附録 『文字というのは意外に難しいのです』
瞳子のリエンでの生活をちょこっと書いてみました。
でも目線は黒綺です。
「少し休憩を挟もうか」
「うに~」
分厚い魔法書を広げた黒綺の机の上に突っ伏した瞳子の頭をこつんと叩いて、黒綺はそばにいる従者にお茶を頼んだ。
「リエンの文字が読めないのはまだ仕方がないにしても、自分の名くらいは書いてもらわないと」
結婚式の時の誓約書に名を書けないではないか―――――
眉間にしわを寄せて、瞳子の机の周りに沢山散らかした紙の山を一つ拾って広げてみる。
子供よりも酷い字だな
この字を生涯残る誓約書に書くのかと思うと、ため息しか出て来ない。
「もー、漢字でいいじゃない! 私の名前なんだから、漢字で『瞳子』って書きたいよ!」
「……瞳子。 それは向こうの名前だろう? 力があるものが制御できる名を持たないとどういう風になるのか教えただろう。 瞳子にはリエンでの、魔法使いとしての名を与えたではないか」
「そっ……それはそうかもだけど! でも、私の名前は瞳子なの! 結婚する時くらい本来の名前を書いてもいいじゃないのーっ!」
「駄目だ」
「馬鹿黒綺っ!」
ぼふん
瞳子が背もたれにしていたクッションが飛んできた。
こんなことくらい、魔法を使えば簡単に元に戻すこともできるのだが、ここは敢えて当たっておかないと別のものが飛んでくる可能性があるので当たっておくことにした。
「ミツイさま?! 何をなさっておいでです!」
カイさまもそのくらい避けてくださいと、瞳子の教育女官が盛大にため息をついた。
ミツイというのは瞳子のこちらでの名になる。
瞳子がこちらに来ることを承諾してくれたときに私が付けた名でよい名だと自負しているのだが、瞳子の受けは悪い。
向こう側では名字になる、というのだ。
そんなものなのか?
けれどすでに言霊が瞳子を捉えて浸透したので今さら名前の変更などできないし、慣れてもらうしかない。
瞳子の言う漢字に直したらいい文字になると思うのだがな。
「ううう。 ……ごめんなさい」
なぜか物を投げつけた私にではなく女官にしおらしく謝っているのが笑いを誘う。
おやおや。 笑いを聞きつけて睨まれてしまったようだ。
お茶の用意が整ったので、剥れている瞳子の手を取ってティーテーブルまで連れてくると、そのまますとんと座った瞳子がまた女官に窘められている。
「ミツイさま。 何度言ったら覚えて下るのですか。 上位のカイさまが着席されない限り、座るものではありません」
「……はい、すいません」
「まあよいではないか。 ここは私の私室のようなものだし、そこまで畏まらなくても……」
「いけません! まだミツイさまはこちらに慣れていらっしゃらないのですから、慣れるまではいついかなる時でもきちんとした礼儀を重んじて行動すべきです!」
「いいよ、黒綺。 私が悪いんだし。 こちらに住むって決めたんだからこちらのしきたりに従うのが筋でしょ」
「ミツイさま! その言葉づかいはなんですかっ!」
「……はい、すいません」
女官の前ではいつも元気な瞳子もしおれてしまうらしい。
そんな瞳子もかわいいのだが、たしかにこちらのしきたりに早く慣れればなれるほど楽になるだろうから、瞳子には努力をしてもらわなければならないんだが。
ただ、アオイさまの波動が完全に消えたころから、瞳子の魔力がどんどんと強くなるのが感じられる。
扱いを間違うととんでもないことになりそうだ。
できるだけ早く魔力の制御方法や魔法の習得をさせたいんだが、いかんせんリエンの文字を書くことにすでにつまずいている状態だしな。
目の前で女官にお茶の作法の指導を受けながら女官にうんうんと頷く姿はまるで子供のようだなと、お茶を飲みながら観察していた黒綺の目の前に手紙が一通無造作に投げられた。
軌道をたどるとそこには疲れた表情のライが立っていた。
「ライ」
「預かりものだ。 義姉上しか読めないから渡してくれ」
「渡してくれと言われても、目の前にいるぞ?」
「おかえりなさい、国王さま。 ……千紗から?」
千紗という単語を瞳子が口に乗せた瞬間に、ライの顔が真っ赤になった。
いぶかしげにライを見ながら小さく織り込まれた手紙を広げると、くすくすと笑いながらライに「よかったね」と呟いた。
「今度また、お願いしますね」
「義姉上……こう見えて私は一応国王なんですがね?」
「もちろん! わかっていますよ? でも、それとこれとは違うでしょ?」
千紗に会いたくないとでも?
