二冊目 第四話
シャルル(仮名)は、私が色よい返事をするまでその唇を耳から離そうとしないようで、さっきからずっと耳から動こうとしません。
―――――う。 これは……どうすれば?
こんな経験なんて皆無な私に、一体どう対処しろと?
ロマンス小説だったら、ここであっさり陥落、だよね?
うん。その気持ち、初めて本当に理解した。
だって……だって。
耳をちょっと弄られただけでこんなに感じるなんて、誰も教えてくれなかった!
陥落、しそうです。
「瞳子。 どう……?」
低い声。 濁音で。 耳の奥の奥に響く、落ちる声。
胸の先で何かが疼いて弾けそう――――!
「だ……だって。 わたしはあなたを知らない」
同じ言葉の繰り返し。
それは本当のことだから。
この前ならこの言葉に凄く落ち込んだだろうシャルルは、そんなそぶりも見せず「うそつけ」とばかり耳朶を軽く噛んだ。
―――――!
「……あっ……! やめて……!」
「どうして? 本当は瞳子だって、嬉しいんだろう?」
「違っ!」
泣きそうになった。 自分が馬鹿で。
自分の体は欲望に正直。
噛まれた耳朶が、身体が、歓喜に震える。
……馬鹿だ。
また私は昨日と同じことを繰り返そうとしている。
「―――――泣くな、瞳子」
「泣いてない」
「そうか。ならいい」
そういって私をお姫様抱っこ(!)してソファに腰を下ろした変態さん。
小説ならここでさらにいっちゃいますよ?
……願わなくはないけれど、ほとんど知らない人となんてやだ。
私を愛してくれている、そして私もその人のことを愛している。
そんな関係で、……したいから。
「ねえ。 話、しようよ。」
「ん?」
「ちゃんとした話。そしたらあなたのことがわかるでしょ?」
「……そうだな」
ちょっと考え込んだシャルルは、なんだか顔色が冴えない。
まさか私、重たかった?
「名前、ちゃんと教えて」
「それは瞳子が知っている」
「わからないよ! 前にもいったけど、人に名前を付けたことなんてない。 だいたい人に名前をつけるなんて……自分の子供くらいだし。 だから。 私が知らないってことであなたが悲しむのは申し訳ないけれど。 ちゃんと今度は覚えるから。 だから、教えて」
「……」
切なそうに私を見下ろして、苦しそうに吐息をつく。
金色の長い前髪を払う仕草は、本当に絵になるけれど。 けど、何かが違う。
―――――そうだ、違和感なんだ。
シャルルから感じるのは、私への欲情と、違和感。
だけど、自制、してるよね?
私へすごく気を使っているのもよくわかる。
夢の中の理想の彼は、実は私が考えることにちゃんと反応するのでは?
そう思いつくと、試してみたくなった。
シャルルの端正だけどちょっと線が細すぎる顔を両手で挟み、私のほうへと誘った。
私がそんなことをするなんて思ってもみなかったシャルルは驚いた顔をしたが、すぐ柔らかく微笑んで私のするがままになった。
羽のようなキス。
啄ばむようなキス。
その瞬間、ぼっと自分の顔からまるで湯気がたつくらいに真っ赤になったことがわかる。
やりなれないことなんて、するもんじゃない。
相手が黒綺だと、簡単なことなのに。
手を顔から離して、ゆっくりと離れて行った私とシャルル。
その瞬間、シャルルの綺麗な手が私の頭に添えられ、感極まったように胸に押し付けられた。
「……わかったのか……?」
その手で私の顎を上に向けさせ、まるで素晴らしい贈り物を貰った子供のように最上級の笑顔を向けた。
その笑顔がとても綺麗で、ずっと見ておきたかった。
その笑顔が、曇った。
「時間だ」
**********
ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ
目覚まし時計が鳴り響く。
―――――今いいとこなのに!
ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ
だーーーっ! うるさいわっ!
ばきっ
目覚ましのアラームを渾身の力を込めて止めた。
あああああ。 なんていうことでしょう……。
一時の感情に負けて、目覚ましを壊してしまいました。
くっ。 また余分な出費が……。
壊れてしまった目覚まし時計を悔やんでも仕方がないのでさっさと見切りをつけ、瞳子は出社の支度をし始めた。
昨日は千紗に仕事を手伝ってもらっから、今日はランチでも奢りますか!
どこに行こうかな。
あ、でももう本がないから買い足さないと。
帰りに古本屋さんにでもよって、補充だな。
新しい展開の話があればいいんだけど。
朝の支度は忙しい。
ばたばたと用意しつつも、いつものルーチンなので手際よく準備ができた。
あれ?
帰ってきてから汚くなった部屋は見たくないので、いつもはある程度片づけをしてから出社する。
その慣れた手つきがふと止まった。
これ……黒綺の首輪……?
昨日までは確かになかったはずの、土日ねこの黒綺の首輪がソファの下に落ちていた。
なんでこんなところにあるの?
昨日は確かになかったのに。
不思議に思いつつも時間に押されて、あまり深く考えることができなかった。
まあ、いっか。
今度の土曜にどうせくるんだろうから、その時につけ直せばいいよね。
テーブルの上に首輪をおいて、瞳子は家をあとにした。
シャルル(仮名)の顔色が冴えなかったのは、迫ってきた時間に気をとられたからです。