エピソードⅡ
一番目の兄は生まれた頃は凄く目が良かったんだと、二番目の兄が教えてくれたのを覚えている。しかし、記憶の中にある一番目の兄はずっと眼鏡をかけている。
つまり、私が物心ついた位の年齢にはもう兄は眼鏡をしていたということになる。一番目の兄は私の個上だから、歳位には眼鏡をかけていたのだろうか。
それだけ長く目が悪いのだから、コンタクトにすれば良いのにと言ったことがある。返事は「私の目には度が合わない」だった。
コンタクトも合わせられない程目が悪いということなのか、目が良く生まれてきた私にはピンとこないがその眼鏡がないと生きていけないということは十分理解していた――が。
スリッパの下から聞こえたバキリ、という無機質な音と共に一番目の兄の大事な大事な眼鏡が無惨な姿へと変貌していた。
犯人は勿論誰か分かっている。
だからこそ、迷宮入りにしたいところだけど、眼鏡がなくなるという最大の事件が起こって兄が気がつかない訳がない。
どうしよう。どうすれば良い。何をしたら眼鏡は復活する。そもそも、眼鏡を直すということよりも兄を眼鏡なしで生きていける身体に変えれば良いのだ。
けれど、そんな方法は知らないし実践できたとしたら私は最早キリストの領域に達することになる。
ああヤバイ。頭が現実逃避を始めて、肝心なことを考えられない。
ぐるぐる色んな案を出しては消していく自分の頭に翻弄されながらうーん、うーんと唸っていると時間は過ぎ去っていき……私が気がつかないうちに皆が起き始める時間になっていた。
ぎ、ぎ、ぎー……
私の家の扉はまるで魔界に繋がる扉かと思わせる程重く、恐ろしい音をたてた。そして、その扉から出てきたのは眉間にシワを寄せて般若の様な顔の一番目の兄。
私が眼鏡を壊したという事実にまだ気がついていない筈なのに、既に怒っているみたいで心臓がどきりと悲鳴をあげた。
「昨日、居間に眼鏡を置いて自室に帰ってしまった様なのだが、私の眼鏡は見ていないか」
「……」
言えない。貴方の眼鏡とおぼしき物体は私の足の下で潰れて原型を留めていません、なんて。けれど知らないよ、と嘘をつくことも出来ないし。嘘をついたら殺す勢いで怒られるのも分かってる。
すっ、と足を退けて自分の足元を見ると、やはり変形した眼鏡がいた。
意を決してそれを持ち上げると、兄は見えないから更に眉間にシワを寄せて私の行動を眺める。その表情すら既に怒られているようで怖かった。
すっと息を吸ってから口を開いた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。……お兄ちゃんの眼鏡を壊してしまいました」
「……ほう」
暫しの間を置いてから兄は笑った……と、表現すべきか判断しかねる程に邪悪に口角を上げた。
本当に冗談抜きで魔王が降臨したのかと思って身震いをした。これが兄だと思うと自分の将来が不安になってくる。
さて、私はこれから一体全体どんな罰を受けるのであろう。こんこんと説教を受ける? まだ、ましか。それよりも抱き締められたりする方が精神的にくる。
「正直に言うのは偉い。だが、眼鏡を壊した罪は重いぞ」
「わ、分かってます……だから、私の出来る範囲内で罰を受ける所存でございます」
出来る範囲内。そこを一番強く言うと兄は再び『……ほう』と笑った。
「では、今日一日中私の命令に従うという罰はどうだ。いやしかし、これは罰にならないか?」
兄は口元に手を当て真剣に考えている、が。それはどう考えても私にとっては罰ですよ。とは言えない。
蛇に睨まれた蛙状態の私はただこくこくと頷いて「わ、私の出来る範囲内の命令でしたら……」と、か細く言うことしか出来なかった。
「えっ、と。お兄ちゃん……これは?」
一番目の兄から渡された、今日やるべき事という見出しのついた紙を見て聞いた。それには庭の草取りやお風呂場の掃除、等々いくつもの雑用が書かれている。
まさか、これをやるんじゃ……ない、よね?
「これは私がやろうと思っていた事を纏めた物だ」
じゃあ私がやらなくても大丈夫ですね、と笑って帰ろうとしたら、一番目の兄は邪悪な笑みで私の肩を掴んだ。
「眼鏡」
たった一言の言葉で私はすぐに状況を理解して、庭へと飛び出した。草むしりをするために。兄の機嫌を損ねないために。
「あれ? 茉央どうしたの? 草むしりなんてして……」
私が草むしりを始めてしばらく時間が経った頃であろうか。二番目の兄がスーツ姿で帰ってきた。
「ちょっと、いろいろあって……」
まさか、一番目の兄の眼鏡を壊してしまってその代償として働かされてます。なんて言える筈もない。
もしも言ったとしたら、二番目の兄なら怒ってそれこそややこしいことになってしまう。
「へぇー……じゃあ、僕も手伝うよ」
意味を分かったのか、分かってないのかも私には分からないけど、二番目の兄は腕捲りをして私の横にしゃがんだ。
そして、私の手を見て眉をしかめる。
「ねえ、何で手に怪我しているのに草むしり続けてるの? 僕、茉央が傷つくのが世界で一番辛いことだって知っててやったの?」
「え?」
手を見るといつの間にか小さな傷が、何個か出来ていた。けれど、そこまで痛くもないし後も残るような傷ではない。
でも、兄にとっては私が傷つくのは何よりも耐え難いことのようで、その垂れた両目の端に涙を溜めていた。
「お願い。僕が草むしり代わるから、すぐに手を消毒してきて。包帯や絆創膏はちゃんと僕が巻くから、ね?」
逆らえない。優しい、私を気遣った言葉のはずなのに何故か重い。
「は、はい」
すぐに両手を二番目の兄に見えないように隠しながら、立ち上がりその場を後にした。取り合えず手についた草や泥を落とすために、洗面所に行こうと考えている時、背後から声が聞こえた。
「ったく、碧のやつ何で茉央にこんなことさせてんだよ。どうせ、こんな地味な嫌がらせはアイツしかいない……」
どうやら、二番目の兄には分かっていたみたいだ。
「……っ」
少しの傷でも、やはり水につけると染みた。けれど、二番目の兄はあまりにも過保護だと思う。傷が出来た本人が痛みがないのだから、泣かなくても……とは思うのだが私のことを思ってくれているのだと解釈したら少し嬉しくなった。
私だけしかいない洗面所。豪快に土や葉を洗い落としてから、振り向くと、一番目の兄がいた。
「お兄ちゃんっ?」
「手、見せるのだ」
兄は、許可も取らずに私の手を握りまじまじと眺めた。何するのだろう、と眺めていると兄は私の手を自身の口に近づけ、キスをした。え、え? キスをした?
