第74話:蒼穹亭に吹く風
〜前回までのあらすじ〜
記憶を失った最強の男ロアスは、フィン、レオスと共に、自らの記憶を探す旅に出た。
彼らは交易都市ノクティアへ向かう途中、盗賊団ブラックペリルの奇襲を受け、フィンが攫われてしまう。
街で情報を集めたロアス一行は、雇った冒険者と共にブラックペリルの手掛かりを追い、六門評議会の代表者に会いに行く――
夕暮れの風が、鐘楼の影を長く伸ばしていた。
街を包む喧騒は次第に夜のざわめきに変わり、露店の灯が一つ、また一つと灯りはじめる。
焼き串の香ばしい匂い、笑い声、物乞いのすすり泣き――すべてがノクティアという街の現実を映していた。
ロアスたちは中央通りを進む。石畳に揺れる橙の光を踏みしめ、遠くに見える屋根を仰ぐ。
「あれが……《蒼穹亭》じゃよ」
メルザーが指さした先には、堂々たる三階建ての建物。
昼は依頼掲示と喧騒に満ち、夜は飲み騒ぐ声と演奏が響く――冒険者たちの城、混沌と情熱の象徴だ。
「ほらね、外からしてうるさいでしょ」
マインがため息をつく。
ロアスは扉の前で足を止めた。
(第一声は何と言えばいい……)
ふとフィンとの何気ないやりとりを思い出す。
『人と会った時、朝はおはよう。昼は、こんにちは。夜はこんばんは。というのですよ』
(夜だから『こんばんは』……で、いいよな?)
重い扉を押し開ける。
カランッ、カランッ。
ベルの音がやけに大げさに鳴り響いた。
酒場の熱気と騒々しい声が、一瞬で止む。
武装した冒険者たちが、入口を振り返った。
「テメェ、誰だ? 一般客か? 今日はもう閉店だぜ」
肩に剣を掛け、不機嫌そうに睨む男。肌には派手な龍の刺青。
テーブルには散らばる銀貨と、数字やマークの刻まれたカード。
「とっとと失せな」
すると別の男が、マインとメルザーに気づいて声を張った。
「おい、門外の女とジジィがいるぜ! 何しに来たんだよ」
「門外?」
ネロがつぶやく。
メルザーが小声で補足した。
「砂門亭のことじゃよ。あいつら、そう呼んで下に見とるんじゃ」
マインが一歩前へ出る。
「ダルゴ。ギルド長は?」
「あぁ? 門外の雑魚が気安く話しかけんなよ」
後方でニヤニヤしていた連中が笑い出す。
「ギルド長ならいねぇよー!」
「マインちゃん、また尻触らせてよー!」
酒場全体が、腕っぷしと傲慢さで満ちていた――ここが、《蒼穹亭》。
力と実力、酒と賭け事、虚勢と欲望が渦巻く、高ランク冒険者たちの巣窟。
ダルゴが立ち上がる。髪は油で固め、腕には無数の古傷。そして、肩には龍の刺青。
酒の匂いを漂わせながら、金貨の袋を卓に叩きつける。
「へっ、マインよぉ、久しぶりじゃねぇか。
今日はどんな雑用で来た? まさか依頼取りに来たんじゃねぇだろうな」
笑い声が広がり、ジョッキが掲げられる。
「砂門亭の連中が本部に来てるってよ!」
「珍しいな。おいダルゴ、酒でも賭けるか? 俺は“すぐ逃げる”に一票!」
「ははっ、俺は“泣き出す”に一票だ!」
どっと笑いが湧いた。悪意そのものの空気が酒場を満たす。
マインが小さく息を吸い、肩を張る。
「いい加減にしなさい。アーヴィンギルド長にビビってるくせに、いない今だけイキがって……恥ずかしくないの?」
「おっと、怖ぇ怖ぇ」
ダルゴが両手を広げておどける。
「イキがってる? ちげぇな。アーヴィンのオッサンは“仕事”で留守だ。
今夜は俺がギルド長代行ってわけだ」
「なら、本当のギルド長はいつ戻る」
ロアスの低く重い声。笑い声が止み、空気が張りつめた。
無言のまま、ロアスはダルゴを見据える。
その瞳に宿る冷たい光――それだけで場の空気が変わった。
「……てめぇ、何だその目は」
ダルゴが歯を食いしばる。
「門外のクズが偉そうに睨みやがって……」
ロアスが一歩、また一歩と近づく。
椅子に座るダルゴを自然と見下ろす形になり、
背後の冒険者たちが思わず身を引いた。
空気が軋み、どこかで誰かが唾を飲む音。
酒と血の匂いが混じり合う。
「……おい、ダルゴ。大丈夫か? なんかコイツ、おっかなくねぇか」
「は? ただの門外の新入りかなんかだろ。馬鹿にされたまま引き下がれっかよ」
ダルゴは椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。
「その目……気に入らねぇな」
ざわり、と周囲が動く。
武器に手を伸ばす者、賭け金をせり上げる者。
熱と狂気が一気に酒場に広がった。
「おい! 蒼穹亭と門外で五対五の模擬戦やろうぜ!」
「おっ、面白ぇ! 誰が出るんだ!?」
野次と歓声が入り混じり、
《蒼穹亭》は一夜の闘技場と化していく。
マインはメルザーと目を合わせ、肩をすくめた。
「……やっぱり蒼穹亭は好きになれないわ」
「この歳でガキのお守りは辛いのぉ……」
ダルゴが挑発的な笑みを浮かべ、ロアスに視線を向ける。
「よーし、決まりだ! 選ばせてやる。お前ら、木刀か真剣か……どうする?」
(どうやら、コイツ等を黙らせなければ、ギルド長に会うことはできないようだな)
ロアスは片腕を伸ばし、視線で空気を変える。
「なら、素手だ」
低い声が酒場の喧噪を押し潰す。
ダルゴの顔が歪む。
「お? 殴り合いか? 顔がわからなくなるまでボコボコにしてやるよ!」
「いや、お前等は真剣でも何でも好きにすればいい」
「は?」
「俺は素手。そして、一人でやる。お前等は束で好きなだけかかって来い」
歓声にも似た嘲笑と拍手が上がる。挑発の音だ。「ヒューッ!」「カックイイ!」
「調子乗ってんな。おい、模擬戦部屋を空けろ」
ダルゴが剣を床に叩きつけ立ち上がる。
「ダ、ダルゴさん。良いんすかね? あの部屋勝手に使っちゃあ……」
「うるせぇ、朝までに片付けときゃバレねぇ。俺の言う通りにしとけ!」
「は、はい」
顎でついてこいと指示をしながら奥の部屋に入っていく。
周囲も武器を手に取り賭け金をせり上げる。
「ロアスさん、やめて! あの連中、全員B等級以上。ダルゴは蒼穹亭イチのA等級よ!」
「そ、そうじゃぞロアス殿、さすがにこれはヤバいぞ。ワシ等も加勢――!」
メルザーとマインが身体を張って止めようとするが、レオスがその二人の肩を掴んで制した。
「ちょ、どうしたのレオス?」
焦る二人に、レオスは口元を歪め、肩をすくめた。
「ま、大丈夫だ。アイツに任せとけ」
そのまま気にせず酒場の奥へと歩みを進めるロアス。
模擬戦部屋は――血と鉄と汗の匂いが混じる、戦いの残滓に満ちていた。
剣傷だらけの板壁にこびりついた血痕が残り、藁人形と擦り切れた木剣が無造作に寄せられた、古びた稽古場の趣だった。
そこにぞろぞろと八人ほどの冒険者がロアスを取り囲む。その後方から残りの冒険者等と、レオス、ネロ、マイン、メルザーは見守る。
ダルゴが剣を抜き放ち、瞳孔を見開き、親指で喉を掻き切る仕草をしながら叫ぶ。
「へへ、血祭りにしてやる!」
ダルゴが飛び出す。
――刃が閃いた。
最初の一撃は予想よりも速い。鋼の風がロアスの頬をかすめる。
続いて群れを成して襲いかかる男たち。普通なら捌けるはずがない――だが、その「普通」は数秒で崩れた。
ロアスは片手で刃を受け止め、受け流す。
衝撃は彼の腕を伝って消え、逆に相手の体勢を崩す。
そのまま的確に顎を、鼻っ面を、拳で、肘で叩きつける。
「――ギャッ!」「――グエッ!」
次々とノックアウトしていく。
鈍い衝突音。床板が軋む。
「はぁ? どうなってんだ……」
誰かが呟いた。
歓声が一瞬、凍る。
ロアスの動きは、まるで“重心そのもの”が敵を操っているかのようだった。
一歩動くたび、刃の軌道が逸れ、力が抜けていく。
素手でありながら、その拳は鎧を叩き潰し、体ごと床へ沈めた。
「ヤバ……あれ、生身かよ?」
「喰らえッ! ――《餓狼双剣斬》!!」
ダルゴの咆哮が響いた。
両手の剣が獣の牙のように交差し、弧を描く。
踏み込みと同時、二本の刃が唸りを上げて襲いかかる――速い。
その軌跡は目で追えぬほどだった。
ロアスは一瞬、瞳を細める。
(剣、見失った――)
次の瞬間、甲高い衝突音が響いた。
素手と剣が正面からぶつかった音だ。
辛うじて刃を受け止めたロアス。その腕を伝い、筋肉の奥まで震わせる。
押し込まれた床板が軋み、足元の埃が舞う。
「死ねぇッ!」
ダルゴが吠え、もう一振りの刃が頭上から振り下ろされる。
双剣の軌跡が狼の牙のように重なり――迫る。
(見えた)
しかし、その瞬間。
ロアスの手が動いた。
片腕で斬撃を受け流し、指先で柄をはじく。
鈍い金属音とともに剣が宙を舞った。
視線がそれを追った刹那――
もう一方の拳が、閃光のように走る。
鈍い衝撃。
ロアスの拳がダルゴの肋を貫き、空気を吐き出させる。
「ぐ、がはっ……!」
膝が崩れ、ダルゴの体が床を打つ。
双剣のうち一本が、乾いた音を立てて転がった。
沈黙。
それが、やがてざわめきに変わった。
「何が起こった……」「今素手で真剣を受け止めたぞ……!」「マグレだろ!?」
戸惑いながらも襲いかかる冒険者たち。
ロアスは投げ、掴み、地面に叩きつける。
刃を振るう腕をねじり、関節を極め、床に沈める。
血飛沫はわずか。だが呻き声だけが、部屋に散らばっていった。
「ロアスさんって……何者!?」とマインから驚愕の声。
「ほんと、それ……」ネロは頭を抱える。だが声は歓声に飲み込まれた。
一体、二体──五体。
倒れ伏す男たちの間を、ロアスは歩く。息一つ乱さず。
残ったのは、ダルゴとわずかな取り巻きだけだった。
「て、テメェ……!」
ダルゴは顔を歪め、剣を握りしめる。
だがその手は震えていた。
ロアスが一歩、また一歩と近づく。
踏みしめる音だけが響く。
「下っ端倒したくらいで……調子に乗るな」
しかし、声は震えていた。自分の体が言うことを聞かない。ロアスの視線が、まるで獣に見据えられたように感じた。
「俺はこれからが、本気だ!」
叫びとともに飛びかかるダルゴ。
ロアスはその刃を躱し、柄を掴み、逆手にひねって奪い取る。
その勢いのまま、ダルゴの肩を掴み、床へ叩きつけた。
鈍い衝撃。
ダルゴは呻き、動かなくなる。
酒場が爆発したように沸いた。
歓声、賭け金の叫び、罵声、どよめき――すべてが渦巻く中、ロアスは静かに立ち上がる。
ただ一度、倒れたダルゴを見下ろす。
その目に宿るのは、怒りでも嘲りでもない。
“警告”だった。
――次は容赦しない、と。
そのとき。
酒場の扉が開く。
「――おい」
扉が軋み、冷気のような声が流れ込んだ。
「ア、アーヴィンギルド長……!」
その名を呼ぶ声に、誰もが凍りつく。
「よ、予定より随分お早いご帰還で……」
模擬戦部屋で倒れ込む冒険者たちを一瞥し、口を開く。
「……状況を、説明してもらおうか」
場の熱は一瞬で引いていた。
ダルゴの取り巻きが蒼白になり、観衆は息を潜める。
ロアスの静けさとは異なる威圧感がその場を支配していた。
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