第51話:アテネの過去
〜前回までのあらすじ〜
記憶を失った最強の男ロアスは、フィン、レオスと共に、記憶の手がかりを求め旅に出る。
ウェイシェムから脱出し放浪中、キャラバンのメンバーとしてに迎え入れられ、新たな仲間たちとノクティアへと向かう。そんな中、ロアスとアテネは夜の砂丘で語らう一方、盗賊団ブラックペリルはキャラバンを急襲し、交戦状態となっていた。
アテネは、星々を映す瞳を夜空に向け、口を開く。
「私、過去の記憶がすごく朧げなのですわ……心因性健忘、という言葉をご存知でしょうか?」
ロアスは首を傾げる。
「わからない。なんだそれは」
「酷いことが起きたとき、人はその記憶を閉じ込めてしまうことがありますわ。思い出せば心が壊れると、脳が勝手に鍵をかけるんですの」
ロアスは眉間に皺を寄せた。
「ほう。脳に鍵……か。わかりやすい表現だ」
「そう。脳が思い出すことを、自分を再び傷つけるものと判断し、無意識に記憶を遮断する防衛機制の一種と言われていますわ」
アテネは、わずかに顔を上げてロアスを見つめた。
「恐らく私も、過去の酷い体験からそうなったと考えています。もしかすると、あなたも……」
ロアスは答えず、ただ静かに星空を見上げる。
「私……怖いんですの。過去を知ってしまったら、今の自分が壊れてしまう気がするから。だから、記憶なんてなくていいって、ずっと思ってきましたわ。今持っている記憶ですら、無くしてしまいたいくらいに」
夜風が砂を巻き上げ、二人の間に静けさが広がる。ロアスは低く答えた。
「……それはお前の選択だ。好きにするがいい。だが、捨てたいほどの記憶か。余程なんだろうな」
アテネは小さく息を吐き、再び夜空を見上げる。星々が涙のように揺れて見えた。
「ねぇ、ロアスさん……わたし、ずっと気になっていたことがあるの」
「どうした」
「わたし、自分の記憶が、その、こんな感じでしょう? 仲間から思い出すように言われたこともあるの。でも……」
「怖い、と言ってたな」
「ええ。だって、もし思い出した記憶がろくでもないものだとしたら、今の自分をもっと追い詰めてしまうもの。それに、記憶が蘇ることで、今の生活や、みんなとの時間が全部幻のように思えてしまったら……耐えられませんわ」
砂漠の静寂が、答えの代わりに広がる。
「あなたは、そんなこと考えませんの? 自分がもし、罪のない人間を虐殺していた悪党だったとしたら……今のフィンちゃんやキャラバンの仲間たちに嫌われるかもしれない。それでも、記憶を求める旅を続けますの? ……怖くはなくて?」
ロアスは目を閉じ、しばらく考えたあと、低く答えた。
「……怖いよりも、知りたいが勝っている。俺は、自分が何者なのか知りたい。それを知った上で、今の俺がどう生きるべきなのかを決めたい」
アテネは、かすかな笑みを浮かべながら夜空を仰いだ。
星々のきらめきが瞳に映り、頬を柔らかく照らしている。
「……強いですわね。わたしにはできません。今に満足しているのなら、このままでもいいって思ってしまいますの。
真実なんかより、予測できない変化が……怖いんですの。でも、こうしてロアスさんと話せて、少し楽になりましたわ」
ロアスは無表情のまま、淡々と答えた。
「……お前が何を求めて相談したのかはわからない。だが、少しでも楽になったのなら、それでいい」
星明かりに照らされたアテネの横顔は、砂漠の冷えた空気の中でしっとりと輝き、どこか妖しくも見えた。
「……お前、じゃありませんわ」
「?」
「アテネ――って呼んでくださいまし。
家名もわからないけれど、私の覚えている、確かな名前ですの。
私も、呼び捨てにしてもよろしいかしら……ロアス?」
ロアスの眉がわずかに動いた。だが声色は変わらない。
「ああ、構わない。……しかし夜も深い。キャラバンに戻るぞ」
その言葉を拒むように、アテネは彼の腕にそっと身を寄せた。
柔らかな感触が肘に伝わり、ロアスの呼吸がほんの僅かに乱れる。
「待ってくださいまし。もう少し……ロアスに、私のことを知っていただきたいのですの」
「アテネのこと……」