「お、お、お兄ちゃん? それは、私の手で、洗った直後とはいえ汚いものですよ?」
思わず敬語で、そのまま手を握りながら私を見る兄に言った。兄は不思議な顔をしている。当然のことを叱られたかのような表情だけど、違います。ありえません。
「茉央の手だと承知している。そもそも、茉央以外の女の手なんて触れるはずがないし、触りたくもない」
そんな甘い台詞は妹にではなく、彼女か恋人に吐きましょう。と、誰か兄に教えて下さい。
一番目の兄は誰よりも頭が良いはずなのに明らかにズレている。妹にキスして、妹以外の女に触らないと言うことが正常なら私は今すぐに日本を出てやろう。
「あ、ははっ……お兄ちゃんはどうしてここにいるの?」
まさか、と想像してやっと合点がいった。兄は眼鏡を壊された腹いせに私を苛めにきたのだ。
それしか考えられない。甘い言葉できゅんとトキメキそうになっている私のことを腹の中では笑っているはずだ。
「すまない」
「え?」
兄は目を伏せた。すまないって、私の記憶の中では謝罪の言葉となっている……けど、兄が謝罪なんてするはずない。なら、きっと私の勉強不足で分からないだけで『すまない』という単語に『お前は阿呆だ』という意味でもあるのだろう。
「私の命令のせいで大事な手を傷つけてしまった。すまない」
息を飲んだ。兄が、私に謝った。まさか、そんなはずはないと何度も他の可能性を探すが出てこない。やはり、一番目の兄が私に謝っている。あの、誰よりも心が強い兄が、私のせいで謝っている。
「何で? 私のせいだよ。お兄ちゃんのせいじゃない。お兄ちゃんが謝る必要ない。……お兄ちゃんは正しいから」
一番目の兄は兄弟の中でも一番威厳があって、強い。そんな、存在の兄が私に謝る、自分の非を認めるということが、何故か私にとって嫌だった。
何があっても一番目の兄は正しい。自分の概念が崩れそうになるのが、怖かったのかもしれない。
「ふ、何故茉央の方が傷ついた顔をしている。やはり、茉央は阿呆だな」
兄が、ふと笑った。
今度の笑顔では、バックに邪悪な鬼も閻魔様も背負っていなかった。拍子抜けして思わず私も笑う。
「じゃあ、最後に一つ命令する。それを実行出来れば眼鏡のことは許してやろう。聞くか?」
「は、はい」
私は拒否権なんて立派なものを持っていない。ただ、兄の言葉に頷いた。すると、兄は小さく咳払いをして呟くように言った。
「……私にキスをしろ」
「はい?」
耳が遠くなったのか、変な言葉が聞こえてしまった。今度耳鼻科に行こう。ポンポン、耳を叩いていると兄は顔を赤くさせ「二度も言わせるな」と言った。
え、っと、つまり、それは私の最初に聞き取った言葉が間違えてないと言っているのでしょうか。だとしたら、なんて鬼畜な命令を出すんですか。
やっぱり、兄は眼鏡のことを根に持っていて私を苛めたいと思っているに違いない。
こんな、酷い命令を出すなんて、と怒りで震えながらも私には『兄にキスする』という選択肢しか与えられていなかった。
神様はどこにいるのですか。
「こほん」
キスをすれば、唇を押し当てればそれで終了なんだからと、自分に言い聞かせて喉を鳴らした。ようやく、心の準備が整った。
勢いよく兄の服の裾を掴んで、私を見るために少し下を向いた顔に目を閉じながら近づいて、キスをする。ホンの一瞬のことのはずなのに、私には永久のように感じる。
ちゅ、と私を解放する音が聞こえた。
やった、と瞼を開くと鋭い兄の目が真ん丸くなっていて、その中心で私を捉えていた。驚きの表情、といえば良いだろうか。それを見て、私もまた驚いた。
「命令、でしょ?」
唇を押さえながら目を白黒させる、兄に問うと兄は頬を紅潮させながらも言う。
「わ、私が言ったのは、手にキスをしろという意味であって唇にしろだなんて言ってないのにしたということは……私を誘っているのか? 積極的な茉央も良いが……」
「ち、違うっ!!?」
まさか手にするだけで良かっただなんて思ってもいなかった。と、説明してももう遅い。何故か興奮している兄の耳には届かない。
その後、異様に手洗いが長い私を心配して二番目の兄が洗面所に来たことで、一番目の兄に抱き締められる程度で済んだ。
もう、二度と兄の眼鏡は割らない。心から誓った。