エピソードⅠ
ある日の夕方。晩御飯も作り終わり、暇になった隙に私は今ハマっている一冊の本を取り出した。
デビューしたばかりの新人作家にも関わらず、賞を総舐めし文豪の名を欲しいままにした花瀬薫のデビュー作だ。
最近、学校祭の準備とかで中々自分の趣味に時間を割く余裕がなかったから、本を読むのも久し振りだ。
ワクワクしながら本を広げ、新たな世界へ飛び込んだ。
しかし、すぐに現実に引き戻される。
それはある一つの単語であった。
私は虚ろな目でそれを眺め、指でなぞった。
――確信犯。
意味は『悪いことだとわかっていながら行われた犯罪や行為。また、その行為を行った人』
私はこの単語を聞くと決まって二番目の兄、翔兄ぃを思い出す。
「めっずらしー。茉央が読書だなんて。今日は何の風の吹き回し?」
背後から近寄り、話し掛けてきたのは丁度考えていた二番目の兄だった。
噂をすればナントヤラ、か。
思わず驚きで落としてしまった本を拾い上げ、何事もなかったかの様に再び胸の前で開いた。
「か、翔兄ぃ……お帰りなさい」
「ん。只今。良いね、お帰りって言われるの。夫婦みたいで好きだよ。僕は茉央と夫婦になりたいなー」
「ふっ、夫婦って……私達兄妹だよ?」
「ぶふっ! なーに、真剣に答えてるの! そんなの分かってるじゃん」
「ま、またからかったの?」
そうだよ、と兄はニヤニヤ笑う。
ああもう、また?
二番目の兄はよくからかってくる。男性に免疫のない私が真っ赤に照れてるのが可笑しいんだ、きっと。
だから、兄と話す時はなるだけ気を付けて赤面しない様にするのだけど、不意を突いて兄は言うから避けようがない。
赤い頬の火照りを冷ます為に、擦りつつ兄に視線を向けた。
まだ、ニヤニヤ笑ってる。絶対、何か仕出かすな、これは。
「翔兄ぃ、何で私を見てるの? おやつでも用意する?」
「ん。欲しいな。出来れば甘めのが良いなー。茉央の唇みたいにあっまーいの」
油断してた。
私が呆けている間に兄は顔を寄せて、唇を押し当てた。
幸い、頬であったから良かったが数センチずれてれば唇に当たっていた。
ファーストキスに夢見る乙女ではないが、その相手が二番目の兄なのは気にくわない。
「こ、こ、ここはアメリカじゃないんだよ?」
頭ではあくまで冷静を保てていると思ったのだが、体は正直に動揺していた。
目がギョロギョロと落ち着かず、背中を冷や汗が伝う。
今日ほど自分のバカ正直な所を恨んだ日はない。
「ぶふっ! 知ってるよ。そんなの。動揺しちゃって、可愛いの」
「……可愛く、ないし」
これ以上二番目の兄の側にいたら、私の身に危険が及ぶ。
察知して、すぐさまおやつ作りという名目の元にキッチンへ逃げ込んだ。
って待って、何でついてくるの?逃げた意味ないじゃん。
兄は、わざわざ自分こ為に椅子を居間から持ってきて、リビングと居間を繋ぐ通路を塞ぐ様にして座った。
追い詰められた。後ろは壁、横はキッチンと冷蔵庫、前には威圧かける兄。どうやっても逃げれない。
私の視線で内心を読み取ったのか、兄は「逃げようとしても無駄だよ?」と言う。
その心意を読める敏感さを、有効活用してくれれば、もっと良いのに。
……もしかして、私が嫌がっているのを分かった上で兄はさっきの様な言動を繰り返すの? 悪魔過ぎる。
「小悪魔が良いんだけど」
また、私の表情を読み取ってか、兄はニヤニヤ笑いながら言う。
「翔兄ぃはサイコメトラーか何かなの?」
「そんな訳ないじゃん。茉央が分かりやすいんだって」
「もう、これから無表情になってやる」
「なれるんなら、なってみな?」
兄は小馬鹿にした態度で、私の頭を優しく撫でた。
だから、そういう無遠慮なスキンシップがダメなんだってば……危ない。危ない。表情に出る所だった。
何事もなかったかの様に、おやつ作りを開始した。気を紛らす為に、素早く動いて視界から二番目の兄をなくす。
卵、グラニュー糖、薄力粉……必要な材料を棚に上げる。
私が今から作ろうとしているのは、抹茶のケーキ。
兄の嫌いな苦めの抹茶をふんだんに用いて、全く甘くないケーキを作ってあげようと思う。
優しいでしょ?