こっそり耳打ちした言葉に界渡りする前のキスを思い出した純情丸出しの国王がずざっと後ろに下がっていった。
「それに名前を貰ったのだったらあちら側に人形で渡れるでしょ?」
「なっ……なぜそれを!」
「なんだ。 そういうことか。 最近魔力の波動が伝わってこないときがあるとおもったら、向こう側に行っていたんだな」
「え? そんなに千紗のところに行っていたの?」
ライが反論しようとしたとちょうどそのタイミングで女官が瞳子の口のきき方を注意しようと口を開こうとしたため、「よい。さがれ」と遮り、瞳子の天敵(?)である女官を部屋から退出させた。
「うー……。 助かったあ」
晴れ晴れとした表情で、瞳子は凝り固まった首をがきがきいわせながら回して、肩をもみほぐしだした。
「なんだ。 義姉上は彼女が苦手か?」
「苦手っていうよりは、先生だし? 少しでも私をリエンに慣れさせてくれようと努力してくれているのはよくわかるんだけれど」
作法が違いすぎて窮屈なの!
はあああ、と盛大にため息をつく。
「瞳子はまだ呑み込みが早いほうだと思うが……字がな」
「うっ! それはいわないでーっ!!」
「字? 義姉上や千紗はあんなに難しい絵のような『漢字』という文字を書けるのに、どうしてリエンの文字が難しいのだ?」
「ううう……私が知りたい」
「読むほうは魔法で何とかなるだろうが、書くほうは覚えないとどうしようもないからな」
「へ? 読むのって魔法で何とかなるもんなの?」
じゃあ千紗の手紙もライは読めるってこと?
瞳子の疑惑の疑問が顔に思いっきり現れたようで、ライが不快に顔をしかめた。
「義姉上宛ての手紙だぞ? どうして私が読む必要があるんだ?」
「うっ。 ごめんなさい……ああっ!!! さっきの話の続き! ライってば何度向こう側にいってるの? ずるーいっ!」
「ずるいとは酷い言いがかりだな」
「ずるい、とは思わんが。 ただ、こう何度も波動が感じられなくなるというのはあまり褒められたことではないと思うが」
「……カイがいうのか、それを?」
「たしかにな」
くっくと喉の奥で笑いを堪えて、もともとの原因となった瞳子を見下ろすと、完全にむくれたようで小声で「ずるい、ひどい、いけず」と床に向かってこぼしていた。
「せめてきちんと名くらい書けるようになれば……連れて行ってもいいんだが」
「ほんと?!」
がばっと身を乗り出して期待に輝くきらきらとした瞳を向けられると、このまま抱きあげて寝室に連れていって声が出なくなるまで閉じ込めておきたくなる。
「カイ。 顔が崩れすぎているぞ」
「……そうか? ライこそ千紗に何をされた?」
「なっ……なぜそのことを?!」
あわてて拳を口元に上げたライを見て、何があったのかよくわかりすぎるほどわかった。
一国の国王が腹芸できなくてどうする。
女に免疫がないはずはないんだが、恋というものは国王をも馬鹿にするのか。
「黒綺! ちゃんと約束だからね? 見れるような字を書けたら向こう側に連れて行ってね」
「ああ。 約束だ」
「ありがとう!」
嬉しそうにほほ笑む瞳子を見るのは、久しぶりなのでは?
リエンに渡ってからの瞳子は、結婚式に向けてすることが多すぎて笑う余裕がなかったような気がする。
王族の結婚式ともなれば、そこそこの規模がどうしても必要になる。
そうすると瞳子の負担も増えるわけだから仕方がないといえば仕方がないのだが。
思ったよりも重荷を背負わせてしまうな。
嬉しげに飛び込んできた瞳子を抱きしめながら、黒綺は申し訳ない気持ちになっていた。
ちなみに。
瞳子が黒綺に飛び込んだその瞬間をしめしめとばかりに、二人から質問攻めになる前にそそくさと部屋を後にしたライがいた。
もちろん、退出したときに扉外に控えていた女官と従者にもう少しだけ部屋に入るのを待つようにということを忘れずに。