表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/32

侯爵家の馬車が学園の正門に現れたのは、秋めいた風が強くなり始めた昼下がりのことだった。磨き上げられた黒い車体に、金の紋章。通行人の目を集めながら、馬車は静かに止まった。


その日、私は珍しく図書塔の階段を降りたところだった。メイドのネルが私を見つけて、すぐに駆け寄ってくる。


「ジル・ガーデニ様ですね? ウィッター侯爵夫人が、お話があると。今すぐ学園外の茶館までお越しくださいませ」


侯爵夫人。ミシュリーヌ・ウィッター。

侯爵当主ユベール・ウィッターの正妻にして、あまりにも「侯爵夫人らしすぎる」存在。

私とは、遠い遠い世界の人間だと思っていた。だから、なぜ私に声がかかったのか、まるで見当がつかなかった。


――けれど、行かないという選択肢は、なかった。



茶館「ロシュブラン」。

侯爵家御用達の上等な場所だった。室内には季節の花が飾られ、香り高い紅茶の匂いと淡い菓子の香りが満ちている。


「あなたが……ジル・ガーデニさん?」


その声は、柔らかく、けれど揺るがなかった。

ミシュリーヌ・ウィッターは、白いレースのドレスに包まれ、絵画のようにそこにいた。だがその笑みは、まるで一枚の仮面のようだった。


「はい。ご用件をお伺いします、夫人」


「まずは、お茶を」


そう言って微笑むと、彼女はティーカップを優雅に口元へ運んだ。


しばらく沈黙が続く。けれどその沈黙は、無駄ではなかった。


夫人は、沈黙を“武器”にできる人だった。


「……ねえ、ジルさん。あなた、クリス・ビッジさんとお友達なんですって?」


「……はい」


「彼女、最近お綺麗になったわねぇ。鈍色の髪も、あれはあれで魅力的だと思うの。とても……不思議な、雰囲気。ね?」


夫人の視線が、カップの縁から私の瞳を正確に捉える。


「いえ、お綺麗なのは事実ですが……何か問題が?」


「ううん。問題というほどじゃないの。けれど、最近ちょっと、奇妙な“風”が吹いてるの。例えば、私の甥——スティーブ。彼、少し変じゃない?」


「……」


「それにね、王子、騎士、文官……あらゆる男の子たちが“あの子”に夢中なの。あら、これっておかしいかしら?」


夫人の声は優雅なままだった。けれど、その指先が皿の縁を静かに叩いている。


「そこで、お願いがあるの。ジルさん、あなた、冷静でしょ? 目立たないけれど、よく観察している。そういう子、私、好きよ」


彼女はティーカップをそっと置いた。


「ねえ。彼女に何が起きているのか、探ってくださらない? あなたに報酬を出すのは、やぶさかじゃないわ。お望みなら、侯爵家からの“推薦”だってつけてあげられる」


――それは、貧しい領地の娘である私にとって、喉から手が出るほど欲しかった“未来”だった。


けれど私は、一つ、言葉を飲み込んでから問い返した。


「なぜ……ご自分で動かれないのですか? 侯爵家の権力であれば、調査は容易なはずです」


すると夫人は、ふっと目を伏せ、紅茶を一口含んでから、声を低くした。


「私が動いたと知れば、あの人が怒るわ。ユベールは、噂話には耳を貸さない人。でもね、“無垢な少女の笑顔”には、気を取られることもあるのよ」


一瞬、ミシュリーヌ夫人の指が震えた。

それは、ただの嫉妬ではない。

あの優雅さの奥に、確かに“恐れ”があった。


「いいえ、勘違いしないで。私はユベールを信じてる。でも、彼は……とても遠い人だから。だから、事前に手を打っておきたいの」


「……承知しました。お引き受けします、夫人」


「まぁ、嬉しい。さすがだわ、ジルさん」


彼女は心から嬉しそうに微笑んだ。


そのとき私はまだ知らなかった。

私が請け負ったこの密偵の役目が、学園の、そして侯爵家の均衡を崩していくことになるとは。


けれどその日、私は茶館を出るとき、確かにひとつの決意を胸に刻んでいた。


——クリスを守るためにも、私は真実を知る。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