#8 裂果
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翌週。
誠実監査局医療部による仇岡夕陽の治療は、一応の安定を見せていた。数値上は回復。だが医師たちは誰一人として「治った」とは言わなかった。
脳波は平穏で、心拍も安定している。それでも、彼の内部で"何かが目を覚ましつつある"という報告が、データの隙間から漏れ出していた。
直木爆士は、モニターの光を浴びながら、ただ沈黙していた。机の上には幾つものファイル。
どれも誠実監査局特有の青い封筒で封じられており、表面には赤字で「概念変質の兆候」と記されていた。
手元のコーヒーはすでに冷め、苦味だけが舌に残る。
「……これが、誠実の代償か。」
呟きは、誰にも届かなかった。彼は書類を閉じ、現実へ戻るように深呼吸する。明日は、学校がある。教師としての顔を保たねばならない。仇岡のことも、局の機密も、誰にも言えない。
沈黙こそが、最も誠実な選択だ。
翌朝の教室は、異様な静けさに包まれていた。チャイムが鳴っても、誰も立ち上がらない。談笑も、雑音もない。まるでクラス全体が、息をひそめているようだった。
直木が教壇に立ち、出席簿を開く。視線が自然と仇岡の席に向かう。
そこには、誰も座っていない――はずだった。
机の上には、見慣れぬ落書きがあった。
黒いペンで描かれた胎児のような紋様。
だが、目を凝らすと、その線がわずかに脈打っているように見えた。
直木は思わず息を呑む。
誰かの悪戯か、それとも――。
教室を見渡せば、他の生徒たちも空白のような表情をしている。
何かが削り取られている。記憶か、時間か、それとも"誠実"という概念そのものか。
その夜。
帰宅した直木を、妻の沙耶香が不安げに出迎えた。
「……あなた、これ、知ってる?」
差し出されたのは、洗濯物のポケットから見つけたという小さな金属片。
それは、名札だった。仇岡夕陽の名前が刻まれた、あの名札。
しかし裏面には、黒いインクで大きく“誠実”の文字が書かれていた。インクは乾いているのに、触れた指先には微かな熱が残る。生きているような、そんな温度。
「……俺は、これを持っていなかったはずだ」
直木は呟いた。しかし、記憶の底にぼんやりと、フェラーリの助手席に、何か光るものが転がっていた映像が浮かぶ。
現実と記憶の境界が、少しずつ滲んでいく。
翌朝、仇岡が再び目を覚ましたという報告が入った。直木はすぐに医療部の隔離室へ向かった。
ガラス越しに見るその姿は、穏やかで、静かだった。だが、彼の目は焦点を結ばず、まるで別の何かを見つめているようだった。
「……おい、仇岡。聞こえるか?」
呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。唇が震え、言葉が零れ落ちる。
「……せい、じつ……なんだ、それは……だれ……」
意味を成さない言葉。
だがその瞬間、モニターが激しく点滅した。
脳波が左右反転するように同期と分離を繰り返し、ノイズ混じりの音が医療室を満たす。医師が慌てて装置を止めたが、画面の波形は、なおも生き物のようにうごめいていた。
――人格が、裏返っている。
直木は悟った。
これは病ではない。
誠実という"理念"そのものが、仇岡の内に巣食っているのだ。
その夜、誠実監査局の地下で、局長が報告書を差し出した。
「概念感染。人が誠実であろうとした瞬間、定義が崩壊し、空白を埋めるように『別の何か』が入り込む。」
そして、局長は低く言葉を続けた。
「直木……感染は拡大している。次に観測されたのは……」
直木は息を呑んだ。
「お前のクラス全員だ。」
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