私の唇の様に無味にしなかっただけマシだと思うのね。ふふん。
「ええと、レシピの本は……」
「まさか最初から作るとは思ってなかったな。おやつなんて食べる気なかったよ。さっきのアレ、茉央にちゅーする為の口実だし」
「ちゅ、ちゅーとか、甘い、食べるだし、だから、ね」
「何言ってるか分からないし、無表情は何処行ったの?」
私のミスを指摘する時の兄は決まって、最高に良い顔をする。それは、きっと知らない女の子なら見惚れる位の爽やかな笑顔。
その笑顔を出すきっかけが、楽しいとか落ち着くなら素敵なんだけど、きっかけがきっかけなだけに、ゲス顔にしか見えない。
ある意味、兄にとっては『楽しい』のか?
大嫌いな私が慌てふためき、ミスをし、狼狽する姿を見る事が。
この人は小悪魔なんて生温い生物じゃない。デーモンだ。ベルゼブブだ。
「只今、無表情はお出かけ中ですから、暫くは戻って来ないと思います」
作業をしながら、言う。
二番目の兄と会話する時は何かしながらが一番だ。話半分に聞けば、どんな羞恥を与える言動だってガード出来る。
「ちぇっ。必死にポーカーフェイスを貫こうと努力してる時に壊す方がもっと盛り上がるのに」
「か、翔兄ぃの盛り上がりに私を巻き込まないでよ」
完璧に、ガード出来る訳ではない。
現に今、話半分に聞いたにも関わらず赤面させられてしまった。おそろしや、翔兄ぃ。
「ん。やっぱ、どんな茉央でも良いね。愉しくなる」
「う、うう……」
この上ない笑顔を向けるのは、私が笑顔の時にしてよ。半ベソかいてる相手に見せないで。
なんて、言える訳もなく、心の中で二番目の兄に向かって舌を出した。
知ってか知らずか、兄はきゅっと眉間にシワを寄せ苦笑した。
「む。何だ、この匂いは。茶か?」
一時間経ったか、経ってないかそれ位の頃。珍しく早くに一番目の兄が帰宅してきた。
リビングに入るなり、焼き上げている抹茶ケーキの匂いに気付いて目を細めた。
どうでも良いけど社会人二人が現役高校生よりも早く帰ってくるってどうかと思う。
まあ、もしかしたら三番目の兄は遊び回ってるだけかもしれないけど。
「お帰りなさい。そう、抹茶のケーキを作ってるの」
「晩御飯前だろう。食べれなくなってしまうぞ」
あれ? もしかして、一番目の兄は私が自分がすぐ食べる為に作ってると思ってる?
