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侯爵家の馬車が学園の正門に現れたのは、秋めいた風が強くなり始めた昼下がりのことだった。磨き上げられた黒い車体に、金の紋章。通行人の目を集めながら、馬車は静かに止まった。
その日、私は珍しく図書塔の階段を降りたところだった。メイドのネルが私を見つけて、すぐに駆け寄ってくる。
「ジル・ガーデニ様ですね? ウィッター侯爵夫人が、お話があると。今すぐ学園外の茶館までお越しくださいませ」
侯爵夫人。ミシュリーヌ・ウィッター。
侯爵当主ユベール・ウィッターの正妻にして、あまりにも「侯爵夫人らしすぎる」存在。
私とは、遠い遠い世界の人間だと思っていた。だから、なぜ私に声がかかったのか、まるで見当がつかなかった。
――けれど、行かないという選択肢は、なかった。
*
茶館「ロシュブラン」。
侯爵家御用達の上等な場所だった。室内には季節の花が飾られ、香り高い紅茶の匂いと淡い菓子の香りが満ちている。
「あなたが……ジル・ガーデニさん?」
その声は、柔らかく、けれど揺るがなかった。
ミシュリーヌ・ウィッターは、白いレースのドレスに包まれ、絵画のようにそこにいた。だがその笑みは、まるで一枚の仮面のようだった。
「はい。ご用件をお伺いします、夫人」
「まずは、お茶を」
そう言って微笑むと、彼女はティーカップを優雅に口元へ運んだ。
しばらく沈黙が続く。けれどその沈黙は、無駄ではなかった。
夫人は、沈黙を“武器”にできる人だった。
「……ねえ、ジルさん。あなた、クリス・ビッジさんとお友達なんですって?」
「……はい」
「彼女、最近お綺麗になったわねぇ。鈍色の髪も、あれはあれで魅力的だと思うの。とても……不思議な、雰囲気。ね?」
夫人の視線が、カップの縁から私の瞳を正確に捉える。
「いえ、お綺麗なのは事実ですが……何か問題が?」
「ううん。問題というほどじゃないの。けれど、最近ちょっと、奇妙な“風”が吹いてるの。例えば、私の甥——スティーブ。彼、少し変じゃない?」
「……」
「それにね、王子、騎士、文官……あらゆる男の子たちが“あの子”に夢中なの。あら、これっておかしいかしら?」
夫人の声は優雅なままだった。けれど、その指先が皿の縁を静かに叩いている。
「そこで、お願いがあるの。ジルさん、あなた、冷静でしょ? 目立たないけれど、よく観察している。そういう子、私、好きよ」
彼女はティーカップをそっと置いた。
「ねえ。彼女に何が起きているのか、探ってくださらない? あなたに報酬を出すのは、やぶさかじゃないわ。お望みなら、侯爵家からの“推薦”だってつけてあげられる」
――それは、貧しい領地の娘である私にとって、喉から手が出るほど欲しかった“未来”だった。
けれど私は、一つ、言葉を飲み込んでから問い返した。
「なぜ……ご自分で動かれないのですか? 侯爵家の権力であれば、調査は容易なはずです」
すると夫人は、ふっと目を伏せ、紅茶を一口含んでから、声を低くした。
「私が動いたと知れば、あの人が怒るわ。ユベールは、噂話には耳を貸さない人。でもね、“無垢な少女の笑顔”には、気を取られることもあるのよ」
一瞬、ミシュリーヌ夫人の指が震えた。
それは、ただの嫉妬ではない。
あの優雅さの奥に、確かに“恐れ”があった。
「いいえ、勘違いしないで。私はユベールを信じてる。でも、彼は……とても遠い人だから。だから、事前に手を打っておきたいの」
「……承知しました。お引き受けします、夫人」
「まぁ、嬉しい。さすがだわ、ジルさん」
彼女は心から嬉しそうに微笑んだ。
そのとき私はまだ知らなかった。
私が請け負ったこの密偵の役目が、学園の、そして侯爵家の均衡を崩していくことになるとは。
けれどその日、私は茶館を出るとき、確かにひとつの決意を胸に刻んでいた。
——クリスを守るためにも、私は真実を知る。