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アントニオ・コロマ・ニコラスと初めてまともに会話をしたのは、侯爵邸の南庭だった。


当主ユベールは領地に発っており、ミシュリーヌ夫人は昼下がりの音楽会へ。

屋敷は静かで、陽の落ちかけた庭に、黒いシルエットがひとつ佇んでいた。


「……ジル・ガーデニ。聞いているよ。君が、クリス・ビッジを調べていると」


低く、よく通る声。

振り返った先には、緩く巻かれた黒髪と、琥珀色の瞳。アントニオがいた。


「私の名前を知っていたとは、意外です」


「君の動きが静かすぎて、逆に目立った。侯爵家の者でも、屋敷の台所から使用人の部屋を通って中庭の書庫へ入るなど、そうそうできない。まして、侯爵夫人の“お召し”を受けた子なら、なおさらね」


彼はそう言って笑ったが、その瞳の奥は笑っていなかった。


私は返す。


「それでは、こちらからも。あなたが“夫人の恋人”として社交界で囁かれていることは、ご存知ですか?」


「もちろん。噂とは、反論しない方が香ばしく熟すものだ」


軽く肩をすくめる彼の姿は、まさに“燕”と呼ばれるにふさわしい洗練と余裕があった。


「でも――私は彼女を口説いたことは一度もない。手も握らない。ただ、隣にいただけだ」


「……なぜ、そうしているのですか?」


「彼女の夫が、私の唯一の恩人だからだ」


一瞬、私の呼吸が止まった。


「ユベール様が?」


「戦火を逃れてこの国に来た私と家族に、最初に食事をくれたのがユベール・ウィッターだ。あの男のためなら、私はなんだって捨てる」


「なのに、夫人と?」


「――彼女が私を、たまさか“選んだ”だけだ。私は、何も求めていない」


そのとき、私は理解した。


この男は、恋をしている。

ただし、それは言葉にしてはならない、赦されない種類の愛だ。


だからこそ、距離を保つ。噂を否定しない。手を出さない。

けれど、それでも――隣にいる。


「……あなたに、頼みたいことがあります」


私がそう言ったとき、アントニオの目がわずかに細められた。


「君が?」


「“チャーム”のことを知っていますね。クリス・ビッジが無自覚に魔法を放っている。そして、彼女に惹かれた男たちが次々と理性を崩しつつある。スティーブ・パンジョンも、王子も、騎士の息子も。これは偶然ではありません」


アントニオはうっすらと眉を上げた。


「……君がそこまで知っているとは」


「夫人から依頼を受けたのは事実です。でも、これはそれ以上の問題です。侯爵家にとっても、王家にとっても。魔法の暴走は、やがて誰かの破滅を招く」


私の声が、自然と硬くなった。


「あなたの立場では、表立って動けないでしょう。でも、私に情報を渡すことはできる。あなたの見てきた“社交界の動き”を教えてください」


アントニオはしばし黙っていた。

だがやがて、ふっと目を閉じて、呟いた。


「……君は、誰の味方だ?」


「クリスの味方です。彼女が誰かを傷つける前に止めたい。けれど彼女が傷つくのも、私は望まない」


「……なるほど。では、俺は――夫人の味方であり、夫人の敵にならない範囲で、君に協力しよう」


その言い回しは、誠実な曖昧さだった。

けれど、これ以上を求めることはできない。彼はすでに限界まで踏み込んでくれた。


「条件がひとつある」


「何でしょう?」


「……もし君が、真実に手をかけて、それでも“あの子”を止められないと判断したとき。最終手段を、俺に任せてくれ」


そのとき、アントニオの目は、戦場に生きる者のそれだった。


「了解しました」


私たちは、その場で握手もしなかった。契約書もない。ただ言葉を交わしただけ。


けれどその瞬間、静かに、しかし確実に。

侯爵家の陰で動き出した“調査隊”に、もう一人、強力な協力者が加わったのだった。

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