弁解しようか……いや、二番目の兄が出てきたら余計変な事になるから止めておこう。
何故か、一番目の兄と二番目の兄は犬猿の仲だし。と、二番目の兄を見れば椅子を立ちわざわざ一番目の兄に見える様な位置へ移動した。
「食べるよー。だって、僕の可愛い茉央が僕の為に作ってくれたんだし」
「茉央が、お前の為に、だと……?」
――何で、私が止めたのに怒りに火を付ける様な事しちゃうのよ。
呆れて溜め息が出てきた。この大人のクセに子供な二番目の兄は疲れるわ。
ほら、一番目の兄の表情が険しくなってるじゃない。……面倒な事しないでよ。
「羨ましいの? 自分は作って貰えないからって僻んでるの? あっほらしー」
「僻みはお前だろう。以前私が茉央にケーキを貰ったから、ねだったのだろう?」
「違うね。あんたが欲しがる大事なモノを奪った副産品に貰えたんだ」
「なん、だと……?」
「興味あるんだ? はっ、教えてやんないけどねー」
このバカな兄達はまだ抹茶ケーキは焼き上がっていないというのに何故口論をしているのだろうか。
火花が飛ばない様に穏やかに端っこの方で、二人を見やる。
二人とも変に熱が入ってる。
ここまで来たら引けないとでも思ったのか。高いプライドが邪魔するのか、どうでも良いけど私がいない所でやってください。
あ、あと三十秒で焼き上がる、とタイマーを確認した時だった。
フィーバーし始めた口論の火花が飛んできたのは。
「そんなのは本人に聞かなければ理解出来ないであろう。茉央、実際はどうなのだ?」
「ど、どうと言われましても……」
二番目の兄が悪戯して来るので逃げる目的で抹茶ケーキを作ってます。だなんて、言える訳ない。
二番目の兄に助け(?)を求めるべく、流し目で見やれば、何故か素敵な笑顔を浮かべている。
口元を隠しているけど、意味ないよ。
「ほら、早く言いなよ。茉央。僕が茉央に何をしてケーキを作る事になったのかアイツに懇切丁寧に説明してあげな?」
確信犯か、このう。
兄は私にとって悪い事だと見透かし理解しておきながらも、実行する。
人目が良い分、他の兄と違って質が悪い。
「あー、えーっと……」
――ピピピピピピピピピ。
所有者(私)のテンパり様が分かったのか、気をきかせてタイマーが鳴ってくれた。
ありがとう。君は、この家で一番私思いの良い子だね。と、よしよしする様にタイマーを止めた。
二人の兄は私の打ち切られた言葉を待っているのか、私に視線を向けたまま何かを訴えてる。
もう、折角ケーキが出来たのに。面倒な事は避けたいのに。まだ続けるの?
「えっと、取り合えずケーキでも食べる?」
「ん。食べるぅー。大好きな茉央の作ったケーキだもん」
そんなにケーキが好きだったのか……ん? 大好きな茉央? 大好きなケーキじゃなくて?
「あ、ありがと」
「あんたは食べないだろ? つーか、食べさせないよ。僕の為に作ってくれたケーキなんだし。涎足らしながら羨望の瞳で見てれば良い」
二番目の兄が私に駆け寄りながら、一番目の兄を見た。
見上げれば、二番目の兄が酷く冷淡な視線を投げつけている事に気がついた。
知らなかった。いつもこんな視線を送っていたのだろうか?
そうやって歪み会う理由は分からないが、何故か胸が握り潰される様な苦しい思いを感じた。
「生憎、私は外で食事を済ませてきたから遠慮する。感謝して食うのだな」
「はっ、嘘言え。まー、いつも感謝してるけどね。当然、茉央に」
「…………ふん」
一番目の兄は最後に鼻で笑うとそのままリビングを出ていった。ドンドンドン、と兄にしては珍しく強く階段を駆け上がる音に二番目の兄は苦笑してた。
バカにする様な笑みをぶら下げつつ。
「じゃ、じゃあ抹茶ケーキ食べる?」
「いや、良いよ。いらない。そんな気分じゃないから今度食べる」
早口に言い残して、二番目の兄はリビングを後にした。
私とホカホカ抹茶ケーキだけが取り残され、素早く過ぎていった事柄を思い出して疑問符を上げる。
去り際の二番目の兄の表情、初めて見た。怒っているのか、悲しんでいるのか、落ち込んでいるのか。どうとも読み取れる不思議な形だった。
泣きそうにも、見えた。
原因は、何?
曖昧な返事しか返せない私? 口論の相手の一番目の兄? 苦めの抹茶ケーキ? それとも、自分自身?
「分からないんだよ」
二番目の兄は貼り付いた笑顔の裏に何を隠しているのか、十五年間共に過ごしてきてもまだ分からない。
だから、嫌なんだ。
二番目の兄は分からないから、予測して行動出来ないから。
ああもう、と呟きながら出来立ての抹茶ケーキを一人で食べた。
「にがっ」
そう言えば、確信犯の本来の意味は『道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪』らしい。
兄は、私へちゅーする真似したり恥ずかしい言葉を浴びせたりするのを悪い事と確信していないのだろうか?




