
「お兄ちゃ――」
重苦しい空気を打ち砕こうと口を開いた時、ガチャリ、居間の扉が開いた。救世主現れる! と、内心踊り出しそうな気分で見れば、そこには寝起き姿の二番目の兄がいた。
二番目の兄は寝る時に必ず抱いているウサギの人形を脇に挟みながら、小さく欠伸した。そして、私たちを一瞥すると笑った。
「あれ、碧兄さんがこんな早起きするなんてめっずらしー」
「っ! 翔か」
兄は私から離れて、居間に入る二番目の兄を睨み付けた。そして二番目の兄も一番目の兄を睨み付ける。見えないけれど、バチバチ火花が燃えているのが分かった。
私としてはやっと解放されて一安心といったところだったんだけど、兄達はそうはいかなかったらしく刺々しい話し方で会話を始めた。
「あー、僕ったら最高のタイミングで入ってきたみたいだね。でもって、碧兄さんにとっては最悪のタイミング」
おどけた様な、バカにした様な態度で二番目の兄は言うけれど不思議なことに眼だけは闘志を燃やしている。
「馬鹿でも分かるのか」
兄が鼻で笑う。兄達が話している内容はさっぱりだけど、ここまで聞いていたら私は二番目の兄の味方につくだろう。まあ、それを言ったら私は塵として消える。いや、兄に消される。
「そりゃ、分かるよ。茉央が関わる時の思考回路は兄さんと一緒だから」
「最悪なことにな」
「最悪だよね。まったく、碧兄さんまでそうなるなんて思ってなかったし」
「それは私の言葉だ」
私に関係がある様で内容が伝わらない二人の会話を聞くのを止めて、放置していた目玉焼きをお皿に盛り付ける。
これだけ時間が経っているからもしやとは思っていたが、目玉焼きは冷えていた。これで冷たい! なんて怒られても今回に限り私のせいじゃない。
「ま、こんなことを朝っぱらから競っても意味ないよね」
「堂々巡りも良いところだからな」
話の決着がついたのか、一番目の兄は私に向きかえった。決して笑顔とは言えないけどまだ普通の表情で、ほっと安堵して胸を撫で下ろす。
「朝御飯にするか」
「そうだね」
兄の言葉に私はカチャカチャと食器を持ちながら答えた。
四人分の皿を何とか一回で持とうと無理矢理頑張っていたら、私の姿を見ていた二番目の兄がすっと助けに来てくれる。
「無理しちゃ、ダメでしょ? もっと僕を頼ってよ」
寝起きだというのに兄の柔らかいスマイルは衰えない。私の持っていた目玉焼きの乗った皿を二枚持って、一緒に居間に移動する。
「翔兄ぃ、ありがとう……え」
両手で持っていた皿の重さが突如無くなった。何だ、と見ると一番目の兄が私の皿を持っていた。それも、拗ねた様な不思議な表情で。
「……私に頼れ」
ボソリ、小さく呟いた。
私はこの皿を持っていくから、手伝うんだったらご飯を盛って欲しかったのに。と、思いつつも小さく頷いたら何やら兄が不可思議な単語を並べて感情を表現していた。大体のニュアンスで感じ取ったら、嬉しいということが伝わった。うむ、謎だ。
席につくと、何故か兄達はどこに座るかで揉め始め(基本起きる時間がバラバラで被ったことはない)私が一番目の膝の上で食べるとか、二番目の兄にあーんして食べるとか変な案があがった。
結局は私が朝御飯は電車の中で食べるから、先に食べていてと言ったことで事態は丸く収まった……と、思う。
その後、妙な沈黙が生まれる居間から抜けた私は内緒でキッチンでご飯を食べていた。幸い誰にもバレずに済んだ。
今日の朝はいつもの何倍も長い気がした。