自主製作 第二十三話
「千紗、ごめん! ちょっとだけ待ってて」
「いいわよー? 別に。 でもこの『仕返し』は必ずするからね」
瞳子を確認できただけでも上々だとわかってるし?
阿吽の呼吸ではないけれど、勝手知ったる他人の心とでもいうのかどうなのか?
千紗には瞳子がかなり焦っていることがものすごく見てとれた。
それは件のライ猫とかなり関わりがあることもわかってる。
もちろん、目の前で胡坐をかいている黒綺も。
だから今回はここでしばらくの間待つことなんて何ともおもっていないかったし、心配し過ぎて疲れてしまった身体を休めるのにはちょうどいいと思っていたので、部屋を借りて横になることにした。
「じゃあ、話し合いが終わったら、起こしてねー? 明日、遅刻したくないしね?」
そういって二つある寝室の、知ってか知らずかリエンに通じる姿見のあるほうの寝室に入っていった千紗を見送って、瞳子は黒綺と向き合うことに気持ちを切り替えた。
「黒綺……あのっ」
「瞳子は瞳子の世界に帰るのだろう?」
「……え? そっ……そりゃあ帰るよ。 仕事あるしね?」
「だったらなぜ私を引き止める?」
なぜって……なぜって…………なんで? なんでそういうことを聞くかな!?
真っ白い肌に赤みが差すのがわかる。
そのことがどういうことなのか、どうして黒綺はわかってくれないのだろう。
切なくて切なくて、わかってもらえないもどかしさが、一つの涙となって床の上に落ちた。
「……瞳子?」
丸く濡れた床に驚いた黒綺が顔を上げると、ぎゅっとつぶった目からぽろぽろと落ちつづける涙が見えた。
「黒綺の……黒綺のあほ」
「ぼけ、かす、なんきん」と、嗚咽を隠すかすれた声で呟く瞳子を黒綺はただただ見上げることしかできなかった。
すいっ
細く綺麗な手が、黒綺の目の前に差し出される。
少し躊躇うようにその手を掴んで引き寄せると、バランスを崩した瞳子はそのまま黒綺の膝の上に倒れ込んだ。
「ばか黒綺」
しゃらしゃらと薄く鳴るブレスレットの音がしたかと思ったら、瞳子の手が黒綺の首にまわされて、押しつけるように唇を重ねた。
離れている時間を忘れさせてくれる、黒綺の唇。
ちょっと乾いて硬くなった唇。
自分の気持ちの全てを乗せて、啄ばむように、舐めるように、ただ押しつけるように、何度も何度も優しい口づけを交わした。
涙の味がする黒綺とのキス。
これがはじまりでありますように。
「愛してる。 私の世界なんてどうでもいい。 黒綺がいれば、そこが私の世界だよ?」
「瞳子」
黒綺のちょっと痩せた腕が瞳子の身体を包み込み、どこにも行かさないとばかりにきつく抱かれた。
何枚も何枚も着こんでいる衣裳の上からぎゅっと抱かれて、それがとても心地いいと思ってしまうほどに、瞳子は黒綺のことを欲していた。
毎日のように会っていた数カ月と放置された数カ月。
あの濃密な時間が急に無くなったときの不安感。
そして冷静になれなかった自分自身。
少しでも黒綺を匂わせるものにすがりついていたあの時間。
愛していると気づくまでの必要だった時間。
全てを捨てても黒綺がいてくれたらと願った時間。
だから今度こそ失敗をしたくない。
黒綺が今この腕の中にいるから。
「瞳子……それでも瞳子の世界に帰るのだろう?」
結局、瞳子は自分の世界にしかいようとはしないのだろう。
自分の世界を捨てるということがどういうことになるのか、黒綺はよく知っている。
アオイさまが界渡りをして、二度とリエンに帰ってこなかったように。
自分の世界を捨てなければ、心が引き裂かれてしまう。
「それは……だからっ! 帰るんだけれど!! いきなりいなくなると失踪扱いだからねっ!!」
「……失踪……?」
「そう! だから、向こうに戻って、会社を辞める手続きとか、マンションをどうするかとか、決めないとだめでしょ? リエンに行くにしてもちゃんと向こうでの生活を精算していかないとね」
だから帰るっていってるのに。 人の話を聞かないで、『帰る』ってことばっかりに気をとられてるんだから。
ばか黒綺。
「くっ。 くっ……くくく!」
急に上を向いてこれ以上ないほどに大声で笑い始めたかと思うと今度は先ほどとは比べ物にならないくらい力を込めて瞳子を抱きしめる。
そしてすっと真顔になって瞳子を見つめて言った。
「たしかに。 馬鹿だな、私は。 ……どうも瞳子が絡むと感情の調節がうまくできないようだ」
「へ? 感情の調節? 黒綺っていつも変態でしょ?」
「変態……。 くくくっ。 その言葉は瞳子の家に人の形で行ったときに言われた言葉だな」
「あー。 そんなことも言いましたっけ?」
「言ったな。 瞳子が話す言葉全て覚えているからな」
「うっ。 ……それはやはり変態さんだからですか?」
笑い声を上げながら瞳子にそれ以上しゃべらすまいと「うるさい」と言ってその口を口で塞いだ。
想いが叶った口づけはいままでとは比べ物にならないくらい情熱的で深く、廊下を渡った前の部屋に千紗がいるという事実を思い出さなければそのままどうにかなっていたんではないかと思えるほどの濃密さが漂っていた。
「リエンに、黒綺のそばに行くよ」
「では私の妻として来てくれるのか?」
「……はい」
はにかんだ瞳子の薄く赤く染まる頬に約束の口づけをして、黒綺は幸せを噛み締めていた。
向こう側で瞳子という半神の存在を見つけたときの感動と、魔力が足らずに人形になれずどうやって瞳子と知り合うことができるのかという不安と、奇しくも瞳子からもらえた名のおかげで向こう側での魔力が安定して人形になれることができ、そしてどうやったら瞳子に好いてもらえるのかと思考錯誤した数カ月。
なんとか自分自身を分かってもらえた時のあの喜び。
けれど瞳子の幸せは自分にはないと理解したときのあの深すぎる悲しみが、走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えていった。
愛する半神、愛する瞳子そのひとが腕の中で自分を信頼して身体を預けている。
そのことが人生において何よりも大切なものになった。
瞳子は。
黒綺と、もう離れることはない。
たしかに自分の育った世界を離れなければならないのは淋しくて辛いことかもしれないけれど、黒綺が横にいないことのあの不安感を味わうくらいなら世界なんて捨てることができる。
黒綺とずっとずっと一生一緒にいられるんだという喜びに勝るものはない。
二人はまるで夢のような時間を、千紗が起きて二人を見あきるまでずっと浸っていた。