口調は変わらぬまま。しかし、胸の奥で鼓動が速くなっていく理由を、ロアスは理解できていなかった。
「私の過去を……お話ししても、よろしいですか?」
――そしてアテネは、彼の肩にそっと頭を預ける。
吐息がかかるほどの距離で、彼女は自らの記憶を語り始めた。
「私、どこで生まれたのかもよく覚えておりませんの。覚えているのは、幼少期、顔も思い出せない両親のこと。とても優しかった両親の影、そして、その両親に仕えていた方々によくしていただいていた……そんな記憶」
「両親の顔……」ロアスがつぶやく。
「で、はっきり思い出せるのは八年ほど前、私が十三歳の頃ですわ。私はアッシュピット――イーラディア帝国のスラムで、奴隷として売られていましたの」
「奴隷に……?」
ロアスは驚きの色を隠せなかった。
「はい。あの頃の私は何も持っていませんでしたの。ただ、名も知らぬ男に買われ、望まぬことを強いられる日々……。そんな中で唯一与えられたのが魔術でしたわ。どうやら私は魔術因子を持つ奴隷として売られたらしく……適齢期を迎える前に、無理やり魔術を叩き込まれましたの」
「無理やり……エレカの話では、成人前の魔術行使は危険だと言っていたな」
ロアスの声は低く、砂に溶けるように響いた。
「ええ。下手をすれば、細胞が拒絶反応を起こして死ぬ可能性もありましたわ。幸い、魔術適性が高かったらしく、その歳で私は魔術を行使できるようになりました」
「……それが、アテネの魔術の始まりか」
「そう。そして、そんな中、私をそこから連れ出してくれた方々がいましたの。あの人たちがいなければ、私はきっとそこで壊れていた」
「どんな人たちだったんだ……?」
「ペラーナという女戦士が率いる集団ですわ。彼女には部下が二人いました。私と同じくらいの華奢な少年と、騎士崩れの大男。偶然にも、彼女たちもセラフィトラ国の出身でしたの」
「……よかったな。解放されて」
ロアスは静かに言った。
アテネはゆっくり首を横に振る。
「でも、私は思い知らされることになります。救われたわけではない、と。
ペラーナは恐ろしく強く、残忍な人でした。時に甘えるように頭を撫でてきたりもしましたが、それすら支配の一環に思えたほど……
そうして彼女の労働力の一つとして取り込まれましたわ」
「……新たな支配の始まり、か」
ロアスの声は低く、星明かりに吸い込まれるようだった。
「そう。しかも、彼女たちもイーラディア帝国軍に追われる身で、とにかく捕まらないよう必死に逃げ続ける毎日でした……死ぬ思いでしたわ」
「奴隷だった頃とどちらがマシだったんだ?」
「それはもちろん、奴隷の頃よりは幾分かはマシでしたわ。同じ境遇の仲間がいる。それだけで、心は少し軽くなるのですの。やがて、追手はますます激しくなり、やがて私たちはアッシュピットの最下層、《灰哭街》へと逃げ込みました」
「灰哭街……」ロアスはつぶやくように言った。
「瓦礫と泥と病が混ざり合う場所でしたわ。そこで生きるのは地獄。でも……同時に、初めて『居場所』を感じたのもあそこでした。居場所をなくした子どもたちを拾っていき仲間に入れましたの。私と同年代の男の子二人と、年端もいかない女の子三人。どの子も、人とろくに関わったことのないような子たちでしたわ」
「俺のようにか」
「あら、そんな風には思ってませんわ。ふふふ。
……そうですわね。例えば、異国の言葉しか喋らない子。蚊の鳴くような声しか出せない子。気が強くてすぐ手が出る子もいれば、怖がりで泣いてばかりの子もいて……あとは、人と目を合わせられない子もおりましたの」
「俺より厄介そうだな。しかし、赤の他人を拾ってまで世話を焼いたのはなぜだ」
「その時はペラーナの独断。その真意は知りませんわ。それで、共に行動するようになり、一緒に食べ、一緒に眠る。いつ死んでもおかしくない状況で……思い出すと、胸が苦しくなりますわ」
「そこで、どうやって生きてきたんだ?」
ロアスは黙って、星空を見上げたままアテネの言葉を受け止める。
アテネの眼差しは自然と鋭くなり、その声は刃のように冷たくなった。
