エピソードⅠ
何がきっかけか分からない。何が怒らせるのか分からない。全てが理解出来ない。そんな存在が一番目の兄だった。
「お兄ちゃん」
半強制的に言わされているこの呼び方。『お兄様』でも『兄さん』でもない『お兄ちゃん』を気に入っている様子で、一度『碧兄ぃ』と呼んでしまった時はこっぴどく叱られた。一番目の兄は珍しく顔を赤くして、『私の心臓が持たないだろうが』と意味の分からない理不尽な内容で怒った。
だから、一番目の兄だけは他の二人と違って『お兄ちゃん』と呼んでいる。まあ、呼び方は怒られなきゃどうでも良いんだけど。
コンコンと扉をノックしながら呼ぶと奥から「入れ」と声が聞こえてきたから、一番目の兄の部屋に入った。
兄の部屋には数回しか入ったことがないが前来た時と変わらず大量の本と机とベッドという殺風景な部屋だった。
兄はどこにいるのか? と探してしまう程高く積まれた本の山の中に一番目の兄はいた。机に向かってガリガリと何かを熱心に書いている。
私を呼んだクセにちっとも私に構おうとしないで(別に構って欲しい子という訳ではなく)、兄はひたすらに勉強? している。
けれども私は兄のその熱中している時の横顔が好きだ。熱心にただ一つだけのことを考えて、一生懸命になっている顔を見ているだけで私まで嬉しくなってしまう。
ところで、私は何故呼ばれたのだろう。一番目の兄はこの様に集中してしまうと自分の世界に入るから、私は不必要で邪魔な存在のはずだ。
幼い頃、何も知らなかった頃、こんな風に熱心に何かに取り組んでいる時の一番目の兄に話しかけてしまったことがある。その時は、『邪魔だ』と睨まれた。
もう二度とあの時の失敗はしない。だから、この状態の兄に話しかけない。そうすると、やっぱり私がここにいる意味がない。
どうしてだろうと、疑問を抱えながらも兄が作業を終えるのをベッドの前に座って待った。
「ふぅー……」
大きな一番目の兄のため息が聞こえてきて、作業が全て終わったのだと悟った。
「お兄ちゃん、お疲れ様」
私が声をかけると兄は回転椅子を回して「何だ。まだいたのか」と不思議そうな顔をした。
勝手に部屋を出てったら怒るじゃんか。だから、暇だけどずーっと待ってたんだよ。という言葉は飲み込んで笑った。
「うん、ずーっといた」
「そう、か」
無造作に伸ばした髪の毛をがしがしと乱して一番目の兄は、ベッドに飛び込んだ。ぼふんと風が舞うが、綺麗好きな兄の部屋には埃は舞わない。
「……疲れた」
珍しく弱音を口にする一番目の兄。そんなにも心から疲れているのか、と思いきやすぐに起き上がり私を見る。
「来るのだ」
私の方に手を伸ばして、一瞬、私を呼んでいるのかと思った。いや、でも一番目の兄が私を呼ぶ訳が…と、後ろを見るが誰もいない。
今の言葉と手は私に向けられていた様だ、けど何で? 急にそんな普通の兄弟みたいなことをしようとするのだろう。
まあ、うたうだ考えて兄を怒らせるのも面倒だから素直に立ち上がり、ベッドに横たわる兄の手を取った。
「お兄ちゃんの手ぇ、熱いね」
熱がこもった一番目の兄の手のひら。物心ついた頃から既に大きくて私の手を簡単に包み込むことが出来る。
「真央の手は冷たくて良い」
兄は自身の手のひらに乗せた私の手の上に重ねるように手を乗せた。私の手が兄の手の中にサンドされることになる。
そりゃあ、何もしないでぼーっとしてたら冷たくなるよ。という言葉は飲み込む。飲み込む。
ぴとり、と私の手首を掴んで兄は自身の頬にくっつけた。兄は手だけでなく頬まで熱い。……とか、冷静に考えている場合じゃなくてこれは何? 一番目の兄の新たな嫌がらせ?
に、しては目が優しく見えるけどどう反応すれば良いの? どうしてこんな行動をとるのだろう。
「お兄ちゃん、私、もう部屋に帰るよ」
思考を止めた私の頭は逃げることを選んだ。しかし、それは間違った選択だったと知るのはホンの数秒後。
兄の頬から手を離そうと引っ張るのだが、それ以上に強い力で腕を握られて悟った。兄の目が先程の様に優しくないことを。
「ぃ、たいよ……」
「今、何と言った」
高圧的な一番目の兄の声。顔を見なくても怒っているのが伝わってくる。
また、やらかしてしまった。きっと先程の私の言葉が兄の琴線に触れたのだろう。私は一番目の兄を怒らせてしまった。つまり、この後は――
「ご、ごめんな……っ」
「謝罪は求めていない。何と言ったか聞いているだけだ。ああ、煩わしい。真央、私の横へ来い」
やっと望んでいた私の手の解放、しかし次に待つのは――兄の説教だ。兄は私が兄の想像上の行動から逸脱すると、怒るから。
これ以上怒らせないように、私は黙って兄の横に座った。ぎぎっと、スプリングが私達の空気を割く。
すると、一番目の兄の特有の体臭が鼻をかすめ、私は気がつくと兄の胸の中に収まっていた。嫌いじゃない……寧ろ好きな臭いに鼻孔がヤられ頭がクラクラする。
そう、頭がクラクラしてまともじゃないから兄に抱き締められているなんて妄想を見てしまうんだ。けれど兄は私の横っ腹をぷにぷにしながら平然と言う。
「真央、きちんと一日三食取っているのか? 肉がないぞ」
「そ、それは……」
胸が小さい私への嫌みでしょうか? と、言いかけたがやめた。私の胸について語り出したら止まらなくなりそうだから。そもそも胸は脂肪の塊だから肉がないとは関係ないし。
それに、私の横っ腹を触って話しているのだから今は胸のことには触れていないのだった。あまりにも深読みしてしまった。
「女性は将来の為にも肉をある程度つけておかないと危険だからな」
「将来の為?」
私が問うと、少し焦りが混ざった返事が返ってきた。
「しゅ、出産の時に必要だろう。ということだ」
ふうん、出産なんてまだまだ先なのに。と、軽く頷いていると更に焦った声が頭の上から聞こえる。
「だが、私の目が黒いうちに子供を産むのは許さないからな」
「お父さんみたいだね」
私がクスクスと笑うと、「そうじゃなくて、私以外の男と性行為をしなければならないことになるとか、色々と心配してだな」と、何やら危険なことを口走った。けれど、それは兄の中の父性からの行動だと解釈しておこう。