一冊目 第四話
手のひらをゆっくり試すように何度も何度も舐められて――――
ぎゃあああぁぁっ!
なんですかこれはいったい?
私ったらどこまで欲求不満なの―――!
舌のざらつく感覚と人肌の温かさを直に何度も感じて、瞳子は自分の想像力の豊かさに唖然としてしまった。
すごい、私!
こんな夢なんて、今まで見たことない。
舐める舌が瞳子の脈打つ手首へと場所を移し、しばらくじっとしていたかと思うと最後に軽く口づけをして離れていった。
――――これを残念だと思う自分って……。
羞恥で顔を上にあげることができない瞳子を、下から覗きこんで「まだわからない?」と目で話しかける。
わからない……わからないよ。
名前なんて、自分の子供以外に人に付けるなんてことないし。
こんなことこそ、されたことがないのに。
どうして。
ぎゅっと目を瞑って、バスタオルをきつく身体に巻いて。
瞳子は件の男をできるだけ避けるようにしているのに、その男はソファの上で抱え込むように座っている瞳子を抱き上げ、自分がソファに座り、その上に瞳子を座らせたのだ。
「!」
「いつも、お前がしてくれるからな。 たまには逆もいいだろう?」
えええええええ????
いつも……って!
してるわけないじゃん!
誰と間違えてるんだ!!!
それにいい加減、服、着させてくださいよー!
はずかしながら、わたくし、この年になるまで男の人とこんなこととかあんなこととか、想像では馬鹿みたいにしているけれども、実際はまったくないんだから!
抱擁から逃げようとしても、力は男のほうが上で。
この体勢から逃れれられるすべは……みつからない。
「あ……あの!」
「なんだ、瞳子」
とても優しい目で、とてもやさしい声で、私の名前を呼ばないでください。
「服を着たいんだけど」
「別にこのままでも困らんが」
「いやそれは! 私が激しく困るし!」
仕方がないというふうに腕の力を緩めてくれたので、そそくさと立ち上がって風呂場においてあるウェアをさっと着た。
……この間にいなくなってくれないかな。
ってか、早く夢が覚めないかな。
部屋に続くドア越しに、ちらっと中を覗いても……まるで知った家のようにくつろいでらっしゃいました、変態さん(まだいうか?)。
そういえば。
昨日の夢では、名前を思い出すまで何回も来るといっていたけれど。
思い出せば、夢にみなくなるとか、あり?
「何をしてる?」
「うわっ!」
考え事をしていたら、いつの間にか目の前に立っていらっしゃいましたよ、このお方。
心臓に悪いなあ。
「動けないなら、抱き上げようか?」
笑いながら言っているってことは、完全にからかわれてるよね?
「結構です」
もう絶対ソファには近づかないぞ!
瞳子はそのままパソコンが置いてあるデスクの椅子に腰かけて、ソファに座った男を冷静になってじっとみつめた。
うん。 このひと、全く知らない。
当然、名前なんてわからない。
けれど名前を考えて、当てないと。
このまま夢に出ずっぱだと、自分がどんだけ欲求不満なんだと落ち込みそう。
「コンスタンス」
「……なんだそれは?」
っち。
違ったか。
「アレクサンドロス」
「だからそれはなんだといってる」
え? 違うの?
ギリシア人らしい名前なんだけどなあ。
「もしかしてそれは人の名前か?」
「ぐ。 ……そうですよ。 名前ですよ。 だって名前教えてくれないから、考えるしかないし」
「あれほどわかりやすく教えたのに、わからないとは」
あれ?
昨日よりも落ち込んでいるよね?
そんなに重要なの?
「もう時間だ。 仕方がない、また来る」
私を抱きかかえたまま、すくっとソファから立ち上がった男の顔が、だんだんと私に近づいて……今度は口の端をくすぐるように軽く舐めて、私を見つめたままソファに降ろした。
「では」
昨日の夢と同じように、今日もまたガラス戸に手をにゅるっといれて、帰っていった。
その現実ではありえない冗談みたいな退場の仕方を茫然とただ見送って、瞳子はだんだん自分がわからなくなってきた。
どうしてどうしてどうしてどうして。
いきなりやってきた、不法侵入の不審者の超絶美形な変態が。
初めは本気で襲われると思っていたのに、そうじゃなくて。
まるでずっと前から知っているように私に接して。
知らないのに。
夢なのに。
どうしてこんなに苦しくなるの?
考えたくない。 もうわからない。
瞳子は、ソファの背もたれに掛けていた膝掛けを取って丸まっていた。
**********
うーん。
今日は洗濯日和だなあ。
カーテン越しに感じる陽の光が、とても気持ちよかった。
普段は閉めっぱなしにしているガラス戸を開けようとして、ふと夢の出来事を思い出した。
ここから出てきたんだよね?
なんとなく感傷にひたりながら戸を開けようとすると、ベランダにいつもの黒猫がやってきていた。
「おー。 黒綺!」
「ミャウ」
最近よくベランダにくる黒猫さん。
一人暮らしにはこういう癒しが必要です。
どこかの飼い猫だとは思うんだけれど、土日に必ず家に来る黒猫さんで。
前に一度サッシを開けていたときに入り込んでからというものの、黒猫さんはまるで我が家のようにこの家に居座るようになってしまいました。
めずらしいよね?
初めの頃はさすがに勝手に入られたので追い出したんだけど、何度もうちのベランダにやってきて、部屋に入れてもらえるまでそこでじっと中をみている。
だんだんと可愛くなってきて、つい名前まで付けちゃいました。
黒くてしなやかで綺麗な猫なので、黒綺。
『クロ』じゃあ当たり前すぎだもん。
平日には、ぜったいこない不思議な猫。
綺麗な毛並みをゆっくりと手の甲で撫でてから、ダニがいないかチェック。 うん、大丈夫。
それから黒綺はずっと私の後をついてまわって、洗濯物を干しているときはじっと座って待っていた。
「終わったよー」
「ニャウ」
どかっとソファに座ったら、すぐさま足の上に黒綺がやってきて座り込む。
ほんとうは黒綺を飼いたいんだけど、首輪してるしなー。
こうやって土日だけでも家に来てくれて本当に嬉しいけれど、でもこれって飼い主さんに失礼だよね。
「一度ご挨拶にいけたらいいのにね」
「ミャ」
私の言葉がわかるのか、いつもいいタイミングで鳴いてくれるところがとっても可愛い。
思わず抱き上げて、ちゅっとしてしまった。
いやだ。 夢のあいつを思い出したよ。
「あー、やだやだ。 黒綺、聞いてよー。 夢に変態さんが現れたんだよ。 でも、ちょっと格好いいけどね?」
「ミャウ!」
ぺろぺろぺろ
そんな奴と比べるなとばかり、黒綺が私の指を舐め出した。
「あはは。 変態さんと黒綺とじゃあ、黒綺のほうがずっとずっと格好いいよ? 心配なんてしないでね」
ちゅ。
ん~かわいい!
今まで動物は好きじゃなかったけれど、黒綺は特別。
……名前をつけたからかな?
そういえば、あいつも「名前を付けた」っていってたよね。
あはは。 まさか黒綺だったりして。
「さあ、掃除、掃除!」
「ミャウ!」
そんな馬鹿げた思いを振り切るように立ち上がって、平日の間に出来ない部屋の掃除をいつも以上に乱暴にし始めたのだった。