第0話:記憶を失くした、その日
ーーこれは、第1話より前のお話
走る。
ただ、走る。
鉄床を叩く靴音。無機質な廊下を、赤い警告灯が断続的に染める。
──ビービービー……
《緊急事態発生。危険生命体反応検知。全“レクシス”は即時配備せよ。全非戦闘員は直ちに退避せよ──》
耳を突き刺す電子音。思考はまとまらない。
どちらへ向かうべきか? 逃げるべきか? それとも──違うのか。
──ガン、ガン、ガン──
遠くから複数の足音。黒服の“レクシス”だ。敵か、仲間か?
うるさい。思考が散る。
ただ、俺は走る。すると、声。
「待ちなさい!」
振り返ると、白衣の女が立っていた。
赤髪をきつく結い、冷えきった蒼い瞳で俺を射抜く――母親のようでもあり、所有欲のようでもある、あの目が気味悪い。
「ちょっと! どこへ行くつもりなの!?」
「逃げてはだめ。あなたには使命がある」
──またか。
くどい。耳に残る。距離を取っても、声は追ってくる。
「願いを一つだけ、叶えて欲しい」
ふざけるな。
行き止まり。振り返ると、女は両腕を差し出し、まるで子どもを止める母親のように迫る。
「あなたは──最強なんだから!」
心臓が焼ける。汗が頬を伝う。視界が滲む。
「……指図するな。俺は俺だ、貴様の物ではないッ!!」
重厚な鉄の障壁を前に、拳を振り上げる。
「な、あんた! やめなさい!」
女の声も、後ろの“レクシス”も制止する。
──俺を、縛るな。
──俺は“そんな奴”になど、ならんッ!!
拳が鉄を割る。轟音、火花、風圧。壁はひしゃげ、剥がれ落ちた先には──
──吹き荒れる白。爆風。凍てつく虚空。
体が浮く。重力が狂い、足場が消え、息ができない。
無音。警報も怒鳴り声も消えた。残るのは、骨を砕く加速と圧だけ。
空を裂き、宇宙を突き破る勢いで、俺は舞い上がる。
速度は増し、身体が焼けるように熱くなる。視界は閃光に染まり、世界ごと壊れていく。
いや──これは、堕ちているのか?
やがて、霞んだ視界に飛び込む青と緑の世界。
燃える空を裂きながら、意識も、記憶も、音も──全てが砕けた。
──俺は、この世界から拒絶されているのか?