自主製作 第三話
にゅるり
異世界に渡る時間はたった数秒のことだけれど、その感覚は数回渡っただけでは決して慣れるものではない。
マンションのガラス戸に手を差し入れてから、異世界の部屋の姿見に出てくるまでがとてつもなく長く感じてしまう。 あの感覚、まるで水溶き片栗粉の中に体が埋没していくような。
黒綺はいつもこんな思いをして私のところまで来てくれるのかと思うと、何だか少しうれしくなった。
初めて異世界を渡った千沙を心配して見ると、やはり不快そうに顔を顰め、何もついてはいないけれど体を手でぱたぱたと払っていた。
「大丈夫? 千紗、ソファに座る?」
「う……ん」
部屋の反対側にあるソファに千紗を連れて行って座らせようとするとそこにはさきほど黒綺がいっていた『あいつ』らしき人物が私と千紗をじっと見ていた。
「え……っと?」
「ああ。 これは失礼した。 はじめまして。 我が義姉上」
……はい???
どーゆーことででしょうか?
初対面の人間にいきなり『義姉上』と呼ばれてしまいましたが。
突拍子もないことを平気で言ってくださった『あいつ』は、「さあ、ここにその娘を座らせなさい」とまるで自分がこの屋敷の主人のように振舞っていたけれど、そんなことは横っちょにおいておいて、ソファから『あいつ』が立って直ぐに震える千紗を座らせた。
「ライ。 ここはお前の城じゃない」
黒綺が近寄って、「ライ」と呼んだ男の前に立つ。
あれ?
ライと呼ばれた男と黒綺はとても髪の色が違うことを除けばそっくりだと言っていいほどよく似ていた。
黒綺は漆黒の髪、けれどライは黒檀のようなつやのある暗い茶。
「紹介が遅れたが、こいつは私の弟でリエン国王のライだ」
「ただのライ、だ。 よろしく、義姉上」
「瞳子です。 よろしく……?」
って?
『義姉上』って二回いいましたよ? このお人。
ライは黒綺の弟で、前に黒綺が自分の国だといっていた『リエン』という国の国王で。
それに、私のことを義姉上って……?
ちょっとまて。
私がいつ、黒綺と結婚したんだぁっ!
「へえ? 瞳子って結婚したんだー」
ソファの上でうずくまっていたはずの千紗のアンテナが敏感に反応したようで、いきなり核心を突いてきた。
「いやいやいやいや。 私、結婚なんてしてないよ!」
「そうでしょうねー。 披露宴に呼ばれてないし?」
「え? そこ?? 心配してるのはそこなの?」
「まさか、違うわよ」といいながら、ずいっと黒綺とライの前に出てきた千紗。
「お見苦しい格好で申し訳ございません。 さきほどは気分がすぐれなくて失礼いたしました。 瞳子の友人の千紗と申します。 お見知りおきを」
にっこりとほほ笑んだ姿は、『立てば芍薬座れば牡丹』さながらに美しかった。
……さっきまで確か倒れていたよね?
さすが千紗とでも言っておこう。
いやそれよりも、黒綺の時とは対応が違いませんかー?
「ライだ。 よろしく」
「私の時とは……別人だな」
「なんのことでしょう?」
おほほほ。
千紗のお尻に先のとがったしっぽが見える。
怖い……怖すぎるよ、千紗。
「……ちょっと黒綺、あっちにいこ?」
有無を言わさず黒綺の手を握って、そのままこの前目覚めたときに使っていた寝室に連れて行き、二人がついてこないことを確かめてから戸を閉めた。
「二人になりたかったのであれば、ライを追い出したのに」
「違ーうっ!」
「私は二人になりたかったが?」
頬に片手を添えられて、ちょっと嬉しくなるのはなぜ?
いや、ちょっと待て、私。
どうしてここに来たかを思い出そうよ。
「あのね?」
「なんだ?」
「どうしてライは私のことを『義姉上』って呼ぶのかな?」
「それは、瞳子が私の妻なのだからそう呼ぶのは当然ではないのか?」
ちょっと待てぇい!
いつ誰が誰の妻になったって?
「あのね? いつ私が黒綺の妻になったんですか?」
「……覚えてないのか?」
「何を?」
がーん。
擬音とともに黒綺の頭上に雨のような線が見えました。
この線、なんていうんだったっけ?
「まあ、『妻』になったというよりも『生涯を共にする相手』になったというほうが正しいが」
その言葉を口に出す時の黒綺の嬉しそうな口元を見ると、そんな相手になった覚えがないなんてとーっても言いづらいんですけど……。
「どちらにしても(ひどっ)、この前ここに来た時に約束したよね?」
「約束?」
「そう。 黒綺のことはもう疑わないから。 だからもっと黒綺のことを知って、黒綺も私のことをもっと知って、ゆっくり…あ……愛を育んでいこうねって。」
うわーうわーっ!
はずかしーっ!!
小説の中ならいくらでも『愛』という言葉を見慣れていても、自分が口に出して言う言葉じゃないんだよー!
慣れない言葉を使ったために耳まで真っ赤になった瞳子を、黒綺は愛おしそうに見つめて言った。
「愛してる」
瞳子の手をとって、そのまま自分の口元にもっていき、唇を押しつける。 自分の想いがそこからまるで瞳子に浸透していくかのように。
「黒綺?」
潤んだ瞳と赤く染まった頬。
その姿が黒綺にとってどんなふうに写るかなど、瞳子は全く分かっていなかった。
「お願いだから、ライにやめるように言ってね?」
「……そうだな」
「ありがと」
とりあえず『義姉上』と呼ばれなくなることにほっと一息ついた瞳子は、黒綺にちょいちょいと手でしゃがむように合図すると、そのまま黒綺の頬にちゅっと軽くキスをした。
「お礼」
そういって照れながらさっさと戸を開けてリビングに戻って行った瞳子を、その場で見送ることしかできなかった黒綺なのでした。