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「ジルさんって、誰かに愛されたこと、ありますか?」
その問いに、私はページをめくる手を止めた。
本の内容はまったく頭に入ってこなかった。
ここは、学生用の自習室の奥――誰も使わなくなった書庫に近い隅の席だ。
クリス・ビッジは、いつもこの場所に来る。
華やかな庭園でも、賑やかな食堂でもなく。
彼女は、静かな場所を選ぶ。
「……唐突ね」
私が答えると、クリスは困ったように笑った。
彼女の髪は鈍色で、光を吸い込むように黒い。
そしてその瞳もまた、何かを隠すような静けさを宿している。
「変なことを言ってるのは、分かってます。でも、最近……よく分からなくて」
彼女は両手をぎゅっと組み合わせる。
その仕草は、どこか幼い。だが――その奥に、切実さがあった。
「スティーブさんに、花を贈られたんです。しかも、同じ日にサムさんとロナルドさんから手紙が来てて……でも、私、誰にも何もしてないのに」
私は黙って耳を傾ける。
「皆さん、すごく親切で優しくしてくれるんです。でも、どこか違う。……“気に入られている”とか、“特別扱いされている”とか、そんな感じ。私が知らない私を、皆が見てるみたいで」
それは――“チャーム”の効果だった。
彼女が無自覚に発している、魔力を含んだ魅了。
それに、男たちは抗えずに惹かれていく。
だが、彼女自身は知らない。
「……怖いの?」
「ううん、ちがうんです。怖い、というより……私なんかが“好きになられてる”のが、信じられない」
そう言って、彼女は俯いた。
「私、昔から目立たないし、胸も小さいし……本当はただの普通の子なんです。なのに、どうして急に……? ……誰かが、私を愛してくれてるって、信じてもいいのか分からなくて」
その瞬間、私の中に小さな痛みが走った。
“誰かが私を愛してくれているかもしれない”
それを「怖い」とも「うれしい」とも言えず、ただ「信じていいのか分からない」と呟く――
そんな彼女の在りようが、あまりにも危うくて、無垢で、壊れやすいものに思えたからだ。
私は少しだけ間を置いて、言った。
「信じるのは、あなた自身が“それを望んだとき”よ」
「……え?」
「愛されていると思いたいなら、そう感じればいい。でも、もしそれが“違う”と胸のどこかで思うなら、信じない方がいい。だって、恋は“心”で始まるものだから」
クリスは、小さく息をのんだ。
その顔に浮かぶ表情は、子供のような戸惑いと、大人のような切実さが入り混じっていた。
「ジルさんは、どうしてそんなに強いんですか」
「……強くなんてないわ。私はただ、壊れないようにしてるだけ」
それを“強さ”と言ってくれるのなら、少し皮肉な話だった。
その日以来、クリスは時折、私のもとを訪れるようになった。
自分の中に芽生え始めた“気持ち”を言葉にするために。
それが恋なのか、幻想なのか――
まだ彼女には、分からないままで。