#4 内省或いは当惑
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翌日、直木は目を覚ました。起き上がって見れば太腿が痛む。俺もこんなものか、と直木は呟いた。過去陸上で鍛えた持久力は、今では見る影も無かった。寧ろ昨日はよくあそこまで耐えられたものだ、と自嘲してみる。
階段を降りて台所へ向かう。妻は未だ寝ていた。いつもは早く起きて弁当を作ってくれるのだが、昨日、妻は仕事上の関係で遅くまで起きていた。彼女は大手証券会社の社員だ。昨日は顧客に対応していた結果、帰るのが深夜一時を過ぎてしまっていたのであった。テーブルの上には、湯呑とメモが置かれていた。
「朝ご飯は冷蔵庫にある。無理せず、今日も頑張ってね」
几帳面な筆跡に、かすかに疲れの影が滲んでいた。直木は湯を沸かし、冷めた味噌汁を温め直す。静かな朝の台所。それでも、彼の胸の奥では昨日の雨音がまだ響いていた。
ヘリの風、仇岡の叫び、そして"誠実"という言葉。あの瞬間、自分は教師ではなく、何か別の存在になっていた気がする。誠実を守るための戦士。そんな大仰な幻想を抱いていた。
スーツのネクタイを締め、靴を履き、玄関を出る。雨は上がり、空気はひどく澄んでいた。
校門をくぐると、いつもの朝があった。生徒たちの笑い声、チャイムの音、掲示板に貼られたプリントの端が風に揺れている。だが、その中に一人の姿があった。
仇岡夕陽。
彼は、昨日と違って名札をつけていた。胸の位置、少し歪んでいるが、確かにそこに名札はあった。
その小さな矩形が、朝日を受けてきらりと光る。直木は歩を止める。心の奥で何かが緩むのを感じた。ただの名札一枚。だが、そこに詰まった意味を彼は知っている。
「おはようございます、直木先生」
仇岡が、少し低い声で挨拶した。その顔に、昨日の生意気な笑みはなかった。かわりに、少し悔しげな仏頂面があった。
「……ああ。おはよう」
それだけ言って、直木は昇降口を通り過ぎる。背中で仇岡の気配を感じながら、ほんのわずかに唇が緩んだ。
職員室に入ると、里葉先生がすでに席にいた。書類を整理していた手が止まり、こちらを見る。
「おはようございます、直木先生。……足、まだ痛みます?」
「少しだけ。だが問題ない」
「昨日の件、報告書にどう書けばいいんですか。『教育的指導の一環』で通りますかね?」
冗談めかした声に、直木は苦笑した。
「誠実の実践活動、とでもしておいてください」
「それ、通るんですか?」
「通すんですよ、僕が」
二人の笑いが、静かな職員室に溶けていく。
外では生徒たちの声が響き始めた。チャイムが鳴り、校舎に一日のリズムが戻っていく。直木は窓の外を見つめた。雨上がりの校庭に、まだいくつかの水たまりが光っている。そこを、仇岡が走り抜けていくのが見えた。名札が風に揺れ、陽光を跳ね返す。
もう一度、信じてみようか。
人の誠実というやつを。
直木はゆっくりと目を閉じた。
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