「……泥水をすすり、盗みを働き、時に嘘で人を騙す。綺麗事だけでは生き残れませんでしたわ。
子供達にもそれなりに情が芽生えましてね。飢えた目をさせたくなかった。そのためなら、私はなんでも利用しましたの。
この容姿も、言葉も、女であることさえも――。生き延びるための武器にしましたわ」
ロアスは夜空を見上げたまま、その言葉を黙って噛み締める。
「九人分の口を満たすには、誠実さだけでは足りませんでしたわ。だから私は笑って取り入り、裏で切り捨て……必死で繋ぎとめたのですの。権力者と交渉して仕事を取ってくるのは私。こなすのは男たち。その繰り返しで、どうにか生活を回しましたわ。
生きるって、綺麗なものではありませんわ。けれど――あの子たちの寝顔を見れば、それだけで十分でしたの」
「そのペラーナというのは何もしないのか」
「ペラーナは他の女の子たちの得意なことを見つけ、生きる術を教え……いえ、調教していましたわ」
「皆、自分の役割を持っていたわけか」
アテネは目を細め、思い出を抱くように両手を胸の前で重ねた。
「そうして三ヶ月もする頃には、その子達も加わって“仕事”に参加するようになりましたの。やんちゃな子達で……毎日のようにトラブルだらけでしたけどね。しばらくは、そんな日々が続きましたわ」
ロアスは短く息を吐き、砂を指先で掬い上げながら次を促した。
「そこから一年近く経ったある日――イーラディア軍人が《灰哭街》に私達の存在を嗅ぎつけましたの」
アテネの声が少し低くなる。
「その時、ペラーナは決断したのです。全員でこの街……いいえ、イーラディア国領を離れ、セラフィトラ国に逃れるべきだと」
「それで、本当に国を出れたのか」
ロアスの吐息が夜の冷気に混じり、砂に溶けた。
「ええ、ニ年ほどで。困難は山ほどありましたけれど、どうにか。でも気づいたら、私たち九人は……生き残るために牙を持つ集団へと変わっていたのです。帝国軍の追手を退けられるほどに」
ロアスは視線を空に向けたまま、ひと呼吸置いて尋ねる。
「その“女の子”たちも、強いのか?」
アテネは小さく頷き、星々を仰いだ。
「それぞれに魔具を握らせたんですの」
「……ダラスが説明していたやつだな」
「そう。魔術因子を持たぬ子供でも戦えますわ。代償として命を削りますけれど、皆、今を生きることに必死。迷うことなんてありませんでしたわ」
アテネはわずかに伏し目がちになり、唇に影を落とす。
「実際、使いすぎて気を失った子もいましたの……」
夜風が砂をさらい、二人の沈黙を撫でていく。
「魔具は何度か使うと壊れるのです。だから常に新しいものを用意しなければなりませんでした」
「……使用に限りがあるのか?」
「ええ、特質魔術系統は比較的長持ち、通常魔術はすぐ壊れますわ。魔術を込められた物質が力に耐えられなくなるからです」
「そういう仕組みなのか」
ロアスは短く返す。アテネは小さく息を吐き、首を傾げた。
「ごめんなさい、話しすぎましたわ。ロアス……気になることはありませんの?」
「実は今、探している魔具がある。もし壊れていたら、手掛かりがなくなる」
「魔具は使い終えると灰になりますわ。ちなみにどんな魔具ですの?」
「ウェイシェムの情報屋から、“記憶を喰らう魔具”の噂を聞いた。それが俺の記憶を奪ったかもしれん。もしかするとアテネの記憶も……」
アテネの表情がわずかに曇る。
「記憶を……喰らう? 聞いたことありませんわ。他の情報は?」
「……その情報屋は、それを“ブラックペリル”が所有していると言っていた」
その名が告げられた瞬間、アテネの目が鋭く揺れた。
「デマですわね。それはあり得ませんの」
「あり得ない? なぜだ?」
ロアスはアテネの瞳を見つめ、返事を促す。
アテネはしばし視線を伏せ、そして静かに首を振った。
「……ええ、あり得ませんわ。だって……」
アテネは言葉を飲み込み、唇を噛んだ。
※9/2 ロアス″さん″のつけ忘れ箇所修正。